長久保宿
中山道六十九次のうち江戸から数えて27番目の宿場
長久保宿(ながくぼしゅく)は、中山道六十九次のうち江戸から数えて27番目の宿場。元々は長窪宿と表記していた。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/78/Hiroshige%2C_Man_on_horseback_crossing_a_bridge.jpg/250px-Hiroshige%2C_Man_on_horseback_crossing_a_bridge.jpg)
概要
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現在の長野県小県郡長和町長久保。共に難所であった和田峠と笠取峠との間にあって、最盛期には旅籠が50軒近くある比較的大きな宿場であった。宿場の発展と共に町並みが横丁の先に広がり、カギ型に曲がった珍しい形の宿場町となった。
本来の表記は長窪郷に含まれる﹁長窪﹂であったが、宿で生活する人々が﹁窪﹂の字を敬遠し、久しく保つの意味の﹁久保﹂に縁起をかついだらしい。安政6年︵1859年︶には宿方から代官所へ宿名変更の願書すら出されたが、許可はされなかったようである。そのため、以降も公文書には﹁長窪宿﹂と記されていたが、明治になりようやく認められた。
天保14年︵1843年︶の﹃中山道宿村大概帳﹄によれば、長久保宿の宿内家数は187軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は721人であった。
長久保宿場札
編集最寄り駅
編集参考文献
編集- 「信州の文化シリーズ 街道と宿場」信濃毎日新聞社 1980年