小河一敏
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/db/Ogo_Kazutoshi.jpg/200px-Ogo_Kazutoshi.jpg)
経歴
岡藩士の子として、豊後国竹田に生まれた。朱子学・陽明学を学び、また詩歌や文章も善くした。藩論が尊王派と佐幕派に分かれ対立すると、尊王派の指導者として活動し、薩摩藩と結んで倒幕を画策したが1862年︵文久2年︶の寺田屋事件で挫折した。帰藩後幽閉され、一度は許されたものの、1865年︵慶応元年︶に幕府をはばかった藩主中川久昭により再び幽閉された。
新政府が成立後の1868年︵慶応4年︶4月、解放されて太政官に出仕し、参与・内国事務局判事となり、大阪府判事、堺県知事に転じた。堺県知事として養蚕業を導入して殖産興業に努めた。しかし1870年︵明治3年︶、氾濫で決壊した大和川の堤防の修築費用を、独断で発行した県札であてたことがとがめられ、免官となった。和泉・河内の民衆は記念碑を建てて、その功績をたたえた。
その後、宮内大丞に任ぜられたが、翌1871年︵明治4年︶に免官となった。1875年︵明治8年︶より修史局、修史局廃止後は修史館で史料の編纂にあたった。1877年︵明治10年︶に宮内省権少書記官に、1881年︵明治14年︶には宮内省御用掛に任ぜられた。
墓所は豊島区駒込の染井霊園。
参考文献
- 『堺市史 第七巻別編』堺市役所、1930年。
登場作品
- テレビドラマ
外部リンク
公職 | ||
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先代 - |
堺県知事 初代:1868年 - 1870年 |
次代 税所篤 |