「源義清 (矢田判官代)」の版間の差分
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| 特記事項 = |
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== 系譜 == |
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*室:新田義重娘 |
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*生母不明の子女 |
*生母不明の子女 |
2023年2月13日 (月) 14:41時点における版
源 義清 | |
---|---|
時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 寿永2年閏10月1日(1183年11月17日) |
別名 | 足利太郎、足利義清、矢田義清、矢田判官代 |
官位 | 判官代、民部丞 |
主君 | 上西門院、源義仲 |
氏族 | 河内源氏義国流足利氏 |
父母 | 父:源(足利)義康、猶父:新田義重 |
兄弟 | 義清、足利義長、足利義兼、足利義房 |
妻 | 新田義重娘 |
子 |
義範(山名義範?)、広沢義実、義房、 義縁、山名義範[1]室、里見義成室 |
生涯
足利氏の祖・源︵足利︶義康の庶長子として誕生[2]。本拠の下野国足利荘は嫡子である異母弟・義兼が継ぎ、庶長子である義清は伯父であり岳父の源︵新田︶義重の猶子となり、上野国八幡荘の矢田郷を獲得したという。
京において上西門院に仕え、治承4年︵1180年︶の以仁王の挙兵に際しては源頼政と行動を共にし、頼政の敗死後は源︵木曾︶義仲の麾下に走った。
寿永2年︵1183年︶、義仲軍の上洛の際に源行家や源︵多田︶行綱と共に京都を包囲し、丹波路から大江山に布陣して京の西方から平氏を追いつめ、7月に義仲と共に入京した。10月になり、都落ちで瀬戸内海の西海を支配していた平氏を追討するべく、義仲の代官︵総大将︶として海野幸広と共に一軍を率いて京を出発。閏10月1日、備中国浅口郡水島[3]において、大手︵正面︶の平知盛・重衡、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍と激突した。総大将の義清は船戦に慣れた平氏軍に大敗を喫し、海野幸広や同母弟・義長らと共に矢の雨を浴びせられて壮絶な戦死を遂げた︵水島の戦い︶。
庶流か否か
義清の戦死により、その子らは源頼朝の信任が篤い異母弟の義兼の家来同様の地位に下がって発展できなかったが、義兼が三河守護に補任されて以後、義清の子孫も三河に進出し、仁木氏・細川氏などが出て南北朝時代に大きく飛躍した。
ただ、義清を庶流と見るのは誤りと思われる。祖父源義国以来の根本所領である下野国簗田御厨を管理し所領としていたことや、討死後に異母弟義兼の配慮で母が所領を与えられて老後を過ごしており庶流の生母にしては厚く遇されていることなどから、元々は家督継承者であったのが木曾義仲に与して戦死したため、頼朝に近い間柄の義兼がその命で相続したものと思われる。
また、上野国八幡荘矢田郷[4]の所領は新田義重との猶子関係・婚姻関係によって獲得したもので元々足利氏の所領ではなかったと言われており、矢田判官代の通称は誤りで、根本所領の簗田御厨に基づき﹁簗田判官代﹂とするのが正しいと思われる。
さらに、足利氏の根本所領とされる足利荘︵簗田御厨に隣接︶も源義家─源為義─源義朝─源頼朝と河内源氏惣領の所領として伝わったもので、その重代の家人で藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏が下司職として知行していたものだったが、これが治承・寿永の乱︵源平の戦い︶で没落した後に源姓足利氏︵義兼︶が初めて地頭職を獲得したといい[5]、源義康─源義清の時期の本領はまだ簗田御厨であったが、義清が木曾義仲に与して戦死したために子孫に伝わらず、頼朝近親の義兼が新たに足利荘を獲得すると共に簗田御厨も[6]継承したとする研究もある。
ただし、義清の室の兄弟であり娘婿でもある山名義範[1]の名字の地とされる上野国多胡郡︵八幡荘︶山名郷の隣に矢田郷が存在すること、足利荘や簗田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘・簗田御厨を離れて矢田郷に拠点を移し、その地域的繋がりから新田・山名氏との縁戚関係や東信濃の滋野氏及び彼らが擁する木曾義仲との軍事的連携が成立したとする説もある[7]。
系譜
脚注
(一)^ ab足利義範、﹃尊卑分脈﹄足利氏の項では、義清の長男と記述されている。
(二)^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 33頁。
(三)^ 現在の岡山県倉敷市玉島付近。
(四)^ 矢田荘、矢田御厨などとも呼称。
(五)^ 久保田順一﹃中世武士選書18 新田義重 北関東の治承・寿永内乱﹄戎光祥出版 2013年11月1日 ISBN 978-4-86403-094-6
(六)^ さらには新田義重から伝領した矢田郷も。
(七)^ 菱沼一憲﹁木曽義仲の挙兵と市原・横田河原の合戦﹂︵初出:﹃群馬歴史民俗﹄25号︵2004年︶/改題:﹁木曽義仲の挙兵と東信濃・西上野地域社会﹂菱沼﹃中世地域社会と将軍権力﹄︵汲古書院、2011年︶ ISBN 978-4-7629-4210-5 Ⅰ部第二章1節︶