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'''公森 太郎'''︵きみもり たろう、[[明治]]15年︵[[1882年]]︶[[3月6日]]<ref>﹃人事興信録 第16版 上﹄人事興信所、1951年、き32頁。</ref> - [[昭和]]28年︵[[1953年]]︶[[2月25日]]<ref>﹃山陽年鑑 昭和29年版﹄山陽新聞社、1953年、p.599。</ref>︶は、[[日本]]の[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、銀行家。元[[朝鮮銀行]]副総裁。元[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]頭取。
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[[岡山県]][[都宇郡]]大内田村(のち[[都窪郡]][[吉備 |
[[岡山県]][[都宇郡]]大内田村(のち[[都窪郡]][[吉備地域|吉備町]]、現[[岡山市]]北区)に公森仲次の長男として生まれた。 |
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[[明治]] |
[[明治]]41年([[1908年]])[[東京帝国大学]]政治科卒業。[[大蔵省]]奉職。[[昭和]]5年([[1930年]])8月退官、[[日本興業銀行]][[理事]]に就任。昭和12年([[1937年]])4月[[朝鮮銀行]]副総裁。昭和15年([[1940年]])1月[[中国銀行 (日本)|中国銀行]]頭取に就任。戦後の昭和21年([[1946年]])に[[公職追放]]。 |
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== 系譜 == |
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; 公森家([http://gos.but.jp/koumori.htm 公森家都宇郡大内田村]) |
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: 公森家は、歌人[[藤原俊成]] |
: 公森家は、歌人[[藤原俊成]]の子孫である。俊成は[[中納言]]の位で皇太后太夫([[皇太后]]に仕える仕事)の職に任じられ権中納言[[藤原定家|定家]]と共に[[百人一首]]を撰した。[[安徳天皇]]に仕えていたので、源平合戦の後、民間に降り、[[備中国]]平田に居住した。平田に皇太后国コウダイコクという字地名があるのはこれによると云われている。その子俊直より十三代の後裔某の妻は遺子為俊をつれて大内田村[[庄屋]]森竹右衛門妻に再嫁した。竹右衛門に嗣子がなかったので、為俊がその家を嗣いだ。為俊は姓を「公森」と改めて竹右衛門を[[襲名]]した。 |
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竹右衛門━竹右衛門━友太郎┳健四郎=貞吉 |
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2024年7月10日 (水) 13:01時点における最新版
経歴
[編集]家族
[編集]- 同妻 幸子(山口県、国弘長重の長女)
- 二男 仁郎(銀行員)ほか
系譜
[編集]竹右衛門━竹右衛門━友太郎┳健四郎=貞吉 ┃ ┗虎造
森 公森 太兵衛━多助━長治郎━仲蔵━太平孝俊━仲次光俊━太郎正俊┳俊郎 ┃ ┗仁郎
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『財界人物選集』 1939年 1089頁