康熙帝
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康熙帝 愛新覚羅玄燁 | |
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清 | |
第4代皇帝 | |
![]() 清聖祖康熙皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵) | |
王朝 | 清 |
在位期間 | 1661年2月5日 - 1722年12月20日 |
姓・諱 | 愛新覚羅玄燁(アイシンギョロ・ヒョワンエ) |
満洲語 | ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ ᡥᡞᠣᠸᠠᠨ ᠶᡝ(Aisin gioro Hiowan ye) |
諡号 |
仁皇帝(gosin hūwangdi) 合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝 |
廟号 | 聖祖 |
生年 |
順治11年3月18日 (1654年5月4日) |
没年 |
康熙61年11月13日 (1722年12月20日) |
父 | 順治帝 |
母 | 庶妃トゥンギャ氏(孝康章皇后) |
后妃 |
孝誠仁皇后 孝昭仁皇后 孝懿仁皇后 |
陵墓 | 景陵(ambalinggū munggan) |
年号 | 康熙 (elhe taifin): 1662年 - 1722年 |
康熙帝︵こうきてい︶は、清の第4代皇帝。諱は玄燁︵げんよう、燁は火偏に華︶。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝︵略して仁皇帝︶。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝聖宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常は漢の高祖︵太祖高皇帝︶劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康煕帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6f/Young_Kangxi.jpg/180px-Young_Kangxi.jpg)
青年時代の康熙帝
康熙12年︵1673年︶、三藩の乱が起こった。明の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して投降し、その後南に逃れた南明の永暦帝を殺したことで清から功績大と認められ、皇族でないにもかかわらず親王の位を授けられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の3人の藩王は、それぞれ雲南、広東、福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体をなしていた。
康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3人だけ﹁このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。﹂という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、鄭氏台湾の鄭経もこれに呼応した。そのため清は、一時期長江以南を全て奪われるなど、崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは﹁満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう﹂というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので、民衆は支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで、清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年︵1681年︶に三藩の乱は鎮圧された。その2年後には李光地の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。
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避暑山荘の康熙帝銅像
台湾を収併した年、ピョートル1世︵摂政‥ソフィア・アレクセーエヴナ、顧問‥ヴァシーリー・ゴリツィン︶時代のロシア帝国が、満州族の故地である黒竜江付近のアルバジンに南下してきたので、この地域の軍事力を強化し︵清露国境紛争︶、康熙28年︵1689年︶にソンゴトゥを派遣してネルチンスク条約を締結した。19世紀に受け入れさせられた一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト︵南懐仁︶の助言があったといわれ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約締結をもってして清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまではいえない。
1670年代、ジュンガル部のガルダン・ハーン︵噶爾丹︶がオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年︵1693年︶、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決︵第1次オイラト・満州戦争︶、みずから軍勢を率いての戦闘を経て康熙35年︵1696年︶、ガルダンに致命的打撃を与えることに成功、ガルダンは敗走中に死去した︵ジョーン・モドの戦い︶。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様、内政自主権を行使していたが、これ以後は清の盟旗制に組み込まれることとなる。
18世紀には、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海のグシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラプタンが同盟を組み、康熙56年︵1717年︶、ジュンガル軍がチベットに侵攻し、ラサを制圧、チベットのラサン・ハンを殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じて康熙57年︵1718年︶、チベットに出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた︵サルウィン川の戦い︶。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主立った者たちを、当初ジュンガルと同盟した者達を含めて北京に招き、爵位で釣って清朝側につけることに成功、康熙59年︵1720年︶の第二次派遣軍は、﹁グシ・ハンの打ち立てた法の道﹂を回復することを旗印に、グシ・ハン一族の軍勢とともに進軍、ガリーのガルトクの知事カンチェンネーとラサンハン軍にいたツァンのポラネーらゲリラ勢力の蜂起に苦しめられていたジュンガル軍はこれを見て、戦わずして中央チベットから撤退していった。
康熙帝は﹁グシ・ハンの立てた法の道︵ダライラマを擁するチベットのハン︶﹂をチベットの正統の政体と認め、この政体の回復をチベット介入の旗印にしていた。康熙60年︵1721年︶には、グシ・ハン一族にハン位継承候補者を選出するよう求めたが、グシ・ハン一族は18世紀初頭以来、内紛の極みに達しており、一族とチベットの有力者が一致して支持しうる候補者を選出することができなかった。康熙帝はラサンを継ぐハンを冊封せぬまま没し、チベットの戦後統治処理は次代雍正帝の手に委ねられることになる。
康熙60年︵1721年︶に、朱一貴が台湾の阿里港︵現在の里港郷︶で反乱を起こしたが、総兵藍廷珍及びその族弟藍鼎元を派遣し、翌康熙61年に平定した。
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康煕帝︵北京故宮博物院蔵︶
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狩りをする康熙帝
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南巡する康熙帝
康熙22年︵1683年︶から康熙帝はほとんど毎年夏には木蘭囲場︵現・承徳市囲場満族モンゴル族自治県︶に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年︵1703年︶には熱河に離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は、家法として雍正帝や乾隆帝にも受け継がれていく。
康熙帝の代から十哲の一人として朱子を祀るようになり、﹃朱子全書﹄﹃性理大全﹄などの朱子に関する著作をまとめた。﹃明史﹄の編纂にも力を入れ、大部分を完成させている︵全巻完成は乾隆4年︵1739年︶︶。また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに実測による最初の中国地図﹃皇輿全覧図﹄を作成させた。 康熙帝は孝誠仁皇后が生んだ第2子の胤礽︵示偏に乃︶を、康熙15年︵1676年︶に皇太子に立てたが、康熙42年︵1703年︶にソンゴトゥがクーデターで失脚すると、康熙47年︵1708年︶に胤礽は素行に問題があるとして廃され、一度復位させたものの再度廃され、その後崩御まで皇太子を立てることはなかった。そのため皇位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられ︵九王奪嫡︶、雍正帝の即位に関して様々な憶測が伝わり﹁雍正簒位﹂として民間に広まることとなる。 順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵に陵墓がある。
生涯
即位
順治帝の第3子として生まれ、疱瘡にかかったことを口実に城外に出され乳母の手で育てられた。順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄燁は祖母である孝荘文皇后により厳格にしつけられた。1661年病状が悪化した順治帝は、玄燁が疱瘡を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由に皇太子に指名し、1661年に8歳で即位する。[1] 一説によると宮中で育てられず、北京のつつましい地区で育てられたということであり、順治帝が死に宦官が迎えに来たとき康熙帝は同年代の子供と路上で遊んでいた。もしこれが事実なら人間形成の大事な時期に庶民の生活に触れて、宦官の毒気に当てられないで済んだわけである。[2] 順治帝の遺命により、スクサハ、ソニン、エビルン、オボイの重臣4人による合議制だった。康熙6年︵1667年︶にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康煕8年︵1669年︶、康熙帝はソニンの遺児ソンゴトゥと謀って、モンゴル相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除、15歳の時に親政を始めた。三藩の乱
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外征
北方民族の王者
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国内政策
康熙帝は内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれる。また使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税をたびたび行った。また、丁銀︵人頭税︶の額を康熙50年︵1711年︶の調査で登録された人丁︵16歳から59歳の成年男子︶の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。 文化的にも﹃康熙字典﹄﹃大清会典﹄﹃歴代題画﹄﹃全唐詩﹄﹃佩文韻府﹄などを編纂させ、﹃古今図書集成﹄の編纂を命じた︵完成は雍正帝の時代︶。朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったといわれる。[3]。康熙帝の代から十哲の一人として朱子を祀るようになり、﹃朱子全書﹄﹃性理大全﹄などの朱子に関する著作をまとめた。﹃明史﹄の編纂にも力を入れ、大部分を完成させている︵全巻完成は乾隆4年︵1739年︶︶。また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに実測による最初の中国地図﹃皇輿全覧図﹄を作成させた。 康熙帝は孝誠仁皇后が生んだ第2子の胤礽︵示偏に乃︶を、康熙15年︵1676年︶に皇太子に立てたが、康熙42年︵1703年︶にソンゴトゥがクーデターで失脚すると、康熙47年︵1708年︶に胤礽は素行に問題があるとして廃され、一度復位させたものの再度廃され、その後崩御まで皇太子を立てることはなかった。そのため皇位をめぐって他の皇子の間で暗闘が繰り広げられ︵九王奪嫡︶、雍正帝の即位に関して様々な憶測が伝わり﹁雍正簒位﹂として民間に広まることとなる。 順治帝は清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清東陵に陵墓がある。
逸話
●上述のように狩猟が得意であり、生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒した逸話が残っている[4]。 ●外見は背格好は中以上、中国人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘のあとが残っている、目は普通の中国人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる。[5]。 ●能力は俊敏、透察的な知性立派な記憶力、驚くべき天分の広さ、如何なる事件に耐えれる剛毅、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり大王に適していると絶賛されている。[6]。 ●学問を非常に好んでおり、孔子の著書を大半暗記していて、多くの古典も暗記していた。また西洋学問も深く興味を抱き、幾何学、科学、天文学をよく学んだ。[7] ●フェルディナント・フェルビーストと湯光先を臨時の会議に呼び出し中国天文学と西洋天文学どちらか正しいかきく訊問して実証させ、西洋天文学の正しさを実証させた[8] ●呉三桂など多くの漢民族の反乱悩まされたが、不眠不休、連日連夜に渡り会議を行い命令を下した適切な対応したため数で勝る漢民族を懐柔すること成功した。[9] ●蒙古の王が反乱を起こそうとすると、すぐさま北京の軍と蒙古に隣接する遼東省の軍を合流させた混合軍を送った。蒙古王は自軍の情勢も、兵力集中も、隣国の協力も得れず戦い敗北して兄弟と王子が俘虜となった。[10] ●飢饉の時に諸省の年貢を免除して、米倉を解放した。また被害の大きい地域には米と金を分配した。また六部新築するため、北京に集まっていた貧乏人を使役し、彼らの困窮を救った。中国史でありがちの農民反乱を未然に防ぐ事に成功している[11]。 ●康熙帝は時折巡幸して国民と官使を視察した、その時身分の低い者でもそばに行く事ができ、彼らに親切で恩愛な態度を取った。そして官使に満足しているかを聞いた。[12] ●生活は質素であり食事は普通の食べ物で満足した。また離宮を建設した時、豪勢振りを反映するものは見当たらず清楚であった。衣服も豹の毛皮と一般的な用いられるものだった[13] ●王子の教育にも熱心であり、歩き始めてすぐに、馬術、弓術、銃術を教えてた。また王子達が過保護にされるのを好まず、労働、労苦を与えて、粗悪な肉類を食べるようにしつけた。[14]后妃
正室
●孝誠仁皇后 (hiyoošungga unenggi gosin hūwangheo)︵ヘシェリ氏、赫舎里氏︶ 子‥皇子承祐︵夭逝︶、皇二子理親王胤礽︵廃皇太子︶ ●孝昭仁皇后 (hiyoošungga genggiyen gosin hūwangheo) ︵ニオフル氏、鈕祜禄氏︶ ●孝懿仁皇后[15] (hiyoošungga fujurungga gosin hūwangheo)︵トゥンギャ氏、佟佳氏︶ - 康熙帝の母方従妹。女‥皇八女︵夭逝︶側室
●孝恭仁皇后 (hiyoošungga gungnecuke gosin hūwangheo) ︵ウヤ氏、烏雅氏︶ 子女‥皇四子胤禛︵雍正帝︶、皇六子胤祚︵夭逝︶、皇七女︵夭逝︶、皇九女固倫温憲公主、皇十二女︵夭逝︶、皇十四子恂郡王胤禵 ●愨恵皇貴妃︵トゥンギャ氏、佟佳氏︶ - 康熙帝の母方従妹、孝懿仁皇后の妹。 ●惇怡皇貴妃︵グワルギャ氏、瓜爾佳氏︶ 女‥皇十八女︵夭逝︶ ●敬敏皇貴妃︵ジャンギャ氏、章佳氏︶ 子女‥皇十三子怡親王胤祥、皇十三女和碩温恪公主、皇十五女和碩敦恪公主 ●温僖貴妃︵ニオフル氏、鈕祜禄氏︶ - 孝昭仁皇后の妹。子女‥皇十子敦郡王胤䄉︵示へんに我︶、皇十一女 ●順懿密妃︵王氏︶ 子‥皇十五子愉郡王胤禑、皇十六子荘親王胤禄、皇十八子胤祄︵夭逝︶ ●純裕勤妃︵陳氏︶ 子‥皇十七子果親王胤礼 ●恵妃︵ナラ氏、納喇氏︶ 子‥皇子承慶︵夭逝︶、皇長子直郡王胤禔 ●宜妃︵ゴロロ氏、郭絡羅氏︶ 子‥皇五子恒親王胤祺、皇九子貝子胤禟、皇十一子胤禌︵夭逝︶ ●栄妃︵マギャ氏、馬佳氏︶ 子‥皇子承瑞︵夭逝︶、皇子賽音察渾︵夭逝︶、皇三女固倫栄憲公主、皇子長華︵夭逝︶、皇子長生︵夭逝︶、皇三子誠郡王胤祉、 ●定妃︵ワンリュハ氏、万琉哈氏︶ 子‥皇十二子履親王胤祹 ●宣妃︵ボルジギト氏、博爾済吉特氏︶ ●成妃︵ダイギャ氏、戴佳氏︶ 子‥皇七子淳親王胤祐 ●良妃︵衛氏︶ 子‥皇八子廉親王胤禩 ●平妃︵ヘシェリ氏、赫舎里氏︶ - 孝誠仁皇后の妹。子女‥皇子胤禨︵夭逝︶ ●慧妃︵ボルジギン氏、博爾済吉特氏︶ ●襄嬪︵高氏︶ 子女‥皇十九子胤稷︵夭逝︶、皇十九女︵夭逝︶、皇二十子簡静貝勒胤禕 ●煕嬪︵陳氏︶ 子‥皇二十一子慎郡王胤禧 ●謹嬪︵ヘシェリ氏、色赫図氏︶ 子‥皇二十二子恭勤貝勒胤祜 ●静嬪︵石氏︶ 子‥皇二十三子貝勒胤祁 ●穆嬪︵陳氏︶ 子‥皇二十四子誠親王胤祕 ●通嬪︵ナラ氏、那拉氏︶ 子女‥皇十女固倫純愨公主 ●端嬪︵董氏︶ 女‥皇二女︵夭逝︶ ●僖嬪︵ヘシェリ氏、赫舎里氏︶ ●布貴人︵ジョーギャ氏、兆佳氏︶ 女‥皇五女和碩端静公主 ●貴人ゴロロ︵郭絡羅︶氏 - 宜妃の妹。子女‥皇子胤ウ︵示へんに禹︶、皇六女固倫恪靖公主 ●貴人袁氏 女‥皇十四女和碩愨靖公主 ●貴人︵ナラ氏、那拉氏︶ 子女‥皇子万黼︵夭逝︶、皇子胤サン︵示へんに賛、夭逝︶ ●貴人︵ナラ氏、那拉氏︶ ●貴人陳氏 子‥皇子胤禐︵夭逝︶ ●庶妃張氏 女‥皇長女︵夭逝︶、皇四女︵夭逝︶ ●庶妃王氏 女‥皇十六女︵夭逝︶ ●庶妃劉氏 女‥皇十七女︵夭逝︶ ●庶妃ニオフル︵鈕祜禄︶氏 女‥皇二十女︵夭逝︶ 他脚注
(一)^ http://www.pressnet.co.jp/aixin/Japanese/Mame/04.htm (二)^ 康熙帝伝・13P (三)^ 康熙帝伝・180P (四)^ 清宫秘史 (五)^ 康熙帝伝・6P (六)^ 康熙帝伝・6P (七)^ 康熙帝伝・70P (八)^ 康熙帝伝・74P (九)^ 康熙帝伝・38P (十)^ 康熙帝伝・40P (11)^ 康熙帝伝・46P (12)^ 康熙帝伝・54P (13)^ 康熙帝伝・57P (14)^ 康熙帝伝・136P (15)^ 弟にロンコドがおり、皇位継承争いでは雍正帝の擁立に貢献したが、後に誅殺された。登場作品
武俠小説﹃鹿鼎記﹄がよく知られており、1984年の﹃鹿鼎記﹄と2008年の﹃鹿鼎記﹄でテレビドラマ化された。- テレビドラマ
- 康熙王朝全50話(2001年、中国)