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光太郎の評論﹁緑色の太陽﹂に共鳴していたが、同年[[12月]]、柳八重の紹介で光太郎と出会い、[[1913年]]、一緒に[[上高地]]に行って絵を描いた時に結婚の意思を固め、[[1914年]]に結婚︵この時点では未入籍︶。結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を続けていたが、[[1918年]]の父・今朝吉の死、[[1929年]]の長沼家の破産・一家離散など心労が多く、結婚以前から病弱︵湿性肋膜炎︶であったこともあり、[[1931年]]8月に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中、[[統合失調症]]の最初の兆候が現れる。[[1932年]][[7月15日]]、大量の睡眠薬を飲み自殺を図るが未遂に終わる。[[1933年]][[8月23日]]入籍。[[1935年]]に東京・[[品川区|品川]]のゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を生み出した。1938年10月5日、粟粒性[[結核#肺結核|肺結核]]のため死去。東京都豊島区駒込の[[染井霊園]]に埋葬される。
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== 智恵子記念館 == |
== 智恵子記念館 == |
2015年2月17日 (火) 04:47時点における版
高村 智恵子︵たかむら ちえこ、1886年5月20日 - 1938年10月5日、旧姓‥長沼︶は、日本の洋画家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が、彼女の死後に出版した詩集﹃智恵子抄﹄で有名である。
智恵子と光太郎
光太郎の評論﹁緑色の太陽﹂に共鳴していたが、同年12月、柳八重の紹介で光太郎と出会い、1913年、一緒に上高地に行って絵を描いた時に結婚の意思を固め、1914年に結婚︵この時点では未入籍︶。結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を続けていたが、1918年の父・今朝吉の死、1929年の長沼家の破産・一家離散など心労が多く、結婚以前から病弱︵湿性肋膜炎︶であったこともあり、1931年8月に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中、統合失調症の最初の兆候が現れる。1932年7月15日、大量の睡眠薬を飲み自殺を図るが未遂に終わる。1933年8月23日入籍。1935年に東京・品川のゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を生み出した。1938年10月5日、粟粒性肺結核のため死去。東京都豊島区駒込の染井霊園に埋葬される。
経歴
1886年5月20日、福島県安達郡油井村字漆原︵現・二本松市︶の酒造業・斎藤今朝吉︵後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる︶とせんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は﹁チヱ﹂。長沼家は清酒﹁花霞﹂を醸造する酒造家で、資産家であった。 1903年、福島高等女学校︵現・福島県立橘高等学校︶を卒業。日本女子大学校に入学。油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、当時では珍しい女性洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学んだ。1911年には、同年9月に創刊された雑誌﹃青鞜﹄の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。智恵子記念館
智恵子の生家 造り酒屋であった高村智恵子の生家の様子が再現されており、裏庭には智恵子記念館がある。記念館には彼女の油絵、紙絵が展示されている。関連項目
- 高村記念館
- 安達太良山
- 神戸文化ホール - 紙絵作品「あじさい」を原画にした巨大なタイル壁画がある。
- いつも心に太陽を (テレビドラマ) - 劇中に取り上げられている。