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ホーゲ︵豪格、満洲語: ᡥᠣᠣᡤᡝ 、転写‥Hooge、1609年 - 1648年︶、清の太宗ホンタイジ︵皇太極︶の長男。母は継妃ウラナラ氏︵烏拉那喇氏︶。
生涯
武勇に優れ、征戦で度々武功をあげた。崇徳元年︵1636年︶粛親王︵fafungga cin wang︶に封じられる。ホンタイジの死後、皇位継承の有力候補であったが、同じく有力候補だったドルゴンを推す勢力と対立した。清朝が分裂することを避けるため、ホーゲ、ドルゴン双方とも皇位に就かず、ホーゲの異母弟である8歳のフリン︵福臨︶が即位した︵順治帝︶。
明滅亡後も抵抗を続けていた大順軍の残党の首領・張献忠は清軍の圧迫を受けて成都を捨て、1646年10月20日に塩亭県鳳凰山でホーゲの軍に射殺された。
順治帝の時代に摂政王として権勢をふるったドルゴンは、政敵ホーゲを失脚させるため誣告を利用してホーゲの爵位を剥奪、幽禁した。順治五年︵1648年︶獄中で死去。
順治帝はドルゴンの死後、ホーゲの冤罪を晴らし名誉を回復させ、息子フシェオ︵Fušeo、富綬︵中国語版︶︶に親王位を継がせ、一方ドルゴンの爵位を剥奪した。謚は武で、粛武親王と称される。
逸話
●順治帝は兄のホーゲを大切に思っており、、ドルゴンが﹁ホーゲが謀反を企んでいる﹂と上奏した。幼い順治帝は兄を助けようと泣いて命乞いして罰金刑だけですんだ。[1]
●さらにその後ホーゲはドルゴンから冷遇されるも戦場で功績を重ねる不愉快に思ったドルゴンはまた謀反の罪で殺そうとするが、数年前に泣くことしか出来なかった順治帝は一歩も譲らず﹁処刑は認めない﹂と忽然たる態度を示した。[2]
- ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・197P
- ^ 清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』・199P