源義清 (矢田判官代)
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源義清 | |
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時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 寿永2年閏10月1日(1183年11月17日) |
別名 | 足利義清、矢田義清、矢田判官代 |
官位 | 判官代、民部丞 |
氏族 | 河内源氏義国流(足利氏) |
父母 | 足利義康 |
兄弟 | 義清、義長、義兼、義房 |
妻 | 新田義重の娘 |
子 |
足利義範、足利義実、足利義縁、 山名義範[1]室 |
生涯
同母弟は義長︵義良︶、異母弟に義兼・義房。長男であったが妾腹のために、新田義重の猶子となり上野国八幡荘の矢田郷を獲得、本拠の足利庄を嫡出である異母弟の義兼に譲って、自らは京において上西門院に仕える。治承4年︵1180年︶の以仁王の挙兵に際しては源頼政と行動をともにし、頼政が敗死した後は源義仲の麾下に走る。寿永2年︵1183年︶の平家都落ちの際、源行家や多田行綱と共に京都を包囲し、丹波路から大江山に布陣して都の西方から平家を追いつめ、7月に義仲軍と共に入京した。
同年10月、西海にあった平氏を追討するべく、義仲の代官︵総大将︶として海野幸広とともに一軍を率いて京を出発。同年閏10月1日、備中国水島︵現在の岡山県倉敷市玉島付近︶において、本隊の平知盛・重衡と、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍と激突した。
総大将の義清は船戦に慣れた平氏軍を前に大敗を喫し、海野幸広や同母弟の義長らとともに矢の雨に浴びせられて、壮絶な戦死を遂げた︵水島の戦い︶。
ただし、義清を庶流と見るのは誤りと思われ、義清自身が足利氏の根本所領の一つの梁田御厨を管理し所領としていたこと、義清の討死後、義清母が弟義兼の配慮で所領を与えられて老後を過ごしたことが判明しているなど庶流の人間としては生母の扱いも丁重で厚く遇されているなどから、元々は相続人であり、その家督の義清が戦死したので源頼朝に近い間柄の義兼が頼朝の命を受けて足利家督を相続したものと思われる。なお、義清には遺児が何人もおり、その子孫に細川、仁木などが出るが、父の死で庶流に下がり、足利一族だが足利氏が三河守護に補任されて以降子孫が三河に出るまでは家来同様の扱いで発展しなかった。また、矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称となる八幡荘矢田郷の所領は新田義重との猶子関係によって獲得し、当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、足利氏の根本所領の梁田判官代とされるのが正しいと思われる。更には、足利荘は源義家-源為義-源義朝-源頼朝と河内源氏惣領に伝えられ、その重代の家人であった足利荘下司職の藤姓足利氏が没落した治承・寿永の乱後に、源頼朝の近親者である足利義兼によって源姓足利氏が初めて獲得したとされる[2]、つまりは、源義康-義清という後に足利氏となる家系の本領は梁田御厨であったが義清が義仲に与したためにこれを失い、足利荘を獲得した義兼の系統へ新田義重の有していた惣領権とともに伝えられた、という研究もある。
ただし、義清の妻の兄弟であり、娘婿でもある山名義範[1]の名字の地とされる上野国多胡郡︵八幡荘︶山名郷の隣に八幡荘矢田郷が存在していること、足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡︵八幡荘︶矢田郷に拠点を移し、その地域的つながりから新田氏や山名氏との婚姻関係や東信濃の滋野氏及び彼らが擁する源義仲との軍事的連携が成立したとする説もある[3]。
脚注
- ^ a b 『尊卑分脈』足利氏の項では、義清の長男と記述されている。
- ^ 久保田順一『中世武士選書18 新田義重 北関東の治承・寿永内乱』戎光祥出版 2013年11月1日 ISBN 978-4-86403-094-6
- ^ 菱沼一憲「木曽義仲の挙兵と市原・横田河原の合戦」(初出:『群馬歴史民俗』25号(2004年)/改題:「木曽義仲の挙兵と東信濃・西上野地域社会」菱沼『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年) ISBN 978-4-7629-4210-5 Ⅰ部第二章1節)