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'''楠葉関'''(くすはのせき/くずはのせき)は、[[中世]]に[[河内国]][[交野郡]][[くずは|楠葉]](現在の[[大阪府]][[枚方市]][[くずは|楠葉]])の[[淀川]]沿岸に設置された[[関所]]。 |
'''楠葉関'''(くすはのせき/くずはのせき)は、[[中世]]に[[河内国]][[交野郡]][[くずは|楠葉]](現在の[[大阪府]][[枚方市]][[くずは|楠葉]])の[[淀川]]沿岸に設置された[[関所]]。 |
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== 概要 == |
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設置時期は不明であるが、『[[太平記]]』に[[建武の新政]]開始にあたって[[後醍醐天皇]]が関所を廃止した時に「大津・楠葉」を対象外としたと記しており、この時代には存在したと考えられている。続いて、[[暦応]]3年/[[興国]]元年([[1340年]])には、[[北朝 (日本)|北朝]][[光厳上皇]]の[[院宣]]によって同関が[[春日社]]造営料所に充てられ、実質的には同社を支配していた[[奈良]][[興福寺]]の支配下に置かれていた。また、[[内蔵寮]]もこれとは別に[[率分関]]を楠葉に有しており、[[山科家]]が事実上管理下に置いていた。[[文明 (日本)|文明]]年間には、興福寺[[大乗院]]が楠葉関より年間1,100貫の[[関銭]]収入を得ていたことが知られている。 |
設置時期は不明であるが、『[[太平記]]』に[[建武の新政]]開始にあたって[[後醍醐天皇]]が関所を廃止した時に「大津・楠葉」を対象外としたと記しており、この時代には存在したと考えられている。続いて、[[暦応]]3年/[[興国]]元年([[1340年]])には、[[北朝 (日本)|北朝]][[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]によって同関が[[春日社]]造営料所に充てられ、実質的には同社を支配していた[[奈良]][[興福寺]]の支配下に置かれていた。また、[[内蔵寮]]もこれとは別に[[率分関]]を楠葉に有しており、[[山科家]]が事実上管理下に置いていた。[[文明 (日本)|文明]]年間には、興福寺[[大乗院 (門跡寺院)|大乗院]]が楠葉関より年間1,100貫の[[関銭]]収入を得ていたことが知られている。 |
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== 参考文献 == |
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2019年12月4日 (水) 12:23時点における最新版
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楠葉関(くすはのせき/くずはのせき)は、中世に河内国交野郡楠葉(現在の大阪府枚方市楠葉)の淀川沿岸に設置された関所。
概要
[編集]参考文献
[編集]- 丹生谷哲一「楠葉関」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4)
- 小林保夫「楠葉関」(『日本歴史大事典 1』(小学館、2000年) ISBN 978-4-095-23001-6)