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初代主筆は[[ユーリウス・クノル]]だが、初期の記事のほとんどはシューマンが執筆していた。[[1835年]]、出版元が変わると共にシューマンが主筆となる。彼は同誌に多数の評論文を発表し、[[フレデリック・ショパン]]や[[エクトル・ベルリオーズ]]といった新世代の才能を存分に称揚した。 |
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[[1843年]]6月、シューマンは他の仕事の契約が原因で同誌を去り、[[1844年]]に[[フランツ・ブレンデル]]が経営者兼主筆となる。ブレンデルが担当していた時期の記事で最もよく知られているのは、[[リヒャルト・ワーグナー]]がK・フライゲダンク︵K・自由思想︶の変名で発表した[[反ユダヤ主義|反ユダヤ的]]な論文﹁[[音楽におけるユダヤ性]]﹂であろう︵[[1850年]][[9月3日]]第19号第33巻所載︶。この論文は故[[フェリックス・メンデルスゾーン]]の[[名誉]]を傷つけるものだったため、メンデルスゾーンの創立による[[ライプツィヒ音楽院]]の[[イグナーツ・モシェレス]]やその他の教授たちが、ブレンデルを同校の評議員会から追放しようとする事態に発展したが、そのことを除いてはほとんど社会的反響がなかった。ブレンデルは[[1868年]]に死去するまで同誌の主筆でありつづけた。この間、[[1853年]][[10月28日]]、シューマンが久々に同誌に登場して﹁新しい道﹂と題する一文を発表し、当時20歳の[[ヨハネス・ブラームス]]の才能を熱烈に称賛して、彼の名を広く楽壇に紹介した。
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[[category:ドイツの音楽|しんおんかくしほう]] |
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2007年1月20日 (土) 03:13時点における版
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クラシック音楽 |
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作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 フルート協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト カテゴリ |
新音楽時報︵しんおんがくじほう; Die Neue Zeitschrift für Musik︶とは、ドイツで最も権威ある音楽雑誌。略称NZM。1834年4月3日にライプツィヒでロベルト・シューマンが創刊。﹁音楽新時報﹂﹁新音楽雑誌﹂などの訳語もある。隔月刊で、2006年現在なお刊行中。ISSNは09456945。
初代主筆はユーリウス・クノルだが、初期の記事のほとんどはシューマンが執筆していた。1835年、出版元が変わると共にシューマンが主筆となる。彼は同誌に多数の評論文を発表し、フレデリック・ショパンやエクトル・ベルリオーズといった新世代の才能を存分に称揚した。
1843年6月、シューマンは他の仕事の契約が原因で同誌を去り、1844年にフランツ・ブレンデルが経営者兼主筆となる。ブレンデルが担当していた時期の記事で最もよく知られているのは、リヒャルト・ワーグナーがK・フライゲダンク︵K・自由思想︶の変名で発表した反ユダヤ的な論文﹁音楽におけるユダヤ性﹂であろう︵1850年9月3日第19号第33巻所載︶。この論文は故フェリックス・メンデルスゾーンの名誉を傷つけるものだったため、メンデルスゾーンの創立によるライプツィヒ音楽院のイグナーツ・モシェレスやその他の教授たちが、ブレンデルを同校の評議員会から追放しようとする事態に発展したが、そのことを除いてはほとんど社会的反響がなかった。ブレンデルは1868年に死去するまで同誌の主筆でありつづけた。この間、1853年10月28日、シューマンが久々に同誌に登場して﹁新しい道﹂と題する一文を発表し、当時20歳のヨハネス・ブラームスの才能を熱烈に称賛して、彼の名を広く楽壇に紹介した。