三浦泰村
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三浦泰村 | |
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時代 | 鎌倉時代中期 |
生誕 | 元暦元年(1184年) |
死没 | 宝治元年6月6日(1247年7月9日) |
別名 | 駿河次郎 |
墓所 | 鎌倉市西御門のやぐら |
幕府 | 鎌倉幕府 評定衆 |
主君 | 藤原頼経、頼嗣 |
氏族 | 桓武平氏良文流、三浦氏 |
父母 | 三浦義村 |
兄弟 |
朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、 資村、胤村、重時、良賢、北条泰時室、 土岐光定室、毛利季光室 |
妻 | 正室:北条泰時の娘 |
子 | 景村、景泰、三浦駒孫丸、他 |
三浦 泰村︵みうら やすむら︶は鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。三浦義村の次男。
経歴
当時の三浦氏は、源頼朝の挙兵に参加して大功を挙げた経緯から、相模国や河内国に広大な所領を持つ有力御家人の一人であった。その力は北条氏にも匹敵するほどであったとも言われている。 武勇︵特に弓術︶に優れた泰村は承久3年︵1221年︶の承久の乱では、父義村と共に幕府軍の一軍として参戦して活躍した。そして北条泰時の娘を娶って北条氏の一門衆となり、1238年には幕府の評定衆の一人にまでなって幕政に参与するようになる。さらに泰村は三浦氏の幕府内における権勢を強めようと、鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経に接近して親密な間柄にまでなるようになり、その権勢は北条氏をも凌ぐようになったと言われている。 さらに弟・光村が5代将軍・九条頼嗣との仲を深めるようにまでなったため、執権北条時頼から三浦氏は漸う危険視されるようになる。ただ、時頼本人は泰村と三浦氏に政権中枢からの穏便な引退を望んでいた。 1246年、時頼は六波羅探題に赴任させていた北条重時を招来することを打診したが、評定の場で泰村のみは承諾せず、頑なにこれを拒んだ。重時が帰参することで自らの政治的地位が低下することを懸念したようだが、これによって時頼や北条一門らの心証をより悪化させた。もし重時の招来を承諾していれば、温厚な重時は三浦氏に穏便な措置を計らってくれたかも知れず、穏健派の重時を遠ざけた事で、三浦氏排斥の過激派である安達景盛が積極的に干渉する機会を与えてしまい、結果として泰村は自ら墓穴を掘ったとも指摘される。[1] 宝治元年︵1247年︶、時頼と安達景盛の策謀にかかった泰村は鎌倉で挙兵した。しかしこの反乱は結果的に失敗で、北条軍と安達軍の前に三浦軍は大敗し、追いつめられた泰村は妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた︵﹃宝治合戦﹄︶。 このことによって、北条氏の幕府内における政敵は全て排除され、北条氏における執権政治はいよいよ独裁色を強めることになるのである。 泰村は承久の乱における宇治川渡河で足利義氏と共に果敢に攻め込むなど武威に優れた人物であったが、下河辺氏や小山氏など、他の御家人と諍いを起こしたり、北条氏に対する方針を巡り弟光村と齟齬を来すなど、政治家としての立ち回りには拙い部分があり、優柔不断なところがあった。宝治合戦の際には緊張のあまり嘔吐したという話も残っており、切迫した状況では判断力が鈍くなる人物であった。脚注
関連項目
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