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ルイトポルドの後継者である[[:de: Arnulf I. (Bayern)|アルヌルフ]]、[[:de: Eberhard (Bayern)|エーベルハルド]]及び[[:de: Berthold (Bayern)|ベルトルド]]のもとでバイエルンは[[公爵|公領]]として再編され、[[ゲルマン人]]の主要ないしその他の部族によって形成される「[[:en:Stem duchy|部族大公領]]」と呼ばれる帝国の五大公領の一つとなった。国の防衛体制を築くための資金が不足していると感じたアルヌルフはカトリック教会からの土地・財産没収に頼り、これにより“悪党”という綽名をつけられた。アルヌルフはバイエルンの復興を果たしてマジャール人と和平を締結した。これによってマジャール人は自身の[[ドイツ]]襲撃に際して抵抗を受けることなくバイエルンを通り抜けたが、同公領は荒らされずにすんだ。アルヌルフは自領にて独自に伯や司教を任命したり独自の外交政策をとること(ドイツ王との相違は常にマジャール人の襲撃に対する闘争であり、自領を帝国にとっての関心の的であるマジャール人による損害から守るためにアルヌルフは彼らと和平を結んだ)で事実上[[ローマ王|ドイツ王]]に不服従の姿勢を取った。 |
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ルイトポルドの後継者である[[:de: Arnulf I. (Bayern)|アルヌルフ]]、[[:de: Eberhard (Bayern)|エーベルハルド]]及び[[:de: Berthold (Bayern)|ベルトルド]]のもとでバイエルンは[[公爵|公領]]として再編され、[[ゲルマン人]]の主要ないしその他の部族によって形成される「[[:en:Stem duchy|部族大公領]]」と呼ばれる帝国の五大公領の一つとなった。国の防衛体制を築くための資金が不足していると感じたアルヌルフはカトリック教会からの土地・財産没収に頼り、これにより“悪党”という綽名をつけられた。アルヌルフはバイエルンの復興を果たしてマジャール人と和平を締結した。これによってマジャール人は自身の[[ドイツ]]襲撃に際して抵抗を受けることなくバイエルンを通り抜けたが、同公領は荒らされずにすんだ。アルヌルフは自領にて独自に伯や司教を任命したり独自の外交政策をとること(ドイツ王との相違は常にマジャール人の襲撃に対する闘争であり、自領を帝国にとっての関心の的であるマジャール人による損害から守るためにアルヌルフは彼らと和平を結んだ)で事実上[[ローマ王|ドイツ王]]に不服従の姿勢を取った。 |
2016年5月14日 (土) 16:44時点における版
バイエルン公国(バイエルンこうこく、ドイツ語: Herzogtum Bayern)は、中世のドイツ南東部(現在のバイエルン州からオーストリアにかけての領域)に存在した5つの部族大公領の一つである。
歴史
アギロールフィング朝での黎明期
600年頃のバイエルン。
ルイトポルド朝時代
10世紀における神聖ローマ帝国の一部としてのバイエルン公国。
カロリング帝国下においてバイエルンは王国の地位を獲得してヴェルダン条約では東フランク王国に組み込まれることが明白となり、カロリング朝の分家によって派遣される代理人によって支配された。バイエルンでは徐々に上流階級、特にルイトポルド家が台頭していった。その影響力はアルヌルフ帝︵その母親はルイトポルド家出身の可能性あり︶の統治下で一段と増した。893年にアルヌルフはケルンテンと上パンノニア︵現オーストリア及び西ハンガリー︶をルイトポルド伯に与えた。895年にルイトポルトはドナウ沿いの低地、ノルガウ︵現オーバープファルツ︶およびレーゲンスブルクも拝領している。このようにしてフランク王国内部に“バイエルン辺境伯領”と呼ばれる新たなる国家の基盤が形成されたのである。かくしてバイエルン及びその他辺境伯領の統治者となったルイトポルドは スラヴ人 やマジャール人といった隣国の部族と常に戦い、907年にプレスブルグの戦い︵現ブラチスラヴァ︶で戦死した。それ以上に重要なことはバイエルンの地︵東方辺境伯領︶がマジャール人の襲撃にさらされたということである。
ルイトポルドの後継者であるアルヌルフ、エーベルハルド及びベルトルドのもとでバイエルンは公領として再編され、ゲルマン人の主要ないしその他の部族によって形成される﹁部族大公領﹂と呼ばれる帝国の五大公領の一つとなった。国の防衛体制を築くための資金が不足していると感じたアルヌルフはカトリック教会からの土地・財産没収に頼り、これにより“悪党”という綽名をつけられた。アルヌルフはバイエルンの復興を果たしてマジャール人と和平を締結した。これによってマジャール人は自身のドイツ襲撃に際して抵抗を受けることなくバイエルンを通り抜けたが、同公領は荒らされずにすんだ。アルヌルフは自領にて独自に伯や司教を任命したり独自の外交政策をとること︵ドイツ王との相違は常にマジャール人の襲撃に対する闘争であり、自領を帝国にとっての関心の的であるマジャール人による損害から守るためにアルヌルフは彼らと和平を結んだ︶で事実上ドイツ王に不服従の姿勢を取った。
しかしながらドイツで有力な国王たるハインリヒ1世補鳥王・オットー1世大帝親子を中心とするリウドルフィング朝による王権が誕生したことによりバイエルンの自主性は削がれて徐々に中央権力に従属するようになった。921年にハインリヒ1世の軍隊はバイエルンに侵攻してアルヌルフを服属せしめた。アルヌルフは己の公の権利を確認することでバイエルンがドイツ王の宗主権下におかれることを認めたものの、十分な自主性を保持することが出来きた。それに加えてハインリヒ1世はアルヌルフにバイエルン公国内の教会を指名する権利を残すことを余儀なくされた。
937年にアルヌルフが死ぬとその長男であるエーベルハルドが継承してオットー1世に忠実に仕えることを拒絶した。これに対するオットー1世の返答は938年のエーベルハルドの領域への侵攻である。オットー1世による2度の遠征によって公国は荒廃してエーベルハルドは公位から引き摺り下ろされた。代わってバイエルンの国境地帯の辺境伯︵ケルンテン︶を統治していた叔父のベルトルトが統治することとなった。
前任者とは異なりベルトルトは自領において教会や伯を指名する権利を受け賜わらずに事実上完全にドイツ王に従属したことを明らかにした。多かれ少なかれベルトルトは自身による統治期間中はオットー1世に忠実であった。ベルトルトは既に半世紀にも渡ってドイツの地を襲撃して略奪し続けていたマジャール人に対する戦闘で陣頭指揮を執った。943年にバイエルン軍はマジャール軍をヴェルスにて撃破することで暫くの間は公国の東部国境線の平穏を確保することが出来た。
947年にベルトルトが死ぬと息子のハインリヒはオットー1世によって継承権から外された。バイエルンはオットー1世の弟であるハインリヒ1世の手に渡った。バイエルンの支配権がリウドルフィング家に移行したことはルイトポルド家との間で長きに渡る闘争を引き起こすこととなった。恐らく、ハインリヒはバイエルンを喪失したであろうがそれでもケルンテンにおける己の領地の一部を保持し、帝国内における自身の地位を保持することが許されたことであろう
リウドルフィング朝時代
バイエルンの統治者になったハインリヒ1世はマジャール人を撃退することに成功し、その上、フリウリ伯領を自領へ併合した。955年に名高いレヒフェルトの戦いが起きた。この戦いでドイツ軍はマジャール人を完膚までに叩きのめすことでその脅威を取り除いた。ハインリヒ1世自身は病気のために戦闘に参加しなかったものの954年のシュヴァーベン公ルドルフとロタリンギア公コンラートによる反乱の鎮圧には参加している。
955年にハンリヒ1世の後を息子で未だ4歳であるハインリヒ2世が継いだ。その初期は母のユディトがハインリヒ2世の名でバイエルンを統治した。ハンリヒ2世は成年に達すると973年に神聖ローマ皇帝に即位した従兄弟のオットー2世と帝位を巡って争い始めた︵父ハインリヒ1世もまた帝位を狙っていた︶。皇妃アーデルハイトの姪であるギゼラと結婚したことでハインリヒ2世の立場は著しく強化された。同年には自身の姉妹と結婚しているシュヴァーベン公ブルハルドが皇帝の了承抜きに空位となったアウクスブルク司教の座に自身の従兄弟であるハインリヒを据えた。973年にブルハルドが死ぬとハインリヒ2世はシュヴァーベンを自領に併合することを試みたが、これに対してオットー2世は自身の友人且つ従兄弟でもあるシュヴァーベン公ルドルフの息子オットー1世にシュヴァーベンを渡すことで機先を制ずることに成功した。これに不満を抱くハインリヒ2世の返答はオットー2世への反乱の企てということになったが、974年に陰謀は露見してインゲルハイムで拘禁かされることで収着した。
976年にハインリヒ2世は脱獄してバイエルンに帰還することに成功して同地にて反乱を立ち上げた。976年に神聖ローマ軍はバイエルンに侵攻して反乱軍を打ち破り、ハインリヒ2世は亡命を余儀なくされ、バイエルンはオットー1世に与えられた。しかもハインリヒ2世の反乱の結果、バイエルンは分割されることとなった。即ち、同年にシュタイアーマルクからヴェローナ︵ヴェローナ伯領を含み、組み込まれた領地にはかつてのフリウリ伯領があった︶の領域を含む公国は東方辺境伯、後のオーストリアとケルンテン公国によって分割されたのである。東方辺境伯にはレオポルト1世がケルンテン公にはハインリヒ1世の息子でかつてのバイエルン公であったベルトルドが据えられた。
バイエルンを喪失したハインリヒ2世ではあったがそのままにしておくわけにはいかなかった。977年に3ハインリヒの戦い︵戦闘に参加したハインリヒ2世、ハインリヒ1世、アウクスブルク司教兼ケルンテン公ハインリヒの3人のハインリヒに因む︶と呼ばれる新たなバイエルン貴族の神聖ローマ皇帝に対する反乱において主導権を握ったのである。しかし、反乱は978年に鎮圧され、結果、バイエルンは最終的に帝国の中央集権化に置かれることとなった。ハインリヒ2世は逮捕されてオットー2世が死ぬまでユトレヒト司教の監視下におかれることとなった。
982年に皇帝に忠実で戦友でもあったオットー1世が死ぬと新たなバイエルン公には978年に反乱に参加したことでケルンテンを没収されていたハインリヒ1世が任命された。しかし983年にオットー2世が死んだことで自由の身となったハインリヒ2世は直ちに幼帝オットー3世に対する反乱を立ち上げた。この時はドイツ王位を奪取することは叶わなかったものの皇帝に対して忠実であることを誓うことと引き換えに985年にバイエルンを、989年にはケルンテンをそれぞれ返還してもらっている。ハインリヒ1世には代償としてケルンテンが返還されたもののヴェローナはオットー1世が保持した。989年にハインリヒ1世が死ぬとその領地はハインリヒ2世の手に渡り、広大であった父祖の地は再び一つとなった。
995年にハインリヒ2世が死ぬとバイエルンは息子のハインリヒ4世によって相続されたが、ケルンテンはオットー3世によって、985年まで同地を所有していたオットー1世に渡された。ハインリヒ4世はオットー3世の忠実な同盟者となり、1002年にオットー3世の死を受けて自身が皇帝ハインリヒ2世となった。
11世紀のバイエルン
1004年3月21日にハインリヒ2世はバイエルンを自身の妻の兄弟にあたるルクセンブルク伯ハインリヒ︵バイエルン公ハインリヒ4世︶に譲ったが、その領域は非常に縮小されたものだったのであった。ケルンテンの方は同年にハンリヒ2世がオットー1世の三男であるコンラート1世に支配権を認めたことで最終的にバイエルンから分離した。バイエルン公国内の大部分の修道院とその土地は1007年以降はバームベルグ司教領として形成され皇帝の支配権に留まることとなり、大部分の公領の方はハインリヒ2世の皇后であるクニグンデが支配するところが明白となった。
しかし、ハインリヒ2世とその皇后親族との関係は直ぐに悪化した。ハンリヒ5世が1009年5月に公位をはく奪されたことによりバイエルンは皇帝が直に治めることが明白となった。もっとも1017年5月にハインリヒ5世には再びバイエルン公位が授けられ1026年に死ぬまで統治した。ハインリヒ5世には子供がいなかったことからバイエルンは新皇帝コンラート2世の個人領に編入され、1027年にバイエルン公の称号を自身の十番目の息子で後継者であるハインリヒ3世︵バイエルン公としてはハインリヒ6世︶に譲った。1049年から1053年までを例外としてバイエルンは1061年まで事実上皇帝とその息子の支配下に置かれていた。
幼帝ハインリヒ4世の摂政であるアグネス・フォン・ポワトゥーがドイツ諸侯に封土を安易に分与したことによりバイエルンは1061年にオットー・フォン・ノルトハイムが所有統治するところとなった。他方、ハインリヒ4世に成年に達すると1070年に幼少時に喪失した領地の奪還に着手した。バイエルンを所有するオットーはハインリヒ4世の目には自身の政策に目障りであると映っていて、その陰謀計画によって告発及びバイエルンを没収され、バイエルンはヴェルフ4世の手に移ることとなった。
ヴェルフ朝時代
ヴィッテルスバッハ朝時代
1378年のバイエルン及びその周辺。
参考文献
●Балакин В. Д. [inロシア語] (2004). Творцы Священной Римской империи. Жизнь замечательных людей: Серия биографий; Вып. 1095 (895) (5000 экз ed.). М.: Молодая гвардия. ISBN 5-235-02660-8。
●Бульст-Тиле Мария Луиза, Йордан Карл, Флекенштейн Йозеф. (2008). Священная Римская империя: эпоха становления (1000 экз ed.). СПб.: Евразия. Пер. с нем. Дробинской К.Л., Неборской Л.Н. под редакцией Ермаченко И.О. ISBN 978-5-8071-0310-9。
●Хёфер М. [inロシア語] (2006). Император Генрих II. Историческая библиотека (4 000 экз ed.). М.: АСТ: АСТ МОСКВА: Транзиткнига. Перевод с немецкого М. В. Васиной. ISBN 5-17-029686-X。
●Егер О. [inロシア語] (1997). Всемирная история: в 4 томах. Vol. 2: Средние века (5 000 экз ed.). СПб.: Специальная литература. ISBN 5-87685-085-3。
関連項目
外部リンク