錦木塚五郎 (2代)
力士
来歴
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1831年11月初土俵︵二段目︿現在の幕下﹀︶。1835年11月東二段目8枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。その場所、8勝0敗1預の無敗の好成績で、優勝相当成績を挙げた[1]。その後十両でもたつくも、1839年3月場所で6勝2敗2休の成績を挙げ、十両で2度目の優勝相当成績を挙げた[1][2]。翌1839年11月場所で新入幕を果たし、5勝0敗2休2分1預と無敗だった。次の1840年2月場所も西前頭筆頭に上がりながらも、8勝1敗1分︵5日目に稲川政右エ門に負けるまでは、入幕以来9連勝だった[3]︶と好成績を挙げた。だが両場所とも後に横綱に昇進する者に優勝をさらわれた︵1839年11月…天津風雲右エ門︿当時、西小結で6勝0敗2休2分。後の第9代横綱・秀の山雷五郎﹀、1840年2月…不知火諾右衛門︿当時、西大関で8勝0敗2休。この場所後横綱免許を貰い、第8代横綱となった﹀︶。次の1840年11月場所後に小結に昇進したが、それまでの快進撃とは裏腹に5割前後の勝率まで落ち込んだ[1]。1842年2月場所後の7月11日に、現役のまま死去。生年は不明だが、初土俵から逆算すると30~40代だったと見られている。
幕内通算6場所、26勝10敗11休8分2預1無の成績を残した。優勝相当成績2回︵十両時代の1835年11月,1839年3月場所︶。歌川国貞によって錦絵が現存しており、江戸東京博物館に収蔵されている[4]。十両時代は幸運に恵まれたが、幕内では一転して不運になった土俵人生だった。
改名歴は1回ある‥三ツ鱗 → 錦木[1] 余談だが、兄がおり同じ三ツ鱗の四股名を名乗っていた事がある︵但し、幕下止まりのまま引退︶。