嵯峨の屋おむろ
嵯峨の屋 おむろ︵さがのや おむろ、文久2年1月12日︵1862年3月1日︶[1] - 昭和22年︵1947年︶10月26日[1]︶は、日本の小説家、翻訳家、評論家、詩人。
嵯峨の屋 お室、矢崎 嵯峨の舎︵屋︶︵やざき さがのや︶、北邙散子︵ほくぼうさんし︶、探美︵たんび︶などの筆名もある。
本名・矢崎 鎮四郎︵しんしろう︶[1]
曾孫は、俳優・モデルの岡本竜汰。
人物[編集]
日本橋箱崎にあった下総関宿藩邸生まれ[1]。父親が上野彰義隊︵卍隊︶に加わったため、貧苦の生活を送る[1]。 1876年、東京外国語学校︵現東京外国語大学︶露語科の給費生となる[1]。二葉亭四迷とは同級生だった[1]。 卒業後統計院に勤めるが官制に伴って失職[1]、二葉亭四迷の紹介で坪内逍遥の門下生となる[1]。 1887年、﹁浮世人情守銭奴之肚﹂︵うきよにんじょうしまりみせのはら︶を刊行し、坪内逍遙から﹁嵯峨屋のお室﹂の筆名を与えられる[1]。筆名は﹁嵯峨や御室の花ざかり﹂という一節︵常磐津の﹁将門﹂︵忍夜恋曲者︶による[要出典]。 ﹁初恋﹂﹁くされ玉子﹂﹁野末の菊﹂︵いずれも1889年発表[1]︶などの浪漫的作品や﹁夢現境﹂︵1891年発表︶など厭世的無常観を突き詰めた小説のほか、ロシア文学の翻訳を発表し紹介した。小説論に﹁小説家の責任﹂︵1889年︶がある。詩人としては﹃抒情詩﹄︵1897︶に﹁いつ真て草﹂ほか9編を発表。一時は尾崎紅葉と並び称された[要出典]。 1906年、陸軍士官学校ロシア語教官を務める[1][注釈 1]。1910年以降は創作活動が止まる[1]。1947年、千葉の牛久で没した[1]。墓所は雑司ヶ谷霊園[1]。 明治期において懐疑を主観的に表白した最初の小説家であった[要出典]。作中で複数の出来事が起きるにもかかわらず、それを描写する文章量が極端に少なく、要約法・省略法が特徴である[3]。著書[編集]
﹁嵯峨の屋おむろ﹂名義[編集]
●﹃守銭奴の肚﹄︵大倉孫兵衛︶ 1887年 ●﹃豪傑美談﹄︵坪内逍遥共著、東雲堂︶ 1892年﹁矢崎嵯峨の屋﹂名義[編集]
●﹃ひとよぎり﹄︵金港堂︶ 1887年 ●﹃無味気﹄︵駸々堂︶ 1888年 ●﹃美人の面影﹄︵岡本書房︶ 1889年 ●﹃両面苦楽の鏡﹄︵偉業館︶ 1889年 ●﹃新編ちくさ﹄︵金港堂︶ 1891年 ﹁初恋﹂︵短編小説。1889年、文芸誌﹁都の花﹂に発表。﹁新編ちくさ﹂に収録。ツルゲーネフによる同名の短編小説の影響が強い。︶ ﹁くされ玉子﹂︵短編小説。1889年、文芸誌﹁都の花﹂に発表。﹁新編ちくさ﹂に収録。︶ ●﹃文の庫﹄︵春陽堂︶ 1896年 ●﹃古反古﹄︵民友社︶ 1897年 ●﹃通例人の一生﹄︵春陽堂︶ 1897年脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ その頃の同僚に内田百閒がいる。百閒は後年の随筆で、矢崎の語学力は確かであり陸軍士官学校でも推服されていた、と述べている[2]。出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmno中村正己﹁河川が育てた文化 近代文学者嵯峨の屋お室の生涯と作品について﹂﹃千葉県立関宿城博物館研究報告﹄第9巻、千葉県立関宿城博物館、2004年、30-37頁。 (二)^ ﹃麗らかや﹄旺文社文庫、1983年、P.100頁。 (三)^ 澤村真瑠美﹁嵯峨の屋おむろ研究﹂﹃富大比較文学 第二期﹄第6巻、2023年3月、1-21頁、doi:10.15099/00022294。参考文献[編集]
- 『嵯峨の屋おむろ研究』(杉崎俊夫、双文社出版) 1985年
- 『二葉亭四迷・嵯峨の屋おむろ』(筑摩書房、明治文學全集17) 1971年