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:[[親鸞]]の晩年になってからの弟子で直弟子の一人。親鸞の孫にあたる[[唯善]]の師で、﹃慕帰絵詞﹄によれば、[[1288年]]︵正応元年︶唯円が[[常陸国]]から上洛した際、[[本願寺]]の[[覚如]]から広く法門の教義に関する問題を協議したとされる。﹁[[歎異抄]]﹂の著者とする説もある。常陸国河和田︵現在[[茨城県]][[水戸市]]︶に住していたことから'''河和田の唯円'''と称される。晩年は大和国吉野で布教し、秋野川の近辺で没したといわれる。
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;'''鳥喰の唯円'''(とりはみのゆいえん、生没年不詳) |
;'''鳥喰の唯円'''(とりはみのゆいえん、生没年不詳) |
2006年12月18日 (月) 14:57時点における版
唯円︵ゆいえん︶は、鎌倉時代の浄土真宗の僧。
河和田の唯円︵かわわだのゆいえん、貞応元年︵1222年︶ - 正応2年2月6日︵1289年2月27日︶︶
親鸞の晩年になってからの弟子で直弟子の一人。親鸞の孫にあたる唯善の師で、﹃慕帰絵詞﹄によれば、1288年︵正応元年︶唯円が常陸国から上洛した際、本願寺の覚如から広く法門の教義に関する問題を協議したとされる。﹁歎異抄﹂の著者とする説もある。常陸国河和田︵現在茨城県水戸市︶に住していたことから河和田の唯円と称される。晩年は大和国吉野で布教し、秋野川の近辺で没したといわれる。
鳥喰の唯円︵とりはみのゆいえん、生没年不詳︶
俗名は橋本綱宗と称したという。常陸国鳥喰︵現在茨城県那珂市︶に住したことから鳥喰の唯円と称される。親鸞二十四輩の一人とされ、常陸国太田に西光寺を建立したという。大正時代の劇作家、倉田百三は親鸞と唯円の物語を戯曲﹃出家とその弟子﹄で瑞々しく描いた。
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