「山田彦八」の版間の差分
link調整 |
|||
2行目: | 2行目: | ||
==経歴== |
==経歴== |
||
[[鹿児島県]]出身。山田有庸の息子として生まれる。[[明治]]4年([[1871年]])9月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学寮]]に入学。{{和暦|1878}}7月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]](5期)を卒業。{{和暦|1881}}1月、[[海軍少尉]]任官。{{和暦|1884}}10月、「[[金剛 (コルベット)|金剛]]」[[分隊]]長となり、軍事部出勤、[[軍令部|参謀本部海軍部]]第2局課員、[[軍令部|海軍参謀部]]第2局員、「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」「[[筑波 (コルベット)|筑波]]」「[[厳島 (巡洋艦)|厳島]]」の各分隊長、「[[松島 (巡洋艦)|松島]]」回航委員などを経て、{{和暦|1891}}12月、海軍[[少佐]]に昇進。 |
[[鹿児島県]]出身。山田有庸の息子(母は[[大久保利通]]の妹・スマ)として生まれる。[[明治]]4年([[1871年]])9月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学寮]]に入学。{{和暦|1878}}7月、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]](5期)を卒業。{{和暦|1881}}1月、[[海軍少尉]]任官。{{和暦|1884}}10月、「[[金剛 (コルベット)|金剛]]」[[分隊]]長となり、軍事部出勤、[[軍令部|参謀本部海軍部]]第2局課員、[[軍令部|海軍参謀部]]第2局員、「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」「[[筑波 (コルベット)|筑波]]」「[[厳島 (巡洋艦)|厳島]]」の各分隊長、「[[松島 (巡洋艦)|松島]]」回航委員などを経て、{{和暦|1891}}12月、海軍[[少佐]]に昇進。 |
||
{{和暦|1892}}6月、海軍参謀部第3課課員となり、[[呉鎮守府]][[参謀]]、﹁[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]﹂副長を歴任し、{{和暦|1895}}12月、﹁[[天城 (スループ)|天城]]﹂[[艦長]]に就任。﹁[[天龍 (スループ)|天龍]]﹂艦長、呉[[海兵団]]長心得を経て、{{和暦|1897}}6月、海軍[[大佐]]に進級し呉海兵団長となった。{{和暦|1898}}5月、﹁[[須磨 (防護巡洋艦)|須磨]]﹂艦長に就任し、﹁[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]﹂回航委員長︵[[イギリス]]出張︶、同艦長、[[佐世保鎮守府]]参謀長を経て、{{和暦|1903}}11月、﹁[[朝日 (戦艦)|朝日]]﹂艦長に発令され[[日露戦争]]に出征。{{和暦|1904}}6月、[[海軍少将]]に進み[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]][[司令官]]に就任し[[日本海海戦]]に参加した。
|
{{和暦|1892}}6月、海軍参謀部第3課課員となり、[[呉鎮守府]][[参謀]]、﹁[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]﹂副長を歴任し、{{和暦|1895}}12月、﹁[[天城 (スループ)|天城]]﹂[[艦長]]に就任。﹁[[天龍 (スループ)|天龍]]﹂艦長、呉[[海兵団]]長心得を経て、{{和暦|1897}}6月、海軍[[大佐]]に進級し呉海兵団長となった。{{和暦|1898}}5月、﹁[[須磨 (防護巡洋艦)|須磨]]﹂艦長に就任し、﹁[[磐手 (装甲巡洋艦)|磐手]]﹂回航委員長︵[[イギリス]]出張︶、同艦長、[[佐世保鎮守府]]参謀長を経て、{{和暦|1903}}11月、﹁[[朝日 (戦艦)|朝日]]﹂艦長に発令され[[日露戦争]]に出征。{{和暦|1904}}6月、[[海軍少将]]に進み[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]][[司令官]]に就任し[[日本海海戦]]に参加した。
|
2010年3月2日 (火) 12:58時点における版
山田 彦八(やまだ ひこはち、1855年4月15日(安政2年2月29日) - 1942年1月28日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
参考文献
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。