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'''左近允 尚敏'''︵さこんじょう なおとし、[[1925年]] -[[2013年]][[6月30日]]︶は、[[大日本帝国海軍]]の[[軍人]]、[[海上自衛官]]。最終階級は[[海将]]。[[鹿児島県]]出身。[[海軍兵学校_(日本)|海兵]][[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#72期|72期]]。[[大日本帝国海軍|海軍]][[中将]][[左近允尚正]]の次男。 == 経歴==
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== エピソード ==
[[ビハール号事件]]により父尚正が処刑された時、英国側から遺族には遺髪遺骨も含め何も渡されなかった。
尚敏はインドネシア防衛駐在官に赴任する際に香港に立ち寄り、日本領事館の領事であった[[佐々淳行]]の取り計らいで尚正最期の地であるスタンレー刑務所を訪れ慰霊を捧げた。
佐々は刑務所側の許可を取る(訪問の名目は死刑囚監房と絞首台の「視察」)際尚敏が尚正の子であることを明かさなかったが、刑務所所長はそのことを把握した上で来訪を黙認したという。
== 年譜 ==
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2016年8月16日 (火) 12:47時点における版
左近允尚敏 | |
---|---|
生誕 |
1925年2月11日 鹿児島県 |
死没 | 2013年6月30日(88歳没) |
所属組織 |
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軍歴 |
1943 - 1945(日本海軍) 1952 - 1979(海自) |
最終階級 |
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指揮 | 練習艦隊 (海上自衛隊)司令、第4護衛隊群司令(海自) |
戦闘 | 太平洋戦争 |
除隊後 |
平和・安全保障研究所研究委員 産経新聞客員論説委員 |
左近允 尚敏︵さこんじょう なおとし、1925年 -2013年6月30日︶は、大日本帝国海軍の軍人、海上自衛官。最終階級は海将。鹿児島県出身。海兵72期。海軍中将左近允尚正の次男。多号作戦で駆逐艦島風砲術長[1]として島風沈没時︵多号作戦︶に戦死した海軍大尉左近允正章(まさふみ)は兄。
経歴
兄の正章と同じく横須賀中(30期)より海軍兵学校へ入校、1943年︵昭和18年︶9月卒業︵72期︶。9月15日附で少尉候補生に任官[2]。伊勢型戦艦1番艦伊勢乗組[2]。乗艦実習の後、11月15日附で最上型重巡洋艦4番艦熊野乗組を命じられる[3]。なお兄の正章も海軍少尉として太平洋戦争開戦時の熊野に勤務している[4][5]。尚敏︵少尉候補生︶は熊野砲術士として勤務後、1944年︵昭和19年︶3月15日附で海軍少尉任官[6]。引き続き熊野航海士に命ぜられ、その後マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加。熊野は11月25日、フィリピンのサンタクルーズ湾︵ルソン島︶で撃沈された。
1945年︵昭和20年︶2月15日、艤装中の松型駆逐艦﹁梨﹂に着任[7]。海軍中尉昇進後の3月15日附で駆逐艦﹁梨﹂は竣工、尚敏中尉は梨航海長に補職[8]。だが同艦は7月28日に撃沈された。海軍大尉昇進後の8月8日、駆逐艦﹁初桜﹂航海長に任命され[9]、同艦航海長として終戦の日を迎え、9月28日、水先案内の士官を送り届けるため米艦隊を出迎えた。その後、復員業務に従事した。
1952年に海上自衛隊の前身の海上警備隊に入隊し、インドネシア防衛駐在官、第4護衛隊群司令、練習艦隊司令官、防衛大学校訓練部長、統合幕僚会議事務局長、統合幕僚学校長などを歴任して1979年に退官した。
自衛隊退官後は葉山町に在住し[10]、平和・安全保障研究所研究委員、産経新聞客員論説委員を経て平和・安全保障研究所研究委員会顧問、日本国際フォーラム政策委員[11]となった。
2013年6月30日、胸部大動脈瘤破裂で死去した[12]。
エピソード
ビハール号事件により父尚正が処刑された時、英国側から遺族には遺髪遺骨も含め何も渡されなかった。 尚敏はインドネシア防衛駐在官に赴任する際に香港に立ち寄り、日本領事館の領事であった佐々淳行の取り計らいで尚正最期の地であるスタンレー刑務所を訪れ慰霊を捧げた。 佐々は刑務所側の許可を取る(訪問の名目は死刑囚監房と絞首台の「視察」)際尚敏が尚正の子であることを明かさなかったが、刑務所所長はそのことを把握した上で来訪を黙認したという。
年譜
●1940年︵昭和15年︶12月‥海軍兵学校入校︵第72期︶
●1943年︵昭和18年︶
●9月‥海軍兵学校卒業。少尉候補生任官[2]。戦艦﹁伊勢﹂乗艦実習[2]
●11月15日‥巡洋艦﹁熊野﹂乗組[3]
●12月‥﹁熊野﹂砲術士
●1944年︵昭和19年︶
●3月15日‥少尉任官[6]。﹁熊野﹂航海士
●11月25日‥熊野沈没。
●1945年︵昭和20年︶
●2月15日‥駆逐艦﹁梨﹂艤装員[7]。
●3月15日‥駆逐艦﹁梨﹂竣工。同艦航海長︵海軍中尉︶[8]
●7月28日‥梨沈没。
●8月8日‥駆逐艦﹁初櫻﹂航海長︵海軍大尉︶[9]。
●8月15日‥終戦
●1952年︵昭和27年︶7月‥海上警備隊入隊︵1等警備士︶
●1961年︵昭和36年︶1月‥2等海佐
●1962年︵昭和37年︶4月‥護衛艦﹁はつひ﹂艦長
●1965年︵昭和40年︶10月‥インドネシア防衛駐在官
●1967年︵昭和42年︶7月‥1等海佐
●1968年︵昭和43年︶12月‥第1駆潜隊司令
●1971年︵昭和46年︶6月‥海上幕僚監部防衛部通信課長
●1973年︵昭和48年︶7月‥少年術科学校長
●1974年︵昭和49年︶1月‥海将補
●6月‥第4護衛隊群司令
●1975年︵昭和50年︶6月‥練習艦隊司令官
●1976年︵昭和51年︶12月‥防衛大学校訓練部長
●1977年︵昭和52年︶7月‥海将
●1978年︵昭和53年︶7月‥統合幕僚会議事務局長兼統合幕僚学校長
●1979年︵昭和54年︶11月‥退官
●1995年︵平成7年︶4月‥勲三等瑞宝章受章
●2013年︵平成25年︶6月‥逝去︵享年88︶
著書
単著
- 『防衛選書 海上防衛論』(麹町書房、1982/06)
- 『敗戦―一九四五年春と夏』(光人社、2005/08)
- 『捷号作戦はなぜ失敗したのか―レイテ沖海戦の教訓』(中央公論新社、2010/10)
- 『ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実』(新人物往来社、2011/6/22)
訳書
- ラッセル·スパー『戦艦大和の運命―英国人ジャーナリストのみた日本海軍』(新潮社、1987/8)
- ジョン·ウィントン『米国諜報文書ウルトラin theパシフィック』(光人社、1995/11)
- ジョン·コステロ『真珠湾、クラーク基地の悲劇―責任はだれにあるのか』(啓正社、1998/04)
- カール·ボイド『盗まれた情報―ヒトラーの戦略情報と大島駐独大使』(原書房、1999/12)
- ピーター・G. ツォーラス『太平洋戦争の研究―こうすれば日本は勝っていた』(PHP研究所、2002/11)
脚注
- ^ 「昭和19年3月10日(発令3月10日)海軍辞令公報(部内限)第1365号 p.43」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096500
- ^ a b c d 「昭和18年9月15日(発令9月15日)海軍辞令公報(部内限)第1213号 p.31少尉候補生任官、p.50伊勢乗組」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092900
- ^ a b 「昭和18年11月15日(発令11月15日)海軍辞令公報(部内限)第1261号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400
- ^ 「昭和16年11月1日(発令11月1日)海軍辞令公報(部内限)第738号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083000
- ^ 「昭和17年8月15日(発令8月15日)海軍辞令公報(部内限)第921号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086600
- ^ a b 「昭和19年3月15日(発令3月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1370号 p.30」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096600
- ^ a b 「昭和20年2月19日(発令2月15日)海軍辞令公報(甲)第1726号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103500
- ^ a b 「昭和20年3月26日(発令3月15日)海軍辞令公報(甲)第1755号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103900
- ^ a b 「昭和20年8月16日(発令8月8日)海軍辞令公報(甲)第1887号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106900
- ^ 『百年の風 創立百周年記念誌 神奈川県立横須賀中学校・高等学校 朋友編・明友編』498頁
- ^ “委員”. 日本国際フォーラム. 2014年2月25日閲覧。
- ^ なにわ会のブログ 訃報 左近允尚敏君が逝去されました。 2013年9月15日閲覧
参考文献
- 海上自衛隊幹部学校機関誌『波濤』16年3月号
- なにわ会ニュース91号25頁 平成16年9月
- 遺骨なく遺髪なく--第十六戦隊司令官・左近允尚正中将の運命
- 駆逐艦梨の戦闘 |「なにわ会HP」内
- なにわ会HP(海軍兵学校第72期、海軍機関学校第53期、海軍経理学校第33期の合同クラス会)
- 佐々淳行『香港領事佐々淳行―香港マカオ暴動、サイゴン・テト攻勢 』