ウルマス
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ウルマス(? - 1277年)は、モンゴル帝国に仕えたナイマン人の一人。『元史』における漢字表記は月里麻思(yuèlǐmásī)。
概要
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ウルマスはナイマン部の出身で、1237年︵丁酉︶にオゴデイに命じられてシギ・クトクとともに華北地方の統治を任じられた。1238年︵戊戌︶、アジュル・バアトルとともにダルガチとされ、宿州を破った[1]。
1241年︵辛丑︶、ウルマスは南宋へ和議の使者として派遣されたが、出発に当たり70人余りの従者に対し﹁我と汝らは命を奉じて南下するが、楚人︵南宋民︶は偽りが多い。たとえ死ぬことになったとしても、君命を辱めるな﹂と語ったという。淮河に至ると南宋の将軍がこれを迎え、ウルマスを脅して﹁汝の生死は我が手中にある。もし南宋に降るのならば官爵が与えられるが、そうでなければ必ず汝にとって貸になるであろう﹂と述べた。これを受けて、ウルマスは﹁不義︵モンゴルを見限り南宋に降る︶を行うよう誘うのならば、我は死を選ぶだけである﹂と述べ、ウルマスを降らせることはできなと見た南宋の将はウルマスを長沙県の飛虎寨で囚われた。36年後の1277年に亡くなった[2]。
クビライはウルマスのことを深く悼み、ウルマスの子の忽都哈思にダルハンの地位を授けるとともに毎日糧食を家人に供給させるよう命じ、ウルマスの一族が生活に困らないよう計らった。忽都哈思はこれを受けてクビライに対し﹁臣も願わくば国のために死して、父の汚辱を雪ぎます﹂と申し出、クビライもこれを嘉納し均州監戦万戸の地位を授けた。その後、忽都哈思は招討使の地位を授けられて日本遠征に従軍し、1281年︵至元18年︶に遠征先で戦死した[3]。
脚注
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(一)^ ﹃元史﹄巻123列伝10月里麻思伝,﹁月里麻思、乃馬氏。歳丁酉、太宗命与断事官忽都那顔同署。歳戊戌、又同阿朮魯抜都児充達魯花赤、破宿州﹂
(二)^ ﹃元史﹄巻123列伝10月里麻思伝,﹁歳辛丑、使宋議和。従行者七十餘人、月里麻思語之曰﹃吾与汝等奉命南下、楚人多詐、倘遇害、当死焉、毋辱君命﹄。已而馳抵淮上、宋将以兵脅之、曰﹃爾命在我、生死頃刻間耳。若能降、官爵可立致。不然、必不汝貸﹄。月里麻思曰﹃吾持節南来、以通国好、反誘我以不義、有死而已﹄。言辞慷慨、不少屈。宋将知其不可逼、乃囚之長沙飛虎寨三十六年而死﹂
(三)^ ﹃元史﹄巻123列伝10月里麻思伝,﹁世祖深悼之、詔復其家、以子忽都哈思為答剌罕、日給糧食其家人。忽都哈思自陳於帝曰﹃臣願為国効死、為父雪恥﹄。帝嘉納之、授以上均州監戦万戸。十八年、以招討使将兵征日本、死於敵﹂