金俊
金俊 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 김준 |
漢字: | 金俊 |
発音: | キム・ジュン |
日本語読み: | きん しゅん |
RR式: | Gim Jun |
MR式: | Kim Chun |
生涯
編集
崔忠献︵チェ・チュンホン︶の家奴だった金允成の子として生まれた。崔瑀︵チェ・ウ︶に推薦され、崔沆に仕え、殿前承旨などに命された。
高宗44年︵1257年︶、崔沆が死ぬと、子の崔竩︵チェ・ウィ︶が務める執権に不満を抱き、高宗45年︵1258年︶3月、林衍︵イム・ヨン︶・柳璥・崔昷らと共に三別抄を使って崔竩を暗殺した。
崔氏政権を打倒して王権を回復させた功労により、正四品の将軍として衛社功臣の称号が与えられた。元宗元年︵1260年︶、衛社功臣の序列を改正し、柳璥を第5位に退けて、代わりに金俊を第1位に押し上げ、枢密院副使となった。元宗5年︵1264年︶、教定別監に任命され、国家の非違の糾察と国使観察を担当した。続いて門下侍中になり﹁海陽侯﹂に奉じられて、かつての崔忠献になぞらえて権勢をふるった。
元宗9年12月︵1269年1月︶、国王の親モンゴル政策に反対したため、側近の林衍に暗殺された。
家族
編集
●父親‥金允成
●兄弟‥金沖︵?-1269年︶
●兄弟‥金承俊︵?-?︶- 金沖の改名前の名前との説もある。
●夫人‥未詳
●息子‥金用材︵?-1269年︶- 後に金主に改名する。
●息子‥金碩材︵?-1263年?︶- 戊午政変後に死亡したと推定される。
●息子‥金大材︵?-1269年︶
●愛人‥未詳
●息子‥金皚︵?-1269年︶
●息子‥金棋︵?-1269年︶
●息子‥金靖︵?-1269年︶
文化に見られる金俊
編集参考文献
編集- 「アジア人物史 4」 集英社 2023年
関連項目
編集
先代 崔竩 |
高麗武臣政権の執権者 1258年-1268年 |
次代 林衍 |