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「聖務会院」の版間の差分

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[[1700]][[1917]]"{{lang|ru|Синодальный период}}"<ref>[http://www.pravenc.ru/rubrics/121790.html {{lang|ru|Синодальный период 1700 - 1917 гг.}}] {{lang|ru|Церковно-научный центр «Православная Энциклопедия» }}{{ru icon}}</ref>1721<ref>[http://www.ioannp.ru/parishioners/overviewofthehistory/russianorthodoxchurch/synodalperiod {{lang|ru|Синодальный период}}] {{lang|ru|Храм Рождества Иоанна Предтечи на Пресне}}{{ru icon}}</ref>

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==訳語==

== 訳語 ==

日本語では'''宗務院'''とも訳されたり、単に「'''シノド'''」と片仮名で転写されて呼ばれたりする例も散見される。

日本語では'''宗務院'''とも訳されたり、単に「'''シノド'''」と片仮名で転写されて呼ばれたりする例も散見される。



し「[[シノド]]」「[[聖シノド]]」は[[普通名詞]]であって、本項で扱う聖務会院のみを意味する用語ではに注意が必要である。「シノド」が何を意味しているかは、文脈に左右される。

ただし「[[シノド]]」「[[聖シノド]]」は[[普通名詞]]であって、本項で扱う聖務会院のみを意味する用語ではことに注意が必要である。「シノド」が何を意味しているかは、文脈に左右される。



==概要==

== 概要 ==

聖務会院は[[ピョートル1世]]によって[[1721年]][[1月25日]]、[[ロシア正教会の歴史#18世紀前半:ピョートル大帝による教会統制策|ピョートル大帝による教会改革]]の一環として設置された。その設置に伴い、総主教庁は廃止された。聖務会院は教会側の人間と、教会に関係のない皇帝任命された人間によって構成された。この中にはサンクトペテルブルク[[府主教]]、[[モスクワ府主教]]、キエフ府主教、グルジアの[[エクザルフ]]が居た。当初は12人の教会側のメンバーがいたが、この数は歴代皇帝達によってしばしば変更された。

聖務会院は[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]によって[[1721年]][[1月25日]]、[[ロシア正教会の歴史#18世紀前半:ピョートル大帝による教会統制策|ピョートル大帝による教会改革]]の一環として設置された。その設置に伴い、総主教庁は廃止された。聖務会院は教会側の人間と、教会に関係のない皇帝から任命された人間によって構成された。この中にはサンクトペテルブルク[[府主教]]、[[モスクワ府主教]]、キエフ府主教、グルジアの[[エクザルフ]]が居た。当初は12人の教会側のメンバーがいたが、この数は歴代皇帝達によってしばしば変更された。



[[ツァーリ]]の絶対権力の下に置かれ世俗の人間も含んだ聖務会院によって教会を統括するシステムは、ピョートル1世の西欧視察によって[[英国国教会]]と[[ドイツ]]の[[プロテスタント]]教会に範が求められたものであり、正教会に前例の無い存在であった<ref name="taka143145">{{Harv|高橋|1980|pp=143-145}}</ref>。このためロシア正教会も含めた現代の[[正教会]]からは、ピョートル1世およびその教会改革と、その結果生み出された聖務会院に対する評価は著しく低い<ref name="cle31">{{Harv|クレマン|1977|p=31}}</ref>。

[[ツァーリ]]の絶対権力の下に置かれ世俗の人間も含んだ聖務会院によって教会を統括するシステムは、ピョートル1世の西欧視察によって[[英国国教会]]と[[ドイツ]]の[[プロテスタント]]教会に範が求められたものであり、正教会に前例の無い存在であった<ref name="taka143145">{{Harv|高橋|1980|pp=143-145}}</ref>。このためロシア正教会も含めた現代の[[正教会]]からは、ピョートル1世およびその教会改革と、その結果生み出された聖務会院に対する評価は著しく低い<ref name="cle31">{{Harv|クレマン|1977|p=31}}</ref>。



聖職者・信徒の別を問わず改革への志向がロシア正教会で高まっていた[[20世紀]]初頭において、聖務会院総裁である[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]](俗人の官僚)は[[モスクワ総主教]]座の復活をはじめとした教会の改革に否定的姿勢をて臨み、このがロシア正教会の改革が遅れる元凶ともなった<ref>[[高橋保行]]『迫害下のロシア教会』(39頁から60頁)[[教文館]]、[[1996年]] ISBN 4764263254</ref>。

聖職者・信徒の別を問わず改革への志向がロシア正教会で高まっていた[[20世紀]]初頭において、聖務会院総裁である[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ]](俗人の官僚)は[[モスクワ総主教]]座の復活をはじめとした教会の改革に否定的姿勢をもって臨み、このことがロシア正教会の改革が遅れる原因ともなった<ref>[[高橋保行]]『迫害下のロシア教会』(39頁から60頁)[[教文館]]、[[1996年]] ISBN 4764263254</ref>。



== 脚注 ==

== 脚注 ==

<div class="references-small"><references/></div>

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==出典・参考文献==

== 出典・参考文献 ==

*初版は英語版ウィキペディア記事からの翻訳による。英語版記事にはパブリックドメインる1913年版の"Catholic Encyclopedia"の引用文が含まれている。

* 初版は英語版ウィキペディア記事からの翻訳による。英語版記事にはパブリックドメインである1913年版の"Catholic Encyclopedia"の引用文が含まれている。

* [[オリヴィエ・クレマン]]著、冷牟田修二・白石治朗訳、『東方正教会』(クセジュ文庫)白水社、1977年。ISBN 978-4-560-05607-3

* [[オリヴィエ・クレマン]]著、冷牟田修二・白石治朗訳、『東方正教会』(クセジュ文庫)白水社、1977年。ISBN 978-4-560-05607-3

* [[高橋保行]]『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)1980年。ISBN 4061585002

* [[高橋保行]]『ギリシャ正教』(講談社学術文庫)1980年。ISBN 4061585002



==関連項目==

== 関連項目 ==

*[[正教会の教会機構一覧]]

* [[正教会の教会機構一覧]]

*[[ビザンティン・ハーモニー]]

* [[ビザンティン・ハーモニー]]



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[[Category:ロシア正教会]]

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[[Category:ロシア帝国の行政]]

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[[Category:キリストの歴史]]

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[[Category:シノド]]

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[[Category:ピョートル1世]]

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2024年5月12日 (日) 05:04時点における最新版

サンクトペテルブルクにある旧聖務会院本部

: Святейший Правительствующий Синод, : Most Holy Governing Synod17211918

17001917"Синодальный период"[1]1721[2]

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1172112512

1西[3]1[4]

20姿[5]

脚注[編集]

  1. ^ Синодальный период 1700 - 1917 гг.Церковно-научный центр «Православная Энциклопедия» (ロシア語)
  2. ^ Синодальный периодХрам Рождества Иоанна Предтечи на Пресне(ロシア語)
  3. ^ (高橋 1980, pp. 143–145)
  4. ^ (クレマン 1977, p. 31)
  5. ^ 高橋保行『迫害下のロシア教会』(39頁から60頁)教文館1996年 ISBN 4764263254

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1913"Catholic Encyclopedia"

1977ISBN 978-4-560-05607-3

1980ISBN 4061585002

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