1814年憲章
1814年憲章︵フランス語: Charte constitutionnelle de 1814︶は、ナポレオン戦争敗北後のフランスの臨時政府と元老院が王政を復活させる憲法草案︵元老院憲法︶を1814年4月6日に起草したところ、これを拒否したルイ18世が1814年6月4日に公布した欽定憲法である。
1814年憲章
ルイ18世︵当時のプロヴァンス伯爵ルイ・スタニスラス・グザヴィエ︶は、国民の意志に基づき王位に就くのではなく、1795年のルイ17世の死後神権に基づき王位に就いたという建前から、公布の日付が﹁朕の治世の19年目︵notre règne le dix-neuvième︶﹂と記されるなど、元老院憲法とは相容れないものであった。ナポレオン1世の百日天下後、1815年7月までは施行が停止された。
憲章は妥協、さらに宥恕[1]の文書を目指し、革命と帝政の諸成果を保持しながらブルボン朝を再興する。﹁シャルト︵Charte︶﹂はアンシャン・レジーム的な語であり、﹁コンスティテューショネル︵constitutionnelle︶﹂は革命的な語であるなど、その題名自体に妥協の跡が色濃く表れているのである。
憲章により、国王は国政上中心的役割を担い、親政が確立される。﹁フランスの全権は国王一身にある︵L'autorité tout entière (réside) en France dans la personne du Roi︶﹂[2]とされ、この憲章により国王は﹁神聖不可侵︵inviolable et sacrée︶﹂[3]とされるのである。
憲章の法文
編集起草委員会
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1814年5月18日、不公告の命令により、ルイ18世は22人からなる﹁起草委員会︵commission de rédaction︶﹂を設置した。
議長はダンブレで、次の者を含む。
●﹁国王の委員︵commissaires royaux︶﹂3人‥モンテスキュー、フェラン、ブニョ
●元老院議員9人‥バルベ=マルボワ、バルテルミー、ボワシ・ダングラ、フォンターヌ、ガルニエ、パストレ、ユゲ・ド・セモンヴィル、セリュリエ、ヴィマール
●立法院議員9人‥ブランカール・ド・バイユール、ショーヴァン・ド・ボワ=サヴァリー、シャボー=ラトゥール、クローゼル・ド・クセルグ、デュシェーヌ・ド・ジルヴォワザン、ファジェ・ド・ボール、フォルコン、レネ、ペレ=デュアメル
初会合は5月22日。
憲章の性格
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この憲章は、フランスの国政に携わる者︵国王と両議院︶の責任規定を全面再編する文書である。
ルイ=フィリップの﹁1814年の回想録︵Souvenirs de 1814︶﹂によると、ルイ18世は憲章を現在まで有効な古来の基本法の特例、換言すれば新王国基本法のようなものとはみなしていなかった。憲章が王位継承や摂政に関して何も定めていないからである[4]。ルイ18世は憲章を君民協約のようなものではなく、単に旧体制下の全国三部会や高等法院に代わって、国王が国民に与えた諸権利を定め、国民に妥協して王権との関係を調整する勅許状のようなものとみなしていた[5]。
憲章の内容
編集王政の法意
編集欽定憲章
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憲章は、将来のすべての法律および行為はこの憲章の条項を尊重しなければならず、国王も臣民と同様に従わなければならないとしている。しかし、王党派の一部は、憲章は国王が授与したものであることから、国王一身の下に位置するものと解釈する。
また、憲章は国王によって政策的に授与されたものとされ、フランス革命の語彙を避けている。国王ルイ18世はフランスの人々を安撫しようとするのである。
憲章前文
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前文では、国王は﹁長きにわたる不在︵longue absence︶﹂から戻り、臣民の父、そして調停者たらんとし、﹁臣民の願い︵vœu du peuple︶﹂には﹁国王にふさわしい︵digne du roi︶﹂行動によって応えるとうたわれている。
また、﹁時の連鎖を結び直す︵renouer la chaîne des temps︶﹂必要があるとうたわれており、フランス革命とナポレオン時代は忘れ去られるべき悪夢にすぎないとしている。もっとも、アンシャン・レジームとの連続性が求められるとはいえ、絶対王政への回帰はしないとしている。
妥協の試み
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この憲法は明らかに当時のイギリスの立憲君主政体を模範としたものである。すなわち、
●イギリス風の二院制議会を確立している︵貴族議員・勅任議員からなる貴族院と公選議員からなる代議院︶。
●この憲法による政治体制は準議院内閣制ということができる。明文上、議院による内閣の打倒は予定されていないが、﹁勅語奉答︵adresses︶﹂の制度が徐々に確立され、13条︵内閣は責任を負う旨定める︶の責任客体の範囲が拡張解釈されるようになる。
このように、制度的には権力相互間で抑制と均衡が図られ、政治的には王政が復活するが、もはや革命で否定された専制ではなくなるなど、多くの妥協の試みがあることがわかる。
しかるに、超王党派は憲章に猛反対し、法文を無視して絶対王政へ回帰しようとした。これに対し、自由主義的王政主義者の一派は純理派と呼ばれた。
脚注
編集- ^ 1814年憲章11条
- ^ 1814年憲章前文
- ^ a b c 1814年憲章13条
- ^ (Robert 2007, p. 65)
- ^ (Robert 2007, p. 66-67)
- ^ a b 1814年憲章9条
- ^ 1814年憲章8条
- ^ 1814年憲章5条
- ^ 1814年憲章6条
- ^ 1814年憲章12条
- ^ a b c 1814年憲章14条
- ^ 1814年憲章16条、22条
- ^ 1814年憲章55条
- ^ 1814年憲章54条
- ^ 1814年憲章15条
- ^ 1814年憲章27条
- ^ a b 1814年憲章38条
- ^ a b 1814年憲章40条
- ^ 1814年憲章37条
- ^ 1814年憲章50条
- ^ 1814年憲章57条、58条
- ^ 1814年憲章65条
- ^ 1814年憲章68条
- ^ 1814年憲章67条
- ^ 1814年憲章71条
- ^ (Troper & Hamon 2008)
- ^ (Caron 2002, p. 9)
関連項目
編集参考文献
編集- Revue Jus Politicum, n°13, dossier "La Charte constitutionnelle du 4 juin 1814. Réflexions pour un bicentenaire" (contributions d'Armel Le Divellec, Jacky Hummel, Lucien Jaume, Oscar Ferreira, Alain Laquièze, François Saint-Bonnet, Grégoire Bigot et Patrice Rolland). Lire en ligne : http://www.juspoliticum.com/-No13
- Robert, Hervé (2007). Les princes d'Orléans, Une famille en politique. Economica
- Troper, Michel; Hamon, Francis (2008). Droit constitutionnel. L.G.D.J.
- Caron, Jean-Claude (2002). La France de 1815 à 1848. Armand Colin
- 山本浩三 (1958-10-25). “王政復古の憲法(一)訳”. 同志社法學 (同志社法學會) 10 (3): 116-121. CRID 1390009224912152448. doi:10.14988/pa.2017.0000009278. NAID 110000400896 .
- 山本浩三 (1959-02-28). “王政復古の憲法(二)完・訳”. 同志社法學 (同志社法學會) 10 (5): 121-127. CRID 1390009224912158080. doi:10.14988/pa.2017.0000009291. NAID 110000400908 .