「ダニー・リンチ」の版間の差分
25行目: | 25行目: | ||
[[1969年]]2月、国際プロレスに初来日。開幕戦では得意技のスタンディング・クラッチ・ホールドで[[グレート草津]]をギブアップさせ<ref name="best 1000"/>、デイブ・ラールと組んで[[豊登道春|豊登]]&[[サンダー杉山]]のTWWA世界タッグ王座にも挑戦した。同年下期からは[[イギリス連邦]]の[[カナダ]]にも進出、12月に[[スチュ・ハート]]主宰の[[スタンピード・レスリング]]において、日本でタッグを組んだデイブ・ラールを破り[[カルガリー]]版の[[NWA (プロレス)|NWA]]カナディアン・ヘビー級王座を獲得した<ref name="ab-can-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/canada/ab/stampede/ab-can-h.html|title=NWA Canadian Heavyweight Title History (Calgary version)|accessdate=2013-06-04|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。翌[[1970年]]は[[モントリオール]]地区に参戦し、12月にジョニー・ルージョーからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している<ref name="qc-world-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/canada/qc/qc-world-h.html#iwa|title=World Heavyweight Title History (Montreal version)|accessdate=2013-06-04|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。 |
[[1969年]]2月、国際プロレスに初来日。開幕戦では得意技のスタンディング・クラッチ・ホールドで[[グレート草津]]をギブアップさせ<ref name="best 1000"/>、デイブ・ラールと組んで[[豊登道春|豊登]]&[[サンダー杉山]]のTWWA世界タッグ王座にも挑戦した。同年下期からは[[イギリス連邦]]の[[カナダ]]にも進出、12月に[[スチュ・ハート]]主宰の[[スタンピード・レスリング]]において、日本でタッグを組んだデイブ・ラールを破り[[カルガリー]]版の[[NWA (プロレス)|NWA]]カナディアン・ヘビー級王座を獲得した<ref name="ab-can-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/canada/ab/stampede/ab-can-h.html|title=NWA Canadian Heavyweight Title History (Calgary version)|accessdate=2013-06-04|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。翌[[1970年]]は[[モントリオール]]地区に参戦し、12月にジョニー・ルージョーからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している<ref name="qc-world-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/canada/qc/qc-world-h.html#iwa|title=World Heavyweight Title History (Montreal version)|accessdate=2013-06-04|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。 |
||
[[1971年]]10月には国際プロレスに再来日。[[バロン・フォン・ラシク]]と凶悪コンビを結成し、杉山&[[ラッシャー木村]]の[[IWA世界タッグ王座]]に挑戦した他、[[ストロング小林]]初の[[デスマッチ#金網デスマッチ|金網デスマッチ]]の対戦相手を務めた<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=231152|title=IWE Big Challenge Series - Day 2|accessdate=2014-11-23|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>。国際プロレスには[[1975年]]1月にも、「弟」と称するブッチャー・リンチを帯同して参戦。ブッチャーとのリンチ・ブラザーズで木村&草津のIWA世界タッグ王座に再挑戦する一方、シングルでも当時[[マイティ井上]]が保持していた[[IWA世界ヘビー級王座]]に挑戦。 |
[[1971年]]10月には国際プロレスに再来日。[[バロン・フォン・ラシク]]と凶悪コンビを結成し、杉山&[[ラッシャー木村]]の[[IWA世界タッグ王座]]に挑戦した他、10月26日には[[ストロング小林]]初の[[デスマッチ#金網デスマッチ|金網デスマッチ]]の対戦相手を務めた他<ref>{{cite web|url=http://wrestlingdata.com/index.php?befehl=shows&show=231152|title=IWE Big Challenge Series - Day 2|accessdate=2014-11-23|publisher=Wrestlingdata.com}}</ref>、11月12日にはラッシャー木村とも金網デスマッチで対戦している。国際プロレスには[[1975年]]1月にも、﹁弟﹂と称するブッチャー・リンチを帯同して参戦。ブッチャーとのリンチ・ブラザーズで木村&草津のIWA世界タッグ王座に再挑戦する一方、シングルでも当時[[マイティ井上]]が保持していた[[IWA世界ヘビー級王座]]に挑戦。1月23日と1月24日には木村と金網デスマッチで流血戦を演じた。
|
||
以降もイギリスを拠点に[[ヨーロッパ]]各地を主戦場としていたが、[[1978年]]4月6日の[[シュトゥットガルト]]における[[ローラン・ボック]]との試合で脚を負傷してセミリタイア<ref name="best 1000"/>(リンチのラフ攻撃にボックが逆上したことが原因とされる<ref name="gs22">『Gスピリッツ Vol.22』P69(2012年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777809846)</ref>。ボックは「強く印象に残るレスラー」として、[[ジョージ・ゴーディエンコ]]、[[アントニオ猪木]]、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]らに加え、リンチの名前を挙げている<ref name="gs21">『Gスピリッツ Vol.21』P11(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809463)</ref>)。その後、[[1982年]]に[[レバノン]]の[[ベイルート]]で一時復帰し、同地のヘビー級王者となった<ref name="kent"/>。 |
以降もイギリスを拠点に[[ヨーロッパ]]各地を主戦場としていたが、[[1978年]]4月6日の[[シュトゥットガルト]]における[[ローラン・ボック]]との試合で脚を負傷してセミリタイア<ref name="best 1000"/>(リンチのラフ攻撃にボックが逆上したことが原因とされる<ref name="gs22">『Gスピリッツ Vol.22』P69(2012年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777809846)</ref>。ボックは「強く印象に残るレスラー」として、[[ジョージ・ゴーディエンコ]]、[[アントニオ猪木]]、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]らに加え、リンチの名前を挙げている<ref name="gs21">『Gスピリッツ Vol.21』P11(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809463)</ref>)。その後、[[1982年]]に[[レバノン]]の[[ベイルート]]で一時復帰し、同地のヘビー級王者となった<ref name="kent"/>。 |
2014年12月17日 (水) 09:43時点における版
ダニー・リンチ | |
---|---|
プロフィール | |
リングネーム |
ダニー・リンチ "デンジャラス" ダニー・リンチ |
本名 | ダニエル・リンチ |
ニックネーム | 英国の流血王 |
身長 | 178cm - 185cm |
体重 | 135kg(全盛時) |
誕生日 | 1939年1月9日[1] |
死亡日 | 2007年5月29日(68歳没)[2] |
出身地 |
![]() |
スポーツ歴 | ボクシング |
デビュー | 1960年 |
来歴
国際プロレス来日時のパンフレットでは、少年時代から喧嘩に明け暮れ、イギリス陸軍に入隊後も喧嘩で鍛えたパンチ力を活かしてボクシングの陸軍ミドル級チャンピオンになった、などとされている[5]。除隊後は減量を嫌ってボクシングからプロレスに転向し、1960年に地元のヨークシャーでデビュー[4]。その荒っぽい流血ファイトがプロモーターに敬遠され出場禁止処分になったこともあるものの[4]、ジョージ・ハッケンシュミットを初代王者とするヨーロッパ版の世界ヘビー級選手権を1960年代に手中にした[6]。 1969年2月、国際プロレスに初来日。開幕戦では得意技のスタンディング・クラッチ・ホールドでグレート草津をギブアップさせ[4]、デイブ・ラールと組んで豊登&サンダー杉山のTWWA世界タッグ王座にも挑戦した。同年下期からはイギリス連邦のカナダにも進出、12月にスチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリングにおいて、日本でタッグを組んだデイブ・ラールを破りカルガリー版のNWAカナディアン・ヘビー級王座を獲得した[7]。翌1970年はモントリオール地区に参戦し、12月にジョニー・ルージョーからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している[8]。 1971年10月には国際プロレスに再来日。バロン・フォン・ラシクと凶悪コンビを結成し、杉山&ラッシャー木村のIWA世界タッグ王座に挑戦した他、10月26日にはストロング小林初の金網デスマッチの対戦相手を務めた他[9]、11月12日にはラッシャー木村とも金網デスマッチで対戦している。国際プロレスには1975年1月にも、﹁弟﹂と称するブッチャー・リンチを帯同して参戦。ブッチャーとのリンチ・ブラザーズで木村&草津のIWA世界タッグ王座に再挑戦する一方、シングルでも当時マイティ井上が保持していたIWA世界ヘビー級王座に挑戦。1月23日と1月24日には木村と金網デスマッチで流血戦を演じた。 以降もイギリスを拠点にヨーロッパ各地を主戦場としていたが、1978年4月6日のシュトゥットガルトにおけるローラン・ボックとの試合で脚を負傷してセミリタイア[4]︵リンチのラフ攻撃にボックが逆上したことが原因とされる[10]。ボックは﹁強く印象に残るレスラー﹂として、ジョージ・ゴーディエンコ、アントニオ猪木、アンドレ・ザ・ジャイアントらに加え、リンチの名前を挙げている[11]︶。その後、1982年にレバノンのベイルートで一時復帰し、同地のヘビー級王者となった[2]。 引退後はケントのアシュフォードにてレスリング・スクールを開校[4]。また、映画やテレビで俳優としても活動し、﹃人類創世﹄などの作品に出演している[2]。 2007年5月29日、死去。68歳没[2]。晩年までアシュフォードに居住し、体調が悪化してからもプロレスラーのOB会などには必ず姿を見せていたという[12]。得意技
- スタンディング・クラッチ・ホールド
- 座り込んだ相手の肩の上にまたがり、そのまま両手で相手の片足を掴んで引っ張り上げ、相手の首や脚にダメージを与える複合型サブミッション・ホールド。カール・ゴッチやミル・マスカラスも同様の技を使用していたことがある[13]。
- ボストン・クラブ
- ナックル・パンチ