「小沢一郎」の版間の差分
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父、小沢佐重喜は、弁護士出身で、いわゆる「吉田学校」の一員。吉田茂の側近として、建設大臣、郵政大臣を歴任。保守合同後、岸信介内閣時に衆議院安保特別委員長として日米相互安全保障条約の改定に力を注いだ。 |
父、小沢佐重喜は、弁護士出身で、いわゆる「吉田学校」の一員。吉田茂の側近として、建設大臣、郵政大臣を歴任。保守合同後、岸信介内閣時に衆議院安保特別委員長として日米相互安全保障条約の改定に力を注いだ。 |
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慶応大学卒業後、弁護士を目指し日本大学大学院に進学するが、父佐重喜の死去に伴い昭和44年の衆議院総選挙に26才で出馬、当選する。この総選挙を自民党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後、田中の秘蔵っ子として薫陶を受ける。自民党総務局長、衆議院議院運営委員長、第2次中曽根康弘内閣で自治大臣兼国家公安委員長を歴任する。この間、竹下登、金丸信らと「創世会」を結成し、田中派の大部分を竹下派に衣替えする。竹下内閣では、内閣官房副長官(政務)に就任し、小渕恵三官房長官を補佐し、日米構造協議、消費税導入、昭和天皇の大喪の礼にあたった。リクルート事件後、成立した海部俊樹内閣では、歴代最年少の47歳で自由民主党幹事長に就任。自由主義体制の維持を名目に経団連に圧力をかけ、選挙資金300億円を集めるなど「豪腕」と称された。湾岸戦争に関連し公明党の協力を得るため東京都知事選挙で、敗北した責任をとって幹事長を辞任。直後に狭心症で倒れるが、竹下派会長代行に就任。姻戚関係にある竹下登元首相、金丸信と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。小沢調査会を作り、国際貢献に関する答申を取りまとめる。海部内閣が政治改革を巡り総辞職を余儀なくされると、竹下派をまとめ後継総裁候補に宮沢喜一を擁立するが、年長者を自分の事務所に呼びつけ面接したと権勢と姿勢が傲慢であると非難される。 |
慶応大学卒業後、弁護士を目指し日本大学大学院に進学するが、父佐重喜の死去に伴い昭和44年の衆議院総選挙に26才で出馬、当選する。この総選挙を自民党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後、田中の秘蔵っ子として薫陶を受ける。自民党総務局長、衆議院議院運営委員長、第2次中曽根康弘内閣で自治大臣兼国家公安委員長を歴任する。この間、竹下登、金丸信らと「創世会」を結成し、田中派の大部分を竹下派に衣替えする。竹下内閣では、内閣官房副長官(政務)に就任し、小渕恵三官房長官を補佐し、日米構造協議、消費税導入、昭和天皇の大喪の礼にあたった。リクルート事件後、成立した海部俊樹内閣では、歴代最年少の47歳で自由民主党幹事長に就任。自由主義体制の維持を名目に経団連に圧力をかけ、選挙資金300億円を集めるなど「豪腕」と称された。湾岸戦争に関連し公明党の協力を得るため東京都知事選挙で、敗北した責任をとって幹事長を辞任。直後に狭心症で倒れるが、竹下派会長代行に就任。姻戚関係にある竹下登元首相、金丸信と共に「金竹小(こんちくしょう)」と称される。小沢調査会を作り、国際貢献に関する答申を取りまとめる。海部内閣が政治改革を巡り総辞職を余儀なくされると、竹下派をまとめ後継総裁候補に宮沢喜一を擁立するが、年長者を自分の事務所に呼びつけ面接したと権勢と姿勢が傲慢であると非難される。 |
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東京佐川急便事件により金丸副総裁が議員辞職したことを受けて、竹下派の後継会長をめぐり羽田孜を擁立し、竹下派は分裂。羽田、渡部恒三、奥田敬和らと改革フォーラム21を旗揚げする。
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[[自由党]]の党首であったが、2003年秋、[[民主党]]に合流した。 |
[[自由党]]の党首であったが、2003年秋、[[民主党]]に合流した。 |
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