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=== 現役時代 ===

=== 現役時代 ===

同年の[[1965年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|第1回ドラフト]]で[[広島東洋カープ|広島カープ]]に4位で指名され、[[投手]]として入団<ref name="日めくり1224">{{Cite web |title=【12月24日】1982年(昭57) 勝負師・水谷実雄「なんでいつもオレが」のトレードで打点王に(野球) ― 日めくりプロ野球08年12月 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201198.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2008-12-24 |access-date=2023-05-02 |archive-date=2009-02-09 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090209010528/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201198.html}}</ref>。1年目の1966年はいきなり[[腎臓病]]を患い入院し、[[日南市|日南]]キャンプは不参加。以来、'''ジンちゃん'''の[[愛称]]で親しまれる。同年オフに[[石本秀一]]ヘッドコーチに勧められ野手転向<ref>{{Cite web |title=広島総合&広島市民球場:ボクの思い出STADIUM |url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016072102100020.html |website=中日スポーツ(CHUNICHI Web) |date=2016-07-12 |access-date=2023-05-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160801025853/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016072102100020.html |archive-date=2016-08-01}}</ref>し、当初は[[三塁手]]で起用されたが、守備に難があり[[外野手]]に再転向。しばらくは[[広島東洋カープ (ファーム)|二軍]]暮らしが続いて戦力外リストに入ったこともあったが、[[上田利治]]コーチや[[関根潤三]]コーチらの指導を受けて{{by|1970年}}に一軍定着。


[[1965 ()|1]][[|]]4[[]]<ref name="1224">{{Cite web |title=12241982(57)   0812 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201198.html |website= Sponichi Annex |date=2008-12-24 |access-date=2023-05-02 |archive-date=2009-02-09 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090209010528/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08december/KFullNormal20081201198.html}}</ref>11966[[]][[|]]''''''[[]][[]]<ref>{{Cite web |title=: |url=http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016072102100020.html |website=(CHUNICHI Web) |date=2016-07-12 |access-date=2023-05-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160801025853/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016072102100020.html |archive-date=2016-08-01}}</ref>[[]][[]][[ ()|]][[]][[]]{{by|1970}}{{by|1971}}[[]]51[[]].2833[[ ()|]]



[[]]{{by|1975}}2.285[[1015]][[|]][[|]]<ref>{{cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20071008203.html|title=1015197550 26|work=[[]]|date=2007.10.15|accessdate=2012.9.20}}</ref>[[|]][[1975|]]381{{by|1976}}.3087326{{by|1978}}33{{by|1977}}7[[]]1978.348[[ ()|]]{{by|1979}}{{by|1980}}1979[[|]][[1979|]]21980[[1980|]]361[[]][[]][[]][[#|]]54{{by|1982}}[[ ()|]][[|]][[]]<ref name="1224"/>

{{by|1971}}[[]]51[[]].2833[[ ()|]]


移籍初年度の{{by|1983年}}は新外国人の[[ブーマー・ウェルズ]]を差し置いて4番・[[指名打者]]を任され、自身初の130試合フル出場を果たす。打撃も好調で、初の30本越えとなる36本塁打、114打点を記録し、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]を獲得した。同年は、広島時代に指導を受けた上田利治監督の発言から、ブーマーに肖って'''[https://www.higashidesedai.com/1508/ ミズマー]'''とも呼ばれた。

その後、[[ジム・ヒックス]]の加入もあり一時出場機会を減らす。




{{by|1984}}[[|]][[]][[]][[]][[]]63[[]][[]].181<ref name="is">退 263-264</ref>{{by|1985}}5[[|]][[]]<ref name="is" />退2

{{by|1975年}}には規定打席不足ながらレギュラーではチーム2位となる打率.285を挙げて広島の初優勝に貢献し、優勝を決めた[[10月15日]]の[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦([[後楽園球場|後楽園]])ではウイニングボールを掴んだ<ref>{{cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20071008203.html|title=【10月15日】1975年(昭50) 広島、巨人の目の前で胴上げ!球団創設26年目の初優勝|work=[[スポーツニッポン]]|date=2007.10.15|accessdate=2012.9.20}}</ref>。同年の[[オリックス・バファローズ|阪急]]との[[1975年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、前半3試合に左翼手として先発するが、シリーズ通算8打数1安打に終わる。


{{by|1976年}}には打率.308(リーグ7位)と初の3割越えを果たし、26本塁打を放つ。同年から{{by|1978年}}にかけて広島球団としては初となる3年連続の打率3割を記録する。守備面では{{by|1977年}}7月から[[一塁手]]に専念、1978年は球団記録となる打率.348で[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルを獲得した。


{{by|1979年}}から{{by|1980年}}にかけての連続日本一にも貢献し、1979年の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]との[[1979年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2本塁打を放ち優秀選手賞を獲得。1980年の近鉄との[[1980年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では3本塁打、うち第6戦では1回に先制の満塁本塁打を放つ。[[山本浩二]]や[[衣笠祥雄]]らと共に赤ヘル黄金時代を担い、その後も[[ジム・ライトル]]、山本と[[クリーンナップ#野球におけるクリーンナップ|クリーンナップ]]を組んで5番打者として活躍するも、チームが4位に終わった{{by|1982年}}オフ、[[運営会社 (日本プロ野球)|球団フロント]]との確執から[[加藤秀司|加藤英司]]との大型[[トレード]]により阪急ブレーブスに移籍した<ref name="日めくり1224" />。


{{by|1983年}}は新外国人の[[ブーマー・ウェルズ]]を差し置いて4番・[[指名打者]]を任され、自身初の130試合フル出場を果たす。打撃も好調で、初の30本越えとなる36本塁打、114打点を記録し、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]を獲得した。同年は、広島時代に指導を受けた上田利治監督の発言から、ブーマーに肖って'''[https://www.higashidesedai.com/1508/ ミズマー]'''とも呼ばれた。



{{by|1984}}[[|]][[]][[]][[]][[]]63[[]][[]].181<ref name="is">退 263-264</ref>


{{by|1985}}5[[|]][[]]<ref name="is" />退2


=== 現役引退後 ===

=== 現役引退後 ===

引退後は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]「[[野球道 (フジテレビ系列)|ナイター中継/野球中継/プロ野球中継]]&[[プロ野球ニュース]]」解説者・[[サンケイスポーツ]]評論家({{by|1986年}})を経て、阪急[[オリックス・バファローズ (ファーム)|二軍]]打撃コーチ({{by|1987年}} - {{by|1988年}})、広島時代のチームメイト[[山本浩二]]監督の招聘で<ref>[[日刊スポーツ]] 1988年9月10日7版</ref>広島一軍打撃コーチ({{by|1989年}} - {{by|1991年}})→一軍チーフ打撃コーチ({{by|1992年}} - {{by|1993年}})、近鉄一軍打撃コーチ({{by|1994年}})→一軍ヘッド兼打撃コーチ({{by|1995年}})、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]一軍打撃コーチ({{by|1996年}} - {{by|1997年}})、[[中日ドラゴンズ|中日]]一軍打撃コーチ({{by|1998年}})→一軍打撃チーフコーチ({{by|1999年}} - {{by|2001年}})、[[阪神タイガース|阪神]][[阪神タイガース (ファーム)|二軍]]打撃コーチ({{by|2003年}} - {{by|2006年}})を務めた<ref name="日めくり1224"/>。近鉄コーチ時代は[[中村紀洋]]を育て<ref>{{Cite web |title=“はだし練習”で大成…江藤、前田、中村紀育てた名伯楽 中日・根尾は「左足の内転筋強くしろ 親指内側にマメを」 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/419223 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2023-05-02 |language=ja |date=2022-02-16}}</ref>、中村は「僕がプロ3年目から一緒にやっていた水谷コーチとの猛練習も、もう苦しいどころじゃなかった。キャンプからずっと、ほぼバッティング練習ばかり。守備練習をした覚えがないくらい、とにかくバットを振り続けました。でも、その練習があったからこそ、こうして今でもプロでプレーできているんじゃないかと思っています。そういった練習の積み重ねによって、体の使い方も分かりました。フルスイングの意識が芽生えたのもそのころからだったと思います。」<ref>『近鉄バファローズ球団史 1950-2004』[[ベースボール・マガジン社]]〈B.B.MOOK 833〉、2012年、32頁</ref>、「僕は近鉄時代に水谷実雄打撃コーチという恩師がいました。打撃の状態が悪い時もあります。その状況で当てにいかずに、持ち味のフルスイングを貫けたのは水谷さんの教えのおかげです。」<ref>{{Cite web |title=【中村紀洋の目】プロに入れば指名順位は関係ない 高卒入団で大成した選手の共通点とは |url=https://full-count.jp/2018/11/27/post256437/ |website=Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― |date=2018-11-27 |access-date=2023-05-02 |language=ja}}</ref>と述べ、1995年シーズン途中には[[鈴木啓示]]監督の辞任を受け、同年[[8月9日]]からシーズン終了まで[[監督代行]]を務めた。広島コーチ時代は[[江藤智 (野球)|江藤智]]・[[前田智徳]]を育て、1991年のリーグ優勝に貢献。[[長嶋清幸]]は「理論と合わなかった。若い時にお世話になった先輩だし、人間的にどうこうではなく、打撃理論が受け入れられなくて難しかった。そのうち「もう好きにしろ」みたいになって…。浩二さんが唯一信頼している人だし、現役時代は不調の時に水谷さんにアドバイスをもらっていたほど。それほど技術論はすごい。でも、すごく難しくて、自分の打撃がおかしくなり、取り返しがつかなくなった。」<ref>{{Cite web |title=【1ページ目】【長嶋清幸コラム】山本浩二さんに大きな借りを返せなかったのは自分自身の汚点 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/161724 |website=東スポWEB |date=2022-03-15 |access-date=2023-05-02 |language=ja}}</ref>と述べている。

引退後は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]「[[野球道 (フジテレビ系列)|ナイター中継/野球中継/プロ野球中継]]&[[プロ野球ニュース]]」解説者・[[サンケイスポーツ]]評論家({{by|1986年}})を経て、阪急[[オリックス・バファローズ (ファーム)|二軍]]打撃コーチ({{by|1987年}} - {{by|1988年}})、広島時代のチームメイト[[山本浩二]]監督の招聘で<ref>[[日刊スポーツ]] 1988年9月10日7版</ref>広島一軍打撃コーチ({{by|1989年}} - {{by|1991年}})→一軍チーフ打撃コーチ({{by|1992年}} - {{by|1993年}})、近鉄一軍打撃コーチ({{by|1994年}})→一軍ヘッド兼打撃コーチ({{by|1995年}})、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]一軍打撃コーチ({{by|1996年}} - {{by|1997年}})、[[中日ドラゴンズ|中日]]一軍打撃コーチ({{by|1998年}})→一軍打撃チーフコーチ({{by|1999年}} - {{by|2001年}})、[[阪神タイガース|阪神]][[阪神タイガース (ファーム)|二軍]]打撃コーチ({{by|2003年}} - {{by|2006年}})を務めた<ref name="日めくり1224"/>。近鉄コーチ時代は[[中村紀洋]]を育て<ref>{{Cite web |title=“はだし練習”で大成…江藤、前田、中村紀育てた名伯楽 中日・根尾は「左足の内転筋強くしろ 親指内側にマメを」 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/419223 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2023-05-02 |language=ja |date=2022-02-16}}</ref>、中村は「僕がプロ3年目から一緒にやっていた水谷コーチとの猛練習も、もう苦しいどころじゃなかった。キャンプからずっと、ほぼバッティング練習ばかり。守備練習をした覚えがないくらい、とにかくバットを振り続けました。でも、その練習があったからこそ、こうして今でもプロでプレーできているんじゃないかと思っています。そういった練習の積み重ねによって、体の使い方も分かりました。フルスイングの意識が芽生えたのもそのころからだったと思います。」<ref>『近鉄バファローズ球団史 1950-2004』[[ベースボール・マガジン社]]〈B.B.MOOK 833〉、2012年、32頁</ref>、「僕は近鉄時代に水谷実雄打撃コーチという恩師がいました。打撃の状態が悪い時もあります。その状況で当てにいかずに、持ち味のフルスイングを貫けたのは水谷さんの教えのおかげです。」<ref>{{Cite web |title=【中村紀洋の目】プロに入れば指名順位は関係ない 高卒入団で大成した選手の共通点とは |url=https://full-count.jp/2018/11/27/post256437/ |website=Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― |date=2018-11-27 |access-date=2023-05-02 |language=ja}}</ref>と述べ、1995年シーズン途中には[[鈴木啓示]]監督の辞任を受け、同年[[8月9日]]からシーズン終了まで[[監督代行]]を務めた。広島コーチ時代は[[江藤智 (野球)|江藤智]]・[[前田智徳]]を育て、1991年のリーグ優勝に貢献。[[長嶋清幸]]は「理論と合わなかった。若い時にお世話になった先輩だし、人間的にどうこうではなく、打撃理論が受け入れられなくて難しかった。そのうち「もう好きにしろ」みたいになって…。浩二さんが唯一信頼している人だし、現役時代は不調の時に水谷さんにアドバイスをもらっていたほど。それほど技術論はすごい。でも、すごく難しくて、自分の打撃がおかしくなり、取り返しがつかなくなった。」<ref>{{Cite web |title=【1ページ目】【長嶋清幸コラム】山本浩二さんに大きな借りを返せなかったのは自分自身の汚点 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/161724 |website=東スポWEB |date=2022-03-15 |access-date=2023-05-02 |language=ja}}</ref>と述べている。



阪神退団後は[[西宮市]][[甲東園]]で「鶏処 だれやみ」を経営し<ref>[https://web.archive.org/web/20080919230952/http://www.umk.co.jp/announcer/koorogi/ テレビ宮崎公式サイト内アナウンサー・興梠裕子のブログ2008年9月15日更新時トップページ](リンク先は、[[インターネットアーカイブ]]2008年9月19日付保存キャッシュ)より、2008年8月20日『取材日記☆甲子園編☆』を参照。</ref> <ref>『FLASH』2012年10月2日号掲載特集記事『球団史上初のCS進出へラストスパートだ 広島東洋カープ「こうして甦った!」』より、1991年のカープ優勝メンバーを紹介する記事の中で、発行時現在経営している店の名として記載。</ref> <ref>[http://kobe-kobecco.com/archives/30586 連載コラム 「第二のプレイボール」Vol.9 ー 2015年11月号|神戸っ子アーカイブ]</ref> <ref>{{Cite web |title=鶏処 だれやみ (甲東園/鳥料理) |url=https://tabelog.com/hyogo/A2803/A280301/28022701/ |website=食べログ |access-date=2023-05-02 |language=ja}}</ref>、その傍ら、{{by|2011年}}からは[[デイリースポーツ]]神戸本社専属評論家として活動。

阪神退団後は[[西宮市]][[甲東園]]で「鶏処 だれやみ」を経営し<ref>[https://web.archive.org/web/20080919230952/http://www.umk.co.jp/announcer/koorogi/ テレビ宮崎公式サイト内アナウンサー・興梠裕子のブログ2008年9月15日更新時トップページ](リンク先は、[[インターネットアーカイブ]]2008年9月19日付保存キャッシュ)より、2008年8月20日『取材日記☆甲子園編☆』を参照。</ref> <ref>『FLASH』2012年10月2日号掲載特集記事『球団史上初のCS進出へラストスパートだ 広島東洋カープ「こうして甦った!」』より、1991年のカープ優勝メンバーを紹介する記事の中で、発行時現在経営している店の名として記載。</ref> <ref>[http://kobe-kobecco.com/archives/30586 連載コラム 「第二のプレイボール」Vol.9 ー 2015年11月号|神戸っ子アーカイブ]</ref> <ref>{{Cite web |title=鶏処 だれやみ (甲東園/鳥料理) |url=https://tabelog.com/hyogo/A2803/A280301/28022701/ |website=食べログ |access-date=2023-05-02 |language=ja}}</ref>、その傍ら、{{by|2011年}}からは[[デイリースポーツ]]神戸本社専属評論家として活動。{{by|2013年}}には一軍チーフ打撃コーチとして7年ぶりに阪神へ復帰し<ref>{{Cite web |title=水谷実雄氏のコーチ就任について|球団ニュース|ニュース |url=https://hanshintigers.jp/news/topics/info_2572.html |website=阪神タイガース公式サイト |access-date=2023-05-02 |date=2012-10-12}}</ref>、同年[[10月14日]]に球団に辞任を申し入れて退団<ref>{{Cite web |title=水谷実雄コーチの退団について|球団ニュース|ニュース |url=https://hanshintigers.jp/news/topics/info_3015.html |website=阪神タイガース公式サイト |access-date=2023-05-02 |date=2013-10-15}}</ref>


{{by|2013年}}には一軍チーフ打撃コーチとして7年ぶりに阪神へ復帰し<ref>{{Cite web |title=水谷実雄氏のコーチ就任について|球団ニュース|ニュース |url=https://hanshintigers.jp/news/topics/info_2572.html |website=阪神タイガース公式サイト |access-date=2023-05-02 |date=2012-10-12}}</ref>、同年[[10月14日]]に球団に辞任を申し入れて退団<ref>{{Cite web |title=水谷実雄コーチの退団について|球団ニュース|ニュース |url=https://hanshintigers.jp/news/topics/info_3015.html |website=阪神タイガース公式サイト |access-date=2023-05-02 |date=2013-10-15}}</ref>。



== 選手としての特徴 ==

== 選手としての特徴 ==


2023年9月12日 (火) 12:12時点における版

水谷 実雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県串間市
生年月日 (1947-11-19) 1947年11月19日(76歳)
身長
体重
180 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手指名打者
プロ入り 1965年 ドラフト4位
初出場 1966年9月30日
最終出場 1985年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴

監督・コーチ歴


  19471119 - 


1196394-322121964412-0-131965


14[1]11966[2]1970197151.2833

19752.2851015[3]3811976.3087326197833197771978.34819791980197921980361541982[1]

19834130調3036114

198463.181[4]19855[4]退2

退


退西//&19861987 - 1988[5]1989 - 19911992 - 1993199419951996 - 199719981999 - 20012003 - 2006[1][6]3使[7][8]1995891991調[9]

退西 [10] [11] [12] [13]201120137[14]1014退[15]



詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1966 広島 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1967 3 5 4 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 .250 .400 .250 .650
1969 37 57 51 4 13 1 0 1 17 1 0 0 0 0 6 0 0 14 1 .255 .333 .333 .667
1970 106 248 234 16 57 6 0 7 84 25 5 5 5 2 4 0 3 35 4 .244 .263 .359 .622
1971 125 524 481 64 136 22 2 9 189 45 14 6 5 2 29 2 7 39 11 .283 .331 .393 .724
1972 109 372 344 38 90 13 0 12 139 49 7 1 4 2 21 3 1 44 8 .262 .304 .404 .708
1973 102 267 251 18 58 10 1 7 91 29 1 1 1 0 12 0 3 32 7 .231 .274 .363 .637
1974 77 224 205 21 51 10 1 6 81 16 0 3 0 1 16 2 2 31 10 .249 .308 .395 .703
1975 121 389 358 29 102 14 1 13 157 37 5 1 5 3 22 5 1 39 10 .285 .326 .439 .764
1976 118 406 360 55 111 18 2 26 211 73 3 6 3 2 40 8 1 42 14 .308 .377 .586 .863
1977 119 444 404 53 126 31 2 13 200 50 2 4 0 3 35 3 2 46 13 .312 .367 .495 .862
1978 119 441 402 60 140 23 0 25 238 75 2 3 0 3 33 2 3 48 8 .348 .399 .592 .991
1979 125 465 408 48 106 9 0 23 184 69 2 1 0 4 53 1 0 77 10 .260 .342 .451 .793
1980 116 408 352 35 95 5 1 22 168 61 0 0 0 1 54 3 1 72 11 .270 .368 .477 .845
1981 126 488 427 55 144 22 0 23 235 82 1 0 1 6 51 4 3 55 12 .337 .407 .550 .957
1982 119 444 403 40 122 25 0 18 201 63 0 1 0 2 38 3 1 57 12 .303 .363 .499 .861
1983 阪急 130 545 480 67 139 18 0 36 265 114 2 2 0 7 58 3 0 83 8 .290 .361 .552 .914
1984 63 185 160 14 29 3 0 3 41 20 0 1 0 4 19 0 2 42 6 .181 .270 .256 .527
1985 13 24 24 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 4 1 .083 .083 .083 .167
通算:19年 1729 5937 5349 617 1522 230 10 244 2504 809 44 35 24 42 492 39 30 761 146 .285 .346 .468 .814
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1978年6月25日、対読売ジャイアンツ13回戦(広島市民球場)、3回裏に堀内恒夫から中越ソロ ※史上96人目
  • 1000試合出場:1978年8月12日、対ヤクルトスワローズ18回戦(広島市民球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上203人目
  • 1000安打:1980年4月18日、対ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、7回表に安田猛から ※史上115人目
  • 150本塁打:1980年7月8日、対読売ジャイアンツ13回戦(広島市民球場)、5回裏に西本聖から左越ソロ ※史上56人目
  • 200本塁打:1982年8月15日、対中日ドラゴンズ21回戦(ナゴヤ球場)、1回表に都裕次郎から左越2ラン ※史上38人目
  • 1500試合出場:1982年9月2日、対中日ドラゴンズ24回戦(広島市民球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上72人目
  • 1500安打:1984年6月21日、対西武ライオンズ16回戦(平和台球場)、3回裏に石井毅から右前安打 ※史上49人目
その他の記録

背番号

  • 38 (1966年 - 1970年)
  • 4 (1971年 - 1985年)
  • 63 (1987年 - 1988年)
  • 84 (1989年 - 1993年)
  • 72 (1994年 - 1995年)
  • 87 (1996年 - 1997年)
  • 71 (1998年 - 2001年)
  • 73 (2003年 - 2006年)
  • 70 (2013年)

脚注



(一)^ abc12241982(57)   0812.  Sponichi Annex (20081224). 200929202352

(二)^ :. (CHUNICHI Web) (2016712). 201681202352

(三)^ 1015197550 26. (20071015). 2012920

(四)^ ab退 263-264

(五)^  19889107

(六)^   . (2022216). 202352

(七)^  1950-2004︿B.B.MOOK 833201232

(八)^  . Full-Count    (20181127). 202352

(九)^ 1. WEB (2022315). 202352

(十)^ 200891520089192008820

(11)^ FLASH2012102CS !1991

(12)^  Vol.9  201511

(13)^   (/). . 202352

(14)^ . (20121012). 202352

(15)^ 退. (20131015). 202352

参考資料

  • FLASH』 2012年10月2日号(通巻1207号。同年9月19日発売、光文社発行)
  • 近藤唯之 『引退 そのドラマ』新潮社(新潮文庫)、1986年
  • 坂本邦夫『プロ野球データ事典』PHP研究所、2001年

関連項目