幣原喜重郎(読み)シデハラキジュウロウ

デジタル大辞泉 「幣原喜重郎」の意味・読み・例文・類語

しではら‐きじゅうろう〔‐キヂユウラウ〕【幣原喜重郎】

 
18721951調  

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精選版 日本国語大辞典 「幣原喜重郎」の意味・読み・例文・類語

しではら‐きじゅうろう【幣原喜重郎】

 

(一)
 

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改訂新版 世界大百科事典 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎 (しではらきじゅうろう)
生没年:1872-1951(明治5-昭和26)


1調︿221870-1953

 1895調調Henry W.Denison1846-19141915-1919使24調綿2729調3112

 19451046︿44退49︿

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう
(1872―1951)


5811189528190336()()()婿()191541919使19211924()()()調()19305()193149退()194520101946419471949226310

 

1951195519582006PHP

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

 
[]5 (1872).8.11. 
[]1951.3.10. 
1895 1896使使 19151919使192122192427121調19261929312調 19451019464 194731946511947 194919511955  

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百科事典マイペディア 「幣原喜重郎」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎【しではらきじゅうろう】

 
19151924121945101
 

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朝日日本歴史人物事典 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎

没年:昭和26.3.10(1951)
生年:明治5.8.11(1872.9.13)
大正昭和期の外交官,政治家。堺県茨田郡真門村(大阪府門真市)に幣原新治郎の次男として生まれる。長兄坦は台北帝国大学総長,枢密顧問官。明治28(1895)年帝大法科大学卒業。翌29年外務省入省。以後累進し,大正4(1915)年第2次大隈内閣で外務次官となる。そこでシベリア出兵,パリ講和会議等第1次大戦時の諸問題に従事した。8年駐米大使,10年末のワシントン会議では全権委員として海軍軍縮および中国・太平洋における現状維持をめぐって列強との協調を図った。13年6月から昭和2(1927)年4月までの第1次外相期(護憲3派内閣から若槻内閣まで)および,4年7月から6年12月までの第2次外相期(浜口内閣から第2次若槻内閣まで)に,中国市場の確保を前提に英米から協調を調達するいわゆる「幣原外交」を展開,ロンドン海軍軍縮条約,日中関税協定などを締結した。しかし,対中国直接交渉が不調ななか,関東軍によって満州事変が起こされ若槻内閣の総辞職とともに退陣した。敗戦後は政治家として昭和20(1945)年10月に首相。また,同24年には衆院議長に就任。<著作>『外交五十年』<参考文献>幣原平和財団編『幣原喜重郎』

(小池聖一)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

1872.8.11~1951.3.10

大正・昭和期の外交官・政治家。大阪府出身。東大卒。1919年(大正8)駐米大使に任じられ,ワシントン会議の全権もつとめた。ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約締結にあたり,ワシントン体制下の国際協調に努力。2回にわたる民政党内閣期に外相となり,対中政策では経済進出に重点をおいた,いわゆる幣原外交を展開したが,戦時色が強まるとともに第一線から退いた。占領開始後に再登場して組閣,民主化政策とくに新憲法草案の作成をめぐってGHQとの交渉にあたった。新憲法(日本国憲法)第9条の戦争放棄規定は幣原の思想に一起源があるという説もある。49~51年衆議院議長。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎 しではら-きじゅうろう

1872-1951 大正-昭和時代の外交官,政治家。
明治5年8月11日生まれ。岩崎弥太郎の娘婿。幣原坦(たいら)の弟。駐米大使をへて,ワシントン会議全権委員となる。大正末から昭和初期にかけて第1・第2次加藤高明,第1次若槻,浜口,第2次若槻内閣の外相となり,対英米協調を旨とする幣原外交を展開。昭和20年首相となり,憲法改正にあたった。24年衆議院議長。昭和26年3月10日死去。78歳。大阪出身。帝国大学卒。著作に「外交五十年」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「幣原喜重郎」の解説

幣原喜重郎
しではらきじゅうろう

1872〜1951
大正・昭和期の外交官・政治家
大阪の生まれ。岩崎弥太郎の女婿。東大卒。外務次官・駐米大使を経てワシントン会議の全権委員となる。1924年以来,加藤高明・第1・2次若槻礼次郎・浜口雄幸各内閣の外相として協調外交を推進,'30年ロンドン海軍軍縮条約を締結した。第二次世界大戦後,'45年10月内閣を組織し日本国憲法の制定にあたる。翌'46年5月吉田茂内閣の国務相。のち衆議院議長となり,在任中に死去。

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世界大百科事典(旧版)内の幣原喜重郎の言及

【進歩党】より

…公職追放で議員の95%弱である260名を失い,46年4月の総選挙では当選94名で社会党とほぼ同数であり第二党の地位しか得られず,保守主流の役を自由党に譲る結果となった。党首には初め宇垣一成を擁立する動きがあったが,45年12月18日町田忠治を総裁に決定,町田が追放されて以降は斎藤,犬養健らで運営,46年4月に入ってようやく首相を辞任した幣原喜重郎を総裁として迎え入れた。幣原内閣の与党であった進歩党は国民の批判を浴びて苦境に立っていたが,第1次吉田茂内閣の成立で救われ,再び与党として閣僚を送った。…

【天皇人間宣言】より


1868(1)GHQ19778︿調

※「幣原喜重郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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