バグジー・マグロー
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バグジー・マグロー | |
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プロフィール | |
リングネーム |
バグジー・マグロー ザ・ビッグ "O" ビューティフル・ブルータス マイティ・ブルータス ザ・ブルート ザ・ステューデント ザ・スカル |
本名 | マイケル・デービス |
ニックネーム | 鮮血の荒熊 |
身長 | 191cm - 192cm |
体重 | 130kg - 137kg |
誕生日 | 1945年??月??日 |
出身地 |
![]() ノースカロライナ州シャーロット |
デビュー | 1960年代後半 |
引退 | 1980年代後半 |
バグジー・マグロー︵Bugsy McGraw、本名‥Michael Davis、1945年 - ︶は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ノースカロライナ州シャーロット出身。
現役選手時代は巨漢のラフ&パワーファイターとして、WWWFやNWAなどのメジャーテリトリーで活躍。日本にも、昭和期の各団体に参戦した。
来歴
デビュー / 1970年代
1960年代後半に黒人レスラーのトム・ジョーンズのトレーニングを受けてデビュー。五大湖エリアから南部のテキサスやフロリダ、さらにはニュージーランドなどNWAの各テリトリーを転戦し、リングネームを様々に変えてキャリアを積む。フロリダでは覆面を被り、マスクマンのザ・ビッグO︵The Big "O" ︶を名乗ったこともあった[1][2]。1972年3月にはマイティ・ブルータス︵The Mighty Brutus︶の名前で日本プロレスに初来日している[3]。 1973年からはザ・ブルート︵The Brute︶に改名してカナダのバンクーバー地区に参戦、3月29日にジン・キニスキーからNWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座を奪取し、以降もシーン・リーガンやジョージ・ゴーディエンコとタイトルを争った[4]。日本にもザ・ブルートとして1974年3月に国際プロレスに来日、3月30日に北見にて、4月14日に佐伯にてラッシャー木村と金網デスマッチを行った他、3月31日に釧路にて、ジム・ブランゼルと組んでラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に金網デスマッチで挑戦している[5]。その後はアメリカ西海岸のサンフランシスコ地区に進出、1975年1月25日にピーター・メイビアを破り、同地区認定のUSヘビー級王座を獲得した[6]。 1975年の下期よりバグジー・マグロー︵Bugsy McGraw︶のリングネームでニューヨークのWWWFに登場。キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに、同年9月6日にMSGでブルーノ・サンマルチノとも対戦した[7]。WWWFには中堅どころのヒールとして1977年まで参戦し、ゴリラ・モンスーン、ボボ・ブラジル、ヘイスタック・カルホーン、チーフ・ジェイ・ストロンボーなどのトップスターと対戦。ザ・ブラックジャックス︵ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ︶、イワン・コロフ、アーニー・ラッド、スーパースター・ビリー・グラハム、スパイロス・アリオンといった大物ヒールのパートナーにも起用され、トニー・パリシ&ルイ・セルダンが保持していたWWWF世界タッグ王座にも度々挑戦した[8]。 このWWWF参戦でスキンヘッドの巨漢ヒールのイメージが浸透し、リングネームも﹁バグジー・マグロー﹂で定着︵なお、"Bugsy" とは﹁ばい菌﹂﹁害虫﹂などを指す蔑称である︶。1978年4月には新日本プロレスの第1回MSGシリーズに参加。予選トーナメント1回戦で山本小鉄、2回戦でトニー・ガレアを破り決勝リーグに進出し、アントニオ猪木やアンドレ・ザ・ジャイアントと公式戦で対戦した[9]。1980年代 / 引退後
1970年代末からはNWA圏のフロリダ地区︵エディ・グラハムが主宰するチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ︶を主戦場に、悪徳マネージャーのサー・オリバー・フンパーディンクのファミリーに加入[10]。"バッド・バッド" レロイ・ブラウンとの巨漢コンビでダスティ・ローデスやジャック・ブリスコと流血戦を演じたが、1980年3月にフンパーディンクと仲間割れしてベビーフェイスに転向[11]。アンコ型の巨体に禿頭の髭面という正義のヒーローには程遠い風貌ながら、そのコミカルで陽気なキャラクターが子供達に支持され、ローデスに次ぐ同地区の人気者となる。以降もフロリダに定着し、ドン・ムラコ、イワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、バロン・フォン・ラシク、マサ・サイトー、ディック・スレーター、ザ・ファンクス、ボビー・ジャガーズ、ハンス・シュローダーらヒール勢と抗争を展開した[12]。フロリダでは1981年3月5日と4月15日にハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、引き分けに持ち込んでいる[13]。 1981年5月にはジャック・ブリスコの斡旋で全日本プロレスに来日、再びヒールターンしてザ・シークのタッグパートナーを務め、ジャイアント馬場ともシングルマッチで対戦した[14]。帰国後もヒールのポジションでテネシー州メンフィスのCWAに登場[15]。ジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーやビル・ダンディーと対戦し、スティーブ・カーンとNWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を争った[16]。同年の末よりテキサス州ダラスのWCCWに参戦し、12月26日にザ・グレート・カブキを破ってNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取[17]。翌1982年4月11日には若手時代のキングコング・バンディをパートナーにNWAアメリカン・タッグ王座も獲得している[18]。また、1982年6月4日にテキサス・スタジアムで行われたフリッツ・フォン・エリック引退興行ではアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチが組まれた[19]。 その後はベビーフェイスに戻り、1983年もNWAの主要テリトリーを転戦。ジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区ではルーファス・ジョーンズや﹃ブギウギ﹄ジミー・バリアントとタッグを組み、スターケードなどのビッグイベントにも出場した︵バリアントとのタッグは、アメリカのプロレス業界誌﹃レスリング・オブザーバー﹄の"Worst Tag Team" にも選ばれている︶。 1984年3月には全日本プロレスに再来日。開幕戦でスタン・ハンセンの試合に乱入して喧嘩を売り、3月30日に茨城県古河市にて、当時ハンセンが保持していたPWFヘビー級王座に挑戦した[3]。なお、ハンセンとマグローはジム・バーネット主宰のNWAジョージア地区でタッグを組んでおり、1983年のクリスマスにアトランタのオムニ・コロシアムにおいてロード・ウォリアーズと対戦したことがある[20]。 1984年夏からは古巣のフロリダに復帰し、ワフー・マクダニエルやブラックジャック・マリガンとのベテラン・コンビで活躍。1985年はファビュラス・フリーバーズ︵マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、バディ・ロバーツ︶、ミッシング・リンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、リック・ルード、ジェシー・バー、ヘラクレス・ヘルナンデス、リップ・ロジャースなどと対戦している[21]。その後、WWFの全米進出が始まってNWAの各テリトリーが形骸化したこともあり、1980年代の後半に引退した。 引退後はセントラル・フロリダの医療機関で看護師の業務に就いている[1]。近年はフロリダで行われるオールドタイマーのリユニオン・イベントにも参加しており、2005年1月29日の﹃レッスル・リユニオン﹄にはグレッグ・バレンタイン、ジェイク・ロバーツ、チャボ・ゲレロ・シニアらと共にバトルロイヤルに出場した︵当日はダスティ・ローデス、ハーリー・レイス、ザ・ファンクス、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ロディ・パイパー、ジミー・スヌーカ、カウボーイ・ボブ・オートン、マスクド・スーパースターなども参加し、エキシビション・マッチを行っている︶[22]。 2009年は、6月18日収録︵7月2日放送︶のTNA﹃iMPACT!﹄にミック・フォーリーのセキュリティとして登場した[23]。同年10月1日には、WWEの下部団体FCWのハウス・ショーにも顔を見せている。得意技
獲得タイトル
- NWAオールスター・レスリング
- NWAサンフランシスコ
- NWA USヘビー級王座(サンフランシスコ版):1回
- NWAトライステート
- NWA北米ヘビー級王座(トライステート版):1回
- NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ドクターX)
- ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
- NWA豪亜タッグ王座:2回(w / ブッチャー・ブラニガン、マリオ・ミラノ)
- NWAフロリダ・ヘビー級王座:1回
- NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ソー・ザ・ヴァイキング)
- NWAフロリダ・TV王座:3回
- NWAブラスナックル王座(フロリダ版):1回
- NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ダスティ・ローデス)
- NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:1回
- NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回
- NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / キングコング・バンディ)
- NWA世界タッグ王座(テキサス版):1回(w / ワイルド・ビル・アーウィン)
- NWAブラスナックル王座(テキサス版):1回
- WCCW TV王座:1回
- NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / ルーファス・ジョーンズ)
脚注
(一)^ ab“Wrestler Profiles: Bugsy McGraw”. Online World of Wrestling. 2009年4月6日閲覧。
(二)^ “Wrestling Gallery: The Big "O"”. Online World of Wrestling. 2009年4月6日閲覧。
(三)^ ab﹃全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ﹄P61︵2002年、日本スポーツ出版社︶
(四)^ “NWA Pacific Coast Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月12日閲覧。
(五)^ ﹃忘れじの国際プロレス﹄P102︵2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802︶
(六)^ “NWA United States Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月12日閲覧。
(七)^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1970-1979”. The History of WWE. 2010年2月3日閲覧。
(八)^ “The WWE matches fought by Bugsy McGraw in 1976”. Wrestlingdata.com. 2014年8月22日閲覧。
(九)^ “The NJPW matches fought by Bugsy McGraw in 1978”. Cagematch.net. 2014年12月11日閲覧。
(十)^ “The CWF matches fought by Bugsy McGraw in 1979”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
(11)^ “The CWF matches fought by Bugsy McGraw in 1980”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
(12)^ “The CWF matches fought by Bugsy McGraw in 1981”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
(13)^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1981”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月24日閲覧。
(14)^ “The AJPW matches fought by Bugsy McGraw in 1981”. Wrestlingdata.com. 2014年12月11日閲覧。
(15)^ “The USWA matches fought by Bugsy McGraw in 1981”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
(16)^ “NWA Mid-America Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月24日閲覧。
(17)^ “NWA American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月12日閲覧。
(18)^ “NWA American Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月12日閲覧。
(19)^ “Texas Stadium 1982 "Fritz Von Erich Retirement Show"”. ProWrestling History.com. 2010年11月19日閲覧。
(20)^ “GCW 1983/12/25”. Cagematch.net. 2014年9月9日閲覧。
(21)^ “The CWF matches fought by Bugsy McGraw in 1985”. Wrestlingdata.com. 2013年12月21日閲覧。
(22)^ “Wrestle Reunion January 29, 2005”. Online World of Wrestling. 2009年4月6日閲覧。
(23)^ “TNA iMPACT July 2, 2009”. The Insider. 2009年7月20日閲覧。