出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
1行目: |
1行目: |
|
{{Otheruses|「シノド」とも呼ばれる[[ロマノフ朝]]時代の[[ロシア正教会]]を統括した機関|その他の「シノド」「シノドス」の用法|シノド}} |
|
{{Otheruseslist|「シノド」とも呼ばれる[[ロマノフ朝]]時代の[[ロシア正教会]]を統括した機関|教会会議とも訳されるシノド(synod)の一般的説明|教会会議|[[正教会]]の[[主教]]によって構成される教会組織の普通名詞としての「聖シノド」(Holy Synod)|聖シノド|その他の「シノド」「シノドス」の用法|シノド}} |
|
[[Image:Senatesynod.jpg|thumb|right|280px|[[サンクトペテルブルク]]にある旧聖務会院本部]] |
|
[[Image:Senatesynod.jpg|thumb|right|280px|[[サンクトペテルブルク]]にある旧聖務会院本部]] |
|
'''聖務会院'''(せいむかいいん、ロシア語:{{lang|ru|Святейший Правительствующий Синод}}、英語:Most Holy Governing Synod)とは、[[1721年]]に[[モスクワ総主教庁]]が廃止されてから、[[1918年]]にモスクワ総主教庁が復活するまでの間、[[ロシア正教会]]を統括する最高機関であった組織。聖務会院の管轄範囲は教会の全ての問題に及び、世俗の領域の一部にまで及んだ。 |
|
'''聖務会院'''(せいむかいいん、ロシア語:{{lang|ru|Святейший Правительствующий Синод}}、英語:Most Holy Governing Synod)とは、[[1721年]]に[[モスクワ総主教庁]]が廃止されてから、[[1918年]]にモスクワ総主教庁が復活するまでの間、[[ロシア正教会]]を統括する最高機関であった組織。聖務会院の管轄範囲は教会の全ての問題に及び、世俗の領域の一部にまで及んだ。 |
2008年8月18日 (月) 02:38時点における版
|
この項目では、「シノド」とも呼ばれるロマノフ朝時代のロシア正教会を統括した機関について説明しています。
- 教会会議とも訳されるシノド(synod)の一般的説明については「教会会議」をご覧ください。
- 正教会の主教によって構成される教会組織の普通名詞としての「聖シノド」(Holy Synod)については「聖シノド」をご覧ください。
- その他の「シノド」「シノドス」の用法については「シノド」をご覧ください。
|
聖務会院︵せいむかいいん、ロシア語‥Святейший Правительствующий Синод、英語‥Most Holy Governing Synod︶とは、1721年にモスクワ総主教庁が廃止されてから、1918年にモスクワ総主教庁が復活するまでの間、ロシア正教会を統括する最高機関であった組織。聖務会院の管轄範囲は教会の全ての問題に及び、世俗の領域の一部にまで及んだ。
訳語
日本語では宗務院とも訳されたり、単に﹁シノド﹂と片仮名で転写されて呼ばれたりする例も散見される。但し﹁シノド﹂﹁聖シノド﹂は普通名詞であって、本項で扱う聖務会院のみを意味する用語では無い事に注意が必要。﹁シノド﹂が何を意味しているかは、文脈に左右される。
概要
聖務会院はピョートル1世によって1721年1月25日、ピョートル大帝による教会改革の一環として設置された。その設置に伴い、総主教庁は廃止された。聖務会院は教会側の人間と、教会に関係のない皇帝に任命された人間によって構成された。この中にはサンクトペテルブルク府主教、モスクワ府主教、キエフ府主教、グルジア総主教代理が居た。当初は12人の教会側のメンバーがいたが、この数は歴代皇帝達によってしばしば変更された。
ツァーリの絶対権力の下に置かれ世俗の人間も含んだ聖務会院によって教会を統括するシステムは、ピョートル1世の西欧視察によって英国国教会とドイツのプロテスタント教会に範が求められたものであり、正教会に前例の無い、教会法に違反する存在であった。このためロシア正教会も含めた現代の正教会からは、ピョートル1世およびその教会改革と、その結果生み出された聖務会院に対する評価は著しく低い。
関連項目
●聖シノド
出典・参考文献
●初版は英語版ウィキペディア記事からの翻訳による。英語版記事にはパブリックドメインたる1913年版の"Catholic Encyclopedia"の引用文が含まれている。
●高橋保行﹃ギリシャ正教﹄︵講談社学術文庫︶、1980年。ISBN 4061585002