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事件は、昭和19年3月、臨時に第16戦隊の指揮下に入った[[重巡洋艦|重巡]][[利根 (重巡洋艦)|利根]]︵[[艦長]]・[[黛治夫]][[大佐]]︶が、[[インド洋]]でイギリスの[[商船]]﹁ビハール号﹂を撃沈した際、[[捕虜]]80名を得たが、司令部の﹁作戦中の俘虜は処分すべし﹂という命令によって後に65名を虐殺したもの。
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事件は、昭和19年3月、臨時に第16戦隊の指揮下に入った[[重巡洋艦|重巡]][[利根 (重巡洋艦)|利根]]︵[[艦長]]・[[黛治夫]][[大佐]]︶が、[[インド洋]]でイギリスの[[商船]]﹁ビハール号﹂を撃沈した際、[[捕虜]]80名を得たが、司令部の﹁作戦中の俘虜は処分すべし﹂という命令によって後に65名を虐殺したもの。
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俘虜殺害命令は口頭でおこなわれたため記録がなく出所不明。最高責任者である[[南西方面艦隊]]司令長官[[高須四郎]]大将は既に病没していたので、次位の左近允がスケープゴートにされたとの説もある。左近允の人柄は、同期の[[寺岡謹平]]によれば「豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型」であったという。 |
俘虜殺害命令は口頭でおこなわれたため記録がなく出所不明。最高責任者である[[南西方面艦隊]]司令長官[[高須四郎]]大将は既に病没していたので、次位の左近允がスケープゴートにされたとの説もある。左近允の人柄は、同期の[[寺岡謹平]]によれば「豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型」であったという。多くの非戦闘員を非業の死へ追いやった犯罪に関わりながら、死刑執行に際しての[[辞世の句]]は''「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」''であった。 |
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==家族== |
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2013年9月23日 (月) 13:35時点における版
左近允尚正 | |
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生誕 |
1890年6月6日 鹿児島県 |
死没 |
1948年1月21日(57歳没) 香港スタンレー監獄 |
所属組織 |
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軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中将 |
左近允 尚正(さこんじょう なおまさ、明治23年(1890年)6月6日 - 昭和23年(1948年)1月21日)は日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
プロフィール
鹿児島県出身。海兵40期卒。専攻は水雷。タイ王国大使館付武官の時太平洋戦争開戦を迎える。昭和18年︵1943年︶9月、第16戦隊司令官に就任し南方戦線に従軍。渾作戦、レイテ島輸送作戦︵多号作戦︶などを指揮した。
昭和19年︵1944年︶10月、中将に進級。12月、支那方面艦隊参謀長に就任し、終戦を迎えた。しかし、ビハール号事件の戦犯として逮捕され、イギリス軍により同国の植民地の香港のスタンレー監獄で絞首刑にされた。
ビハール号事件
事件は、昭和19年3月、臨時に第16戦隊の指揮下に入った重巡利根︵艦長・黛治夫大佐︶が、インド洋でイギリスの商船﹁ビハール号﹂を撃沈した際、捕虜80名を得たが、司令部の﹁作戦中の俘虜は処分すべし﹂という命令によって後に65名を虐殺したもの。
俘虜殺害命令は口頭でおこなわれたため記録がなく出所不明。最高責任者である南西方面艦隊司令長官高須四郎大将は既に病没していたので、次位の左近允がスケープゴートにされたとの説もある。左近允の人柄は、同期の寺岡謹平によれば﹁豪壮、恬淡、真に薩摩隼人の典型﹂であったという。多くの非戦闘員を非業の死へ追いやった犯罪に関わりながら、死刑執行に際しての辞世の句は﹁絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ﹂であった。
家族
参考文献
- 青山淳平『海は語らない ビハール号事件と戦犯裁判』(光人社、2006年) ISBN 4-7698-1311-2
- 石丸法明「帝国海軍の污点「捕虜処刑事件」は何故起きた インド洋「サ号作戦」の真実」
- 潮書房『丸』2005年4月号 No.708 p229~p257