橋本策
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橋本 策(はしもと はかる、1881年5月5日 - 1934年1月9日)は、日本の医師、医学者
九州帝国大学にて。背景は建築後間もない医学部第一・ニ・三内科教室棟
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/Faculty_of_Medicine_Bldg._A_of_Basic_Science.jpg/200px-Faculty_of_Medicine_Bldg._A_of_Basic_Science.jpg)
(現:医学部基礎研究A棟)
生涯
三重県伊賀市出身。旧制第三高等学校をへて、京都帝大福岡医科大学、現九州大学医学部1907年第1回卒業生として卒業。第一外科に入局。1911年4月”甲状腺ノリンパ腫様変化ニ関スル組織的並ビニ臨床的知見ニ就キテ”を福岡医科大学第17回集談会にて発表、1年後の1912年にまとめてArch f Klin Chirに記載した。今日では橋本病という疾患名が与えられている。戦後この名前はアメリカから逆輸入された感じもする。橋本策を売り出したのは同門の後輩秋田八年鹿児島大学名誉教授である。博士と地元阿山医師会の尽力で橋本策の顕彰碑が国道25号線沿いの伊賀町公民館前に建てられている。1912年2月Goettingen大学へ入学、Kaufmann教授の下で、尿路結核症について研究した。1915年第1次大戦勃発のため帰国、35歳の時に郷里の地で父親を継いで開業した。1934年1月、惜しまれながらチフスで死去。享年52。[1]
なお、日本甲状腺学会のロゴには、橋本策の肖像が用いられている。
関連項目
顕彰事業
- 当人の功績を称えて、出身地である伊賀市御代地区では、毎年4月に伊賀医師会と顕彰事業を行っている。
その他
九州大学馬出キャンパスには橋本の業績を顕彰し彼の名を冠した「橋本通り」が存在する。
文献
- ^ 臨床家たちの奮戦記 病名に名を残した医師(2000) 板倉英世(編) メジカルセンス 東京