「宇都宮義真」の版間の差分
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2020年9月27日 (日) 14:15時点における版
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宇都宮義真︵ ︶は、
東京光線療法研究所を設立し、全国療術師協会理事長なども務め、光線療法を用いて多くの患者の治療にあたりました。
生涯を光線療法の研究に捧げ、日本の光線療法の父と呼ばれている。
来歴
1932年、光線治療器を用いて病弱の長男義和の治療を行い、その卓越した治療効果に感銘を受け、生涯の業とすることを決意。 東京光線療法研究所の誕生。翌年には芝白金台町にて光線治療所を開設する。 1934年には機関誌﹁光線﹂発行。光線治療器﹁アナザーサン﹂の独自開発に成功。 発光方式は、新たな発想の正面対向式とし、自動接近式の高級光線治療器として荒井製作所にて製造。カーボンは、当初シーメンス社(ドイツ)製を使用するも、その後、コンラージ社(ドイツ)製に変更する。 1935年、機関誌名を﹁光と熱﹂に変更。光線治療器名も﹁サナモア(SANAMOI)﹂に変更した。 さらに、治療所の募集に加え、積極的に光線治療士の養成事業を開始。日本治療師会(現・全国療術師協会)に参加。 1938年に医療用カーボンを国産に切り替えるため、揖斐川電気株式会社(現イビデン株式会社)に依頼。工場長 永井氏(後に監査役)と協力し数種類を試作し、スペクトル写真を撮影。理化学研究所 二神博士の光電管を応用した光線測定器にて測定。 1942年、有楽町の東京都電気奨励館にサナモアを陳列販売。 日本橋の大成商会の取り扱いで、支那、満州、朝鮮、台湾、フィリピン、チリ等に光線治療器を輸出。 戦時中、陸海軍の強制でサーチライト用カーボン以外の製造を禁止されたが、医療用カーボンのみ製造継続を許可されていた。 1944年、第二次世界大戦に召集される。 1947年に復員し、全国療術師協会理事に就任する。 1953年、全国療術師協会理事長に就任(1975年まで)。 1976年、株式会社 東京光線療法研究所の設立。初代代表に就任。 1977年、享年78歳で死去[1]家族
宇都宮光明
東京光線療法研究所二代目代表。宇都宮正範
東京光線療法研究所三代目代表。著書
・光線療法学 原作者 宇都宮義真 改訂者 宇都宮光明 出版社 株式会社健康と光線社 ・光線治療の話 著者 宇都宮義真 宇都宮光明 出版社 株式会社東京光線療法研究所 ・医学の以前以後 著者 宇都宮義真 宇都宮光明 出版社 株式会社東京光線療法研究所 ・太陽を浴びれば医者はいらない 著者 宇都宮義真 出版社 ワニブックス外部リンク
東京光線メディカル 一般財団法人 日本光線療法協会 手記- ^ “東京光線メディカル│沿革”. 東京光線メディカル. 2020年9月27日閲覧。