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「オットー3世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2016年10月}}

{{基礎情報 君主

{{基礎情報 君主

| 人名 = オットー3世

| 人名 = オットー3世

| 各国語表記 = Otto III.

| 各国語表記 = Otto III.

| 君主号 = ローマ皇帝

| 君主号 = [[神聖ローマ皇帝]]

| 画像 = Meister_der_Reichenauer_Schule_002.jpg

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| 画像説明 = オットー3世と家臣団

| 画像説明 = オットー3世と家臣団

| 在位 = [[983年]] - [[1002年]](王)<br/>[[996年]] - 1002年(皇帝

| 在位 = [[983年]] - [[1002年]](王)

| 戴冠日 = [[983年]][[12月25日]](王)<br />[[996年]][[4月12日]](イタリア王)<br />[[996年]][[5月21日]](皇帝)

| 戴冠日 =

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| 全名 =

| 出生日 = [[980年]]7月

| 出生日 = [[980年]]7月

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| 死亡日 = [[1002年]][[1月23日]](21歳没)

| 没地 = パテルノ城([[ファレーリア]]

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| 埋葬日 =

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| 埋葬地 = {{HRR}}、[[アーヘン]]

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| 配偶者1 =

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| 配偶者2 =

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'''3''''''Otto III.''', [[980]]7 - [[1002]][[123]]西[[|]][[]]3[[996]]7 - [[1002]]4[[983]]7 - [[1002]][[1002]]21[[2 ()|2]][[1 ()|1]][[]]<ref>p. 134</ref>

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== 生涯 ==

== 生涯 ==

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=== 親政時代 ===

=== 親政時代 ===

[[994年]]より14歳で親政を開始<ref name=N131 />。オットー3世は[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]を復興して[[神政政治]]を行おうとする意志を抱いていた。

[[994年]]より14歳で親政を開始<ref name=N131 />。オットー3世は[[ローマ帝国|古代ローマ帝国]]を復興して[[神政政治]]を行おうとする意志を抱いていた<ref>三佐川、p. 141</ref>



オットー3世も祖父や父と同様に[[イタリア遠征]]を敢行<ref name=N131 />。ローマ貴族クレッシェンティウス2世の反乱により[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス15世 (ローマ教皇)|ヨハネス15世]]が[[ローマ]]から追放され救援を乞うたのが要因であった<ref>瀬原、p. 108</ref>。だが[[996年]]4月初旬にヨハネス15世は熱病で死去。オットー3世は同年[[4月12日]]の[[復活祭]]まで[[パヴィーア|パヴィア]]に滞在したのち軍を進め、地元貴族を退けてローマに入城、祖父オットー1世の曾孫ブルーノを[[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]として教皇に選出した(996年[[5月3日]])<ref name=N132>成瀬他、p. 132</ref><ref name=S109>瀬原、p. 109</ref>。[[996年]][[5月21日]]にオットーはグレゴリウス5世から帝冠を受け、皇帝位に就いた<ref name=N132 /><ref name=S109 />。

オットー3世も祖父や父と同様に[[イタリア遠征]]を敢行<ref name=N131 />。ローマ貴族クレッシェンティウス2世の反乱により[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス15世 (ローマ教皇)|ヨハネス15世]]が[[ローマ]]から追放され救援を乞うたのが要因であった<ref>瀬原、p. 108</ref>。だが[[996年]]4月初旬にヨハネス15世は熱病で死去。オットー3世は同年[[4月12日]]の[[復活祭]]まで[[パヴィーア|パヴィア]]に滞在したのち軍を進め、地元貴族を退けてローマに入城、祖父オットー1世の曾孫ブルーノを[[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]として教皇に選出した(996年[[5月3日]])<ref name=N132>成瀬他、p. 132</ref><ref name=S109>瀬原、p. 109</ref>。[[996年]][[5月21日]]にオットー3世はグレゴリウス5世から帝冠を受け帝位に就いた<ref name=N132 /><ref name=S109 />。




3<ref name=S110>p. 110</ref>[[]]3西

3<ref name=S110>p. 110</ref>[[]]3


オットー3世がローマを離れるとクレッシェンティウス2世は東ローマ皇帝[[バシレイオス2世]]の援助を受けて反乱を起こし、996年9月にグレゴリウス5世を追放し、翌[[997年]]5月に[[対立教皇]][[ヨハネス16世 (対立教皇)|ヨハネス16世]]を立てた。しかしオットー3世は同年冬に進軍を開始し、翌[[998年]]2月にはローマに凱旋する。ヨハネス16世は逃亡したが拿捕され、鼻と耳を削がれ、舌も切り取られ、手の指を折られ、眼を潰され、オットー3世とグレゴリウス5世の面前にて職位失効が宣言された。そののち現在のドイツ中部の[[フルダ]]修道院に移送された。またクレッシェンティウス2世は[[サンタンジェロ城]]に篭城したものの、オットー3世は[[998年]]の[[復活祭]]に城を陥落させ、[[4月29日]]に斬首のうえ遺体を城壁に吊るした<ref name=S109 />。

オットー3世がローマを離れるとクレッシェンティウス2世は東ローマ皇帝[[バシレイオス2世]]の援助を受けて反乱を起こし、996年9月にグレゴリウス5世を追放し、翌[[997年]]5月に[[対立教皇]][[ヨハネス16世 (対立教皇)|ヨハネス16世]]を立てた。しかしオットー3世は同年冬に進軍を開始し、翌[[998年]]2月にはローマに凱旋する。ヨハネス16世は逃亡したが拿捕され、鼻と耳を削がれ、舌も切り取られ、手の指を折られ、眼を潰され、オットー3世とグレゴリウス5世の面前にて職位失効が宣言された。そののち現在のドイツ中部の[[フルダ]]修道院に移送された。またクレッシェンティウス2世は[[サンタンジェロ城]]に篭城したものの、オットー3世は[[998年]]の[[復活祭]]に城を陥落させ、[[4月29日]]に斬首のうえ遺体を城壁に吊るした<ref name=S109 />。

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=== 古代ローマを夢見て ===

=== 古代ローマを夢見て ===

[[Image:Otto III wird von Papst Gregor V. zum Kaiser gesalbt.jpg|right|thumb|180px|グレゴリウス5世に聖油で聖別されるオットー3世]]

[[Image:Otto III wird von Papst Gregor V. zum Kaiser gesalbt.jpg|right|thumb|180px|グレゴリウス5世に聖油で聖別されるオットー3世]]

オットー3世は古代ローマ帝国の宮殿が建てられていた[[パラティーノ|パラティーノの丘]]に古代ローマ様式の宮殿を新たに造営し<ref>成瀬他、p. 133</ref>、ローマ帝国宮廷様式の祭典を挙行。オットー3世は自らを「[[イエス・キリスト]]の下僕」「使徒たちの下僕」「世界の皇帝」と称した。998年にはまたジェルベールに[[ラヴェンナ]][[大司教]]の座を与えた<ref name=S110 />。

オットー3世は古代ローマ帝国の宮殿が建てられていた[[パラティーノ|パラティーノの丘]]に古代ローマ様式の宮殿を新たに造営し<ref>成瀬他、p. 133</ref>、古代ローマの伝統を受け継ぐギリシャ宮廷様式の祭典を挙行。オットー3世は自らを「[[イエス・キリスト]]の下僕」「使徒たちの下僕」「世界の皇帝」と称した。998年にはまたジェルベールに[[ラヴェンナ]][[大司教]]の座を与えた<ref name=S110 />。



[[999年]][[2月18日]]にグレゴリウス5世が謎の急死を遂げると、ジェルベールを[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]として教皇座に就けた<ref>瀬原、p. 112</ref>。オットー3世は自らを初のキリスト者皇帝[[コンスタンティヌス1世]]に、そしてジェルベールを[[シルウェステル1世 (ローマ教皇)|シルウェステル1世]]になぞらえての命名である。またオットー3世は、コンスタンティヌス1世とシルウェステル1世が交わしたとされていた[[コンスタンティヌスの寄進状]]を「いい加減で虚構のもの」として取り消すとともに、改めて所領の寄進をしている<ref>瀬原、p. 113-114</ref>。

[[999年]][[2月18日]]にグレゴリウス5世が謎の急死を遂げると、ジェルベールを[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]として教皇座に就けた<ref>瀬原、p. 112</ref>。オットー3世は自らを初のキリスト者皇帝[[コンスタンティヌス1世]]に、そしてジェルベールを[[シルウェステル1世 (ローマ教皇)|シルウェステル1世]]になぞらえての命名である。またオットー3世は、コンスタンティヌス1世とシルウェステル1世が交わしたとされていた[[コンスタンティヌスの寄進状]]を「いい加減で虚構のもの」として取り消すとともに、改めて所領の寄進をしている<ref>瀬原、p. 113-114</ref>。

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998年から[[1000年]]の期間、オットー3世は幾度か巡礼を行っている。南イタリアのガルガノ半島や[[ガエータ]]へ赴き、ガエータではロッサノの聖ニルスに会っている。また聖ロムアルドからは修道士になるよう勧められてもいる。ローマのティベリーナ島に聖堂を建設し、聖アダルベルトの聖遺物と聖バルトロメオの皮膚を納めた。現在の聖バルトロメオ教会である。そしてオットー3世は手本とする[[カール大帝]]が眠るアーヘンに[[1000年|紀元千年]]に訪れている<ref>瀬原、p. 113</ref>。

998年から[[1000年]]の期間、オットー3世は幾度か巡礼を行っている。南イタリアのガルガノ半島や[[ガエータ]]へ赴き、ガエータではロッサノの聖ニルスに会っている。また聖ロムアルドからは修道士になるよう勧められてもいる。ローマのティベリーナ島に聖堂を建設し、聖アダルベルトの聖遺物と聖バルトロメオの皮膚を納めた。現在の聖バルトロメオ教会である。そしてオットー3世は手本とする[[カール大帝]]が眠るアーヘンに[[1000年|紀元千年]]に訪れている<ref>瀬原、p. 113</ref>。




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オットー3世の死因は、父と同じく[[マラリア]]によるものだと言われている<ref>成瀬他、p. 140</ref>。これはラヴェンナの周囲が湿地であったからである。また一説にはクレッシェンティウス2世の寡婦ステファニアがオットー3世を誘惑し[[毒]]を盛ったとも言われている。

オットー3世の死因は、父と同じく[[マラリア]]によるものだと言われている<ref>成瀬他、p. 140</ref>。これはラヴェンナの周囲が湿地であったからである。また一説にはクレッシェンティウス2世の寡婦ステファニアがオットー3世を誘惑し[[毒]]を盛ったとも言われている。

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オットー3世の遺体は兵士によってカール大帝の眠るアーヘンに埋葬されたが<ref name=S115 />、現在では失われている。

オットー3世の遺体は兵士によってカール大帝の眠るアーヘンに埋葬されたが<ref name=S115 />、現在では失われている。



「オットー3世は高い教養を身につけた人であった」。家庭教師兼相談役であったジェルベールの助力を得、「またイタリアのひとびとと交際したおかげで、オットー3世は自分のためにすばらしいコレクションを築いて、皇帝図書館の偉大な伝統を蘇らせることができた。これらの本のうちいくらかは、彼の後継者[[ハインリヒ2世]]により[[バンベルク]]の司教座聖堂図書館に移され、今も、その地に残っている」<ref>レイノルズ/ウィルスン、pp. 166-167</ref>。

== 脚注 ==


{{Reflist|2}}

[[グリム兄弟]] 『ドイツ伝説集』には、オットー3世をめぐる'''伝説'''が4話記されている。477番

「打ち殺されなかったオットー」(Otto läßt sich nicht schlagen)では、幼くして王位に就いたオットーの後見役を務めていたのが、伯父の司教ブルーノ(Bruno)であった。ある日、王は入浴中折檻され、泣いても無駄だった。それで幼王はベッドに、死んだ子供を置かせ、自分は物陰に隠れていた。やってきた伯父は王が死んだものと思った。その後、王の後見役は[[マインツ]]司教ヴィレギス(Willegis)に移ったという。 479番「無実の騎士」(Der unschuldige Ritter)と480番「オットー帝の遺族裁判」(Kaiser Otto hält Witwen- und Waisengericht)はともに、王妃による讒言が引き起こした事件を語っている。王妃は、ある家臣の気を惹こうとするが拒絶にあうと、かれが王を裏切ろうとしたと王に訴える。家臣は死刑に処される。その後、両伝説は別々の展開をみせる。前者の伝説では、家臣の首が落とされる際に首から流れたのが血ではなくミルクであったことから真実が明らかになる。王は妃を処刑し、その後結婚せず、世継ぎを残さなかった、と締めくくっている。後者の伝説では、死刑場に連行される伯爵が妻に真実を伝える。未亡人は王に夫の無実を訴える。火傷せずに熱鉄を持つ神明裁判がその証拠となる。王は妃を処刑し、自身の誤審は4つの城を未亡人に与えることによって償う。481番「カールの墓所を訪れたオットー3世」(Otto III. in Karls Grabe)では、オットーはカール大帝の墓所を訪れ、そこに生きているかのような姿の大帝を見たとされている<ref> Brüder Grimm, pp. 427-429</ref>。


== 脚注 ==

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=== 注釈 ===

{{Notelist|2}}

=== 出典 ===

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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年

* 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年

* 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年

* 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年

* 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年

* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年


* 三佐川亮宏 『紀元千年の皇帝―オットー三世とその時代』刀水書房、2018年

* L.D.レイノルズ/N.G.ウィルスン『古典の継承者たち―ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史―』(西村賀子・吉武純夫訳)国文社、1996年3月 (ISBN 4-7720-0419-X)

* Brüder Grimm: ''Deutsche Sagen''. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0)

== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

*[[リウドルフィング家]]

*[[リウドルフィング家]]

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2024年6月16日 (日) 14:38時点における最新版

オットー3世
Otto III.
神聖ローマ皇帝

オットー3世と家臣団

在位 983年 - 1002年(王)
戴冠式 983年12月25日(王)
996年4月12日(イタリア王)
996年5月21日(皇帝)

出生 980年7月
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、クレバーライヒスヴァルト
死去 1002年1月23日(21歳没)
教皇領ファレーリア、パテルノ城
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国アーヘン
家名 リウドルフィング家
王朝 ザクセン朝
父親 オットー2世
母親 テオファヌ
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3Otto III., 9807 - 1002123498312 - 1002[ 1]339964 - 10029965[ 2]12[1]100221

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3[14]

332[16]

 34477 Otto läßt sich nicht schlagenBrunoWillegis 479Der unschuldige Ritter480Kaiser Otto hält Witwen- und Waisengericht44813Otto III. in Karls Grabe姿[17]

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 

(二)^ 

出典[編集]

  1. ^ 成瀬他、p. 134
  2. ^ a b c 成瀬他、p. 131
  3. ^ 瀬原、p. 107
  4. ^ 三佐川、p. 141
  5. ^ 瀬原、p. 108
  6. ^ a b 成瀬他、p. 132
  7. ^ a b c 瀬原、p. 109
  8. ^ a b 瀬原、p. 110
  9. ^ 成瀬他、p. 133
  10. ^ 瀬原、p. 112
  11. ^ 瀬原、p. 113-114
  12. ^ 瀬原、p. 113
  13. ^ 瀬原、p. 114
  14. ^ a b c d 瀬原、p. 115
  15. ^ 成瀬他、p. 140
  16. ^ レイノルズ/ウィルスン、pp. 166-167
  17. ^ Brüder Grimm, pp. 427-429

参考文献[編集]

  • 下津清太郎 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1987年
  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 三佐川亮宏 『紀元千年の皇帝―オットー三世とその時代』刀水書房、2018年
  • L.D.レイノルズ/N.G.ウィルスン『古典の継承者たち―ギリシア・ラテン語テクストの伝承にみる文化史―』(西村賀子・吉武純夫訳)国文社、1996年3月 (ISBN 4-7720-0419-X
  • Brüder Grimm: Deutsche Sagen. Bd. 2. Herausgegeben von Hans-Jörg Uther. München: Diederichs 1993 (ISBN 3-424-01177-0)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]