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[[1946年]]に[[神戸経済大学]][[経済学部]]︵現[[神戸大学経済学部]]︶を卒業と同時に[[松山経専]]︵現[[松山大学]]︶の[[教授と]]なる。[[1950年]]に松下電工に入社。[[1977年]]に[[取締役]]に就任。その後、[[1981年]]に[[常務取締役]]、[[1982年]]に[[専務取締役]]、[[1987年]]2月に代表取締役[[副社長]]を経て、[[1988年]]2月に代表取締役[[社長]]に就任。グローバル経営を推進し、[[丹羽正治]]に次いで同社を1兆円企業に育て上げた。その後、[[1993年]]に[[関西経営者協会]]会長を6年間務め、[[1994年]]2月に代表取締役会長に退く、[[1997年]][[4月28日]]に亡くなった[[藤井貞夫]]相談役の葬儀・告別式の委員長を務めた<ref>[[読売新聞]] [[1997年]][[4月29日]]朝刊27面</ref>。
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2000年に代表取締役名誉会長に退いたのち、同年6月29日に[[肺炎]]の為、帰らぬ人となった。 |
2000年に代表取締役名誉会長に退いたのち、同年6月29日に[[肺炎]]の為、帰らぬ人となった。 |
2019年12月9日 (月) 08:03時点における版
みよし としお 三好 俊夫 | |
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生誕 |
1921年10月22日 愛媛県松山市 |
死没 | 2000年6月29日(78歳没) |
死因 | 肺炎 |
国籍 |
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出身校 | 神戸経済大学経済学部(現神戸大学経済学部) |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1950 - 2000 |
肩書き | 松下電工代表取締役社長 |
任期 | 1988 - 1994 |
前任者 | 藤井貞夫 |
後任者 | 今井清輔 |
取締役会 | 松下電器産業 |
三好 俊夫︵みよし としお、1921年10月22日 - 2000年6月29日︶は松下電工代表取締役名誉会長、日経連副会長、日中経済貿易センター会長。愛媛県松山市出身。
経歴
1946年に神戸経済大学経済学部︵現神戸大学経済学部︶を卒業と同時に松山経専︵現松山大学︶の教授となる。1950年に松下電工に入社。1977年に取締役に就任。その後、1981年に常務取締役、1982年に専務取締役、1987年2月に代表取締役副社長を経て、1988年2月に代表取締役社長に就任。グローバル経営を推進し、丹羽正治に次いで同社を1兆円企業に育て上げた。その後、1993年に関西経営者協会会長を6年間務め、1994年2月に代表取締役会長に退く、1997年4月28日に亡くなった藤井貞夫相談役の葬儀・告別式の委員長を務めた[1]。 2000年に代表取締役名誉会長に退いたのち、同年6月29日に肺炎の為、帰らぬ人となった。受賞歴
参考文献・出典
- 『現代物故者事典(2000 - 2002)』日外アソシエーツ、2003年3月、603 - 604頁。ISBN 978-4-8169-1769-1。
脚注
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