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北条 公時 (ほうじょう きみとき、嘉禎元年(1235年 - 永仁3年(1295年))は鎌倉時代の武将。名越流北条時章の嫡男。母は二階堂行有の娘。越後、越中、大隈の守護を務める。法名は道鑒。
略歴
1265年引付衆に就任し幕政に参与、叔父、名越光時が宮騒動で反北条方に加担した事で悪化した北条得宗家との関係を修繕する事に父時章と共に腐心する。1272年、二月騒動で父時章が殺害され、時章が所領としていた肥後、筑前の守護職を没収される。この時公時も嫌疑を抱かれるが、後に時章に叛意がなかったことが明らかとなり許された。後に評定衆に選任され、得宗家の補佐と失墜した名越流の地位恢復に心血を注いだ。1295年に死去、享年61歳。