満洲中央銀行
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満洲中央銀行︵まんしゅうちゅうおうぎんこう︶は、かつて存在した満洲国の中央銀行である。同国の通貨であった満洲中央銀行券︵単位は円︶を発券していた。
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滿洲中央銀行1円札
関東軍が松崎寿大阪商科大学教授などの参画を得、首藤正寿南満州鉄道理事が設立立案を担当し[1][2]、1932年6月15日に日本からの出資による3千万円の資本を基に新京に設立され、同年7月1日に正式開業した。開業と同時に、往時張作霖管理下にあった東三省官銀号・吉林永衡官銀銭号・辺業銀行・黒竜江官銀号の4行を合併した。これにより満洲中央銀行の資本金は8千万円以上に膨れ上がった。
満洲中央銀行の主要な機能は、国家資金の保管・管理、及び金融市場のコントロール、さらには満洲国内の金融システムを統一することであり、これら機能によって満洲国の通貨価値の安定を図っていた。しかし同時に満洲中央銀行は、農業・工業・商業企業への融資業務といった一般の銀行業務も行っていた。さらに、この地域からの朝鮮銀行の撤退を受けて、日本の代理人的な立場でもあった。
新京の本店の他に、140の支店が満洲・中国・日本に展開していた。
銀行設立を認可した1932年の通貨法に従い、満洲国は通貨単位として﹁(満洲)圓﹂を採用した。圓は、中国の通貨の伝統に基づいて、23.91グラムの純銀を含んでいた。中華民国の通貨と同じく銀本位制でスタートした。発行した紙幣に対しては、その額面の最低30%相当の準備金[3]を保有している必要があった。
しかし、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行して、満洲中央銀行の紙幣自体は不換紙幣となり、交換義務を負わなくなった。つまり紙幣は信用貨幣であり、満洲国の信用が紙幣の信用となっていた。
1945年8月、ソビエト連邦の侵攻、日本のポツダム宣言受諾により満洲国が瓦解。満洲中央銀行も機能を失った。
同年9月30日、GHQは日本政府に対し﹁植民地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖﹂に関する覚書を交付。この覚書に基づき、満洲銀行の即時閉鎖︵閉鎖機関︶が決定された[4]。
現在、長春の人民広場前に残る旧満洲中央銀行本店︵設計‥西村好時、施工‥大林組 竣工‥1938年︶は中国人民銀行長春中心支行として使われている。
概要[編集]
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役員[編集]
歴代総裁[編集]
●栄厚︵1932年 - 1936年︶ ●田中鉄三郎︵1936年 - 1940年︶ ●闞潮洗︵1940年 - 1943年︶ ●西山勉︵1943年 - 1945年︶歴代副総裁[編集]
●山成喬六︵1932年 - 1936年︶ ●蔡運升︵1936年 - 1938年︶ ●闞潮洗︵1938年 - 1940年︶ ●大沢菊太郎︵1940年 - 1943年︶ ●徐紹卿︵1943年 - 1945年︶満洲中央銀行券の発券総額推移[編集]
●1932年‥1億5千万円︵初回発行︶ ●1936年‥2億円以上 ●1937年‥3億円以上 ●1938年‥4億円以上 ●1939年‥6億2千万円 この時期に発行された満洲中央銀行券については、約50%の引当金によって保証されていた。脚注[編集]
- ^ 満洲中央銀行沿革史 (通報号外 ; 第44号)
- ^ 満洲通貨金融方策 立案調査書類第25編第1卷第1號 (立案調査書類 ; 第25編 第1巻 第1号)
- ^ 準備金とは金銀を、地金もしくは信頼できる外貨もしくは預金として保有しているか、海外の他行口座に預金しておくものである。
- ^ 満鉄、朝鮮銀行など即時閉鎖指令(昭和20年10月1日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p356 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
関連項目[編集]