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ダヤン・ハーン

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ダヤン・ハーン
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ᠬᠠᠭᠠᠨ
モンゴル帝国第34代皇帝(ハーン
在位 1479年 - 1516年または1480年 - 1517年

全名 バトゥ・モンケ
出生 1473年または1474年
死去 1516年または1517年
配偶者 マンドゥフイ・ハトゥンクセイ・ハトンスミル・ハトン
子女 トロ・ボラトバルス・ボラトアルス・ボラトオチル・ボラトアルチュ・ボラトアル・ボラト
家名 ボルジギン氏
父親 バヤン・モンケ(ボルフ・ジノン)
母親 シキル・ハトン
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: Даян хаан
 : Dayan Khan1473 - 15161474 - 15173420Batu MöngkeБатмөнх

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15

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1475西3

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イスマイル討伐(1483年)[編集]


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191483(Alaq)[11]



2[12]

オイラト遠征(1486年〜1496年)[編集]

テス・ブルト(テス川)

201484()()221486/[13]

21Tes Burutu[14]

1426[15]711

148691496[1]

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トゥメトとの戦い(1508年)[編集]

モンゴル年代記が共通してオルドスのマンドライ・アカラクとヨンシエブのイブラヒム・タイシを叛乱の主体とするのに対し、トゥメトのホサイ・タブナンがこの叛乱にどの程度関与していたかは史料によって記述が異なる。しかし、明朝の漢文史料ではマンドライやイブラヒムより寧ろホサイの方が叛乱の主体であるかのように書かれていること、モンゴル年代記でも「ホサイ」の動向は不明でも「トゥメト部」の叛乱参加が明記されていることなどから、ホサイ・タブナンが最初から最後まで叛乱に荷担していたことは確実視されている。

ウルス・ボラト殺害事件が起こり、右翼3トゥメンの討伐を決めたダヤン・ハーンが最初に戦ったのはモンゴルジン=トゥメト部のホサイ・タブナンであった。明朝の史料には正徳3年(1508年)にトゥメト部の捕虜になっていた漢人兀弩骨が「モンゴル人が内部抗争を起こしている(虜相讐殺)」隙を突いて明朝に来降したことが記されており、これがダヤン・ハーンとホサイ・タブナンの衝突を伝えたものとされている。しかし、ダヤン・ハーンはこのトゥメトとの緒戦で敗北を喫し、続いてガハイ・エレスンの敗戦を味わうこととなった。

『蒙古源流』では、ウルス・ボラトの死を知ったダヤン・ハーンは右翼3トゥメンを討伐するために出陣したが、オンゴン山渓谷のトゥルゲン河河畔で牛を追い立てる音を敵襲と勘違いし、退却してしまったと伝えている。『蒙古源流』はこれに続けて、退却するダヤン・ハーン軍(左翼3トゥメン軍)を右翼3トゥメン軍が追撃し、ガハイ・エレスンの地で逃げ遅れたケシクテン・オトクとケムジュート・オトクを破ったと記す。この一連の戦闘が明朝が記す所の「モンゴル人の内部抗争(虜相讐殺)」に相当するものと見られている。

ダラン・テリグンの戦い(1509年)[編集]


退35

23西()[16]

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西3

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6()666176ǰirγurγan tümen Mongγol ulus[18]

63ǰegün γurban tümen3baraγun γurban tümen[19]

1666Qutuγtu qurim-un tügel[20]

チャハル[編集]

切るべき刀の刃となり/堅固な兜の側面となった/チャハル・トゥメンよ

ハーンに直属する部族で、マンドゥールン・ハーンが率いていた勢力の後身。

ダヤン・ハーンの長子トロ・ボラトが受け継ぎ、ダヤン・ハーン以後のハーンは基本的にチャハルのトロ・ボラト王家から輩出された。

ハルハ[編集]

ハンガイ山に住んで/戻り来る者の哨兵となり/熱き命の支えとなった/ハルハ・トゥメンよ

ハルハ河を根拠地とする部族で、元代の「左手の五投下」の後裔。

比較的早い段階から左翼と右翼に分裂しており、左翼=内ハルハ5部はアル・ボラトが、右翼=外ハルハ12部はゲレセンジェが受け継いだ。

ウリヤンハン[編集]

野生驢馬を食べて/短い髪のタルバガンで衣服を作り/泥棒と強盗の頭となり/幸いの水を出す者/ウリヤンハン・トゥメンよ

ケンテイ山一帯を根拠地とする部族で、「主(チンギス・カン)の黄金の柩を守る」ウリヤンハン千人隊の後裔。

ダヤン・ハーンの死後、叛乱を起こして解体されてしまった。

オルドス[編集]

強力な禿鷹の翼となり/回る二輪車を守り/親指に熟練なる者(=弓上手)/勇猛に生まれたエジェンの/山のようなチャガン・ゲルを守った/オルドス・トゥメンよ

ボルフ・ジノンが率いていた勢力の後身で、オルドス地方に居住しその語源となった。

ダヤン・ハーンの第三子バルス・ボラト(サイン・アラク・ジノン)が受け継ぎ、更にその長子メルゲン・ジノンの家系が継承した。

トゥメト[編集]

縄に繋がれた馬のための杭となり/繋ぎ降る者の獲物となり/忍び寄ってくる者の餌食となり/アルタイの十二の切り通しを守り/山のオボー、平原の碑となった/十二トゥメトよ

現在のフフホト一帯を根拠地とする部族で、ドーラン・タイジ及びトゥルゲンが率いていた部族の後身。

ダヤン・ハーンの第三子バルス・ボラト(サイン・アラク・ジノン)が受け継ぎ、更にその次男アルタン・ハーンの家系が継承した。

ヨンシエブ[編集]

学ある聖者の呼び寄せとなり/昔日に自分の力を尽くし/酸乳(クミス)の薄皮/タラク(ヨーグルト)の酵母となった/大ヨンシエブよ

西


[]


2[21]

1473/14741479/148071516/151744[22]
史料/学説 生年 即位年 没年
アルタン・トプチ 蛇年/1473年/成化9年/癸巳 猪年/1479年/成化15年/己亥(7歳) 鼠年/1516年/正徳11年/丙子(44歳)
アルタン・ハーン伝 牛年/1474年/成化10年/甲午 鼠年/1480年/成化16年/庚子(7歳) 牛年/1517年/正徳12年(44歳)
シラ・トージ[23] 猿年1464年(1476年)甲申(丙申)/成化10年(1474年) 鼠年1470年(1482年)庚寅7歳(壬寅7歳)/成化16年(1480年)(7歳) 兎年1543年癸卯(68歳or80歳)/正徳12年(1517年)(44歳)
和田清説 1464年 1481年/1482年(18歳/19歳) 1532年/1533年(69歳/70歳)
萩原淳平説 1464年 1488年(25歳) 1519年(56歳)
佐藤長説 1468年 1487年(20歳) 1519年(52歳)
岡田英弘説 1464年 1487年(24歳) 1524年(61歳)
烏蘭説 1474年 1480年(7歳) 1517年(44歳)
薄音湖/ブヤンデルゲル説 1473年 1479年(7歳) 1516年(44歳)

妻子女[編集]


1134[24]



/Törö bolad/Törü bayiqu/8

/Ulus bolad/Ulus bayiqu/



/Barsu bolad/Sayin alaγ/12

/Arsu bolad/Mergen qongtayiǰi/7

/Wčir bolad/Üde balad/8

/Alču bolad/El buγura/5()

/Ar bolad/Al buγura/

: 

/Geretü tayiǰi/Čaγ Möngke/

/Ubasanǰa/čing tayiǰi/8

: 

/Gere bolad/Gegen Möngke8

/Geresenǰe/J̌alayir qongtayiǰi/7

3336

3/

[25][26]

脚注[編集]



(一)^ ab1959,p.425

(二)^ ()(1),(2),(3),(4),(5),(6),(7),(8),(9)

(三)^ betegitei boluγsan2004,p.220

(四)^ (2008).

(五)^ ()(Buyandelger2001,pp.1-5)

(六)^ ((2002), p. 17)

(七)^ ()

(八)^ dayun qaγan(dai-ön)dayun調dayundayan(1998,pp.228)

(九)^ dayan ulusdayan bügüdedayan ulusdayan調bügüde((2008), p. 68-71)

(十)^ (2008), p. 68-69.

(11)^ 191483西()1959,pp.442-444

(12)^ 2004,pp.226-227

(13)^ /使/1959,pp.445-448

(14)^ 

(15)^ 733718 813488

(16)^ 2004,p.pp.234-235///1998,p.119

(17)^ 2004,pp.236-237

(18)^ 6ǰirγurγan tümen ulus6ǰirγurγan tümen Mongγol6ǰirγurγan tümen yeke ulus1972,p.43

(19)^ 662010,pp.299-307

(20)^ 62007,pp.298-300

(21)^ (2010,p136-145)

(22)^ (1985)(1991)(1998,pp.247-248)

(23)^ 12

(24)^ 1988,p.2

(25)^ 2004,pp.225-226,239,248//3//((1976))

(26)^ 1998,pp.232-233

[]


==2002ISBN 4759913181 NCID BA56346353:20256669https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003069505-00 

2004ISBN 4887082436

2010

.48(4)1965

(pp.99-2141980

-811972

581/21976127-162ISSN 03869067NAID 120006516176 

Barsu bolad121988

2007

142008365-81doi:10.15017/9498hdl:2324/9498ISSN 1341-1659NAID 110006866072 

1998

()1959

Buyandelger1562000

Buyandelger()62001

[]


1718 : 6112002138-170doi:10.14989/155417hdl:2433/155417ISSN 0386-9059NAID 40005461872 

17()352003