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鈴木鵬于︵すずき ほうう、1910年︵明治43年︶1月9日-1944年︵昭和19年︶3月22日︶は日本の俳人。本名は鈴木邦︵ほう︶。
経歴
愛知県渥美郡泉村︵現・田原市︶に生まれる。幼い頃より頑健ではなく病弱だった為、遠方通学の無理がたたり体調を崩し
成章中学︵現成章高校︶を中退。中退後は静養のかたわら文学書を読み耽っていた。そんな折、前隣りの旅籠旅館盛義海水亭の主人
川合茂助︵俳号華光︶から
俳句を勧められ俳句誌﹁石楠﹂に投稿するようになる。
櫓の渦の消ゆれば消ゆる夜光虫
雛の夜をいづらへ去るや船の笛
花棕櫚に大和の国の鐘をきく
などの句で石楠同信に名を知られるようになった。
石楠俳人の主と好人物の女将の経営する盛義海水亭は 石楠同信の来訪には絶好のところとなり臼田亞浪をはじめ
まさに各士再々であった。
鵬于はそれら遠来の友と俳句 文学等様々なことを語り合うことを最大の喜び 楽しみにしていた。
昭和13年︵1938年︶に結婚し一男一女をもうけるが昭和19年︵1944年︶心臓弁膜症により死去。享年35。
昭和21年︵1946年︶市川丁子﹇1﹈﹂、大田鴻村﹇2﹈の尽力により遺句集 蔓荊が発刊された。
作品集
蔓荊 : 鵬于遺句集 鈴木鵬于著 新化堂本店︵1946年︶
麦上 : 安藤甦浪遺稿 句集 安藤甦浪 著 ; 鈴木鵬于 編 三河︵1936年︶
脚注
注釈
1.俳誌﹁三河﹂初代主宰
2.昭和・平成期の俳人 ﹁林苑﹂主宰。
参考文献
さるみの会編 ﹁東海の俳諧史﹂ 名古屋泰文堂 1969年