五味氏の宝物
佐 野 良 二
1
残った仕事を片づけたため、私は他の職員より遅れて退館した。私の勤める図書館は町の北の丘に建ち、森に囲まれている。クルマに乗って坂を下りて行くと、途中から森がきれて眼の前に町並みが開ける。いつもほっとする場所だった。そのとき、国道へ出るカーブのところに自転車が倒れているのを発見した。
それは前輪を草むらに突っこんで、いかにも倒れているという具合だったし、自転車の脇にはキャンバスなんかも放り出してある。私はブレーキを踏んだ。窓を開けると、助けてくれ、と声が聞こえたように思った。
周囲を見まわした。初夏のさわやかな風が吹きわたり、道端の雑草がかすかに揺れるばかりで、人影はまったくない。道路の向こう側は、白いジャガイモの花が列をなして広がっている。助けてくれ、という声は、あるいは私の内部の声かもしれなかった。
――長い間つき合っていた恋人が、私の優柔不断な態度に愛想をつかし、この町を去って行ってしまった。人間というものは複雑な動物で、好きになることと性格が合うこととは別のようである。彼女のふくよかな肉体をいとしくは思うものの、いまひとつ気持ちにぴったり合致しないものを感じて、結婚には踏みきれないでいた。すると、いい加減なようにみえた彼女が意外にも私の本心を察し、お互いときめかなくなったみたい、もっといい人みつけてね、と言って私の前から姿を消したのだ。向こうからそういう態度に出られると何だか振られたような気がし、どうせ別れるならこっちから引導をわたすべきだった、と口惜しい思いに陥った。
男というものは平均すると十分間に一度は異性のことを考えるというが、このごろの私は平均以上の頻度で、彼女のはすっぱな物言いやからだの感触を思い出しては切なくなり、苦しいほどに孤独を感じていた。すでに三十代半ばで神通力も落ちた私に、向後よいめぐり会いがあるとも思われず、魂の救済を求めている自分に気づいていたのだ。
﹁おーい、助けてくれ﹂
声は現実だった。別れた女のことを思い出している場合ではなかった。ほとんど悲鳴の調子を帯びている。それが道端の向こう側から聞こえてくる。私はサイドブレーキを引いてクルマを降りた。
草むらで見えなかった路肩は勾(こう)配(ばい)のきつい斜面になっていて、その下に側溝があった。声はその辺りから聞こえる。数歩あるいて見つけた。溝の中に、まるで��気をつけ�≠フような姿勢であおむけに寝ている人がいる。陽が西に傾いているので溝の底は日陰になり、顔がよく見えなかった。
﹁た、頼む、ここから出してくれ﹂
男は側溝の底からくぐもったような声で哀願した。
﹁どうして、そんなところに寝てるんです﹂
﹁す、好きこのんで寝ているんじゃない。自転車が引っくり返って、気がついたらこの状態なんだ。何とかしてくれ﹂
私は側溝を跨いでしゃがみこみ、男の服の肩口をつかんで引っ張り上げようとした。しかし溝は下へいくほど狭くなる構造なので、体が土の壁にしっかり食いこみ、身動きできない道理なのだった。
﹁私は図書館の司書です。本より重いものを持ったことがないんで、残念ながらあなたを引き上げることができない﹂
﹁そ、そんな殺生なことをいわんで、何とか頼む﹂
﹁待ってください、放っておきはしませんよ﹂
私は立ち上がって遠くを見た。ジャガイモ畑のかなたに農家があった。それから三百メートルほど離れたその農家へおもむき、麦わら帽子のおじさんに助けを求めた。おじさんは現場につくとロープを男の肩口から背中を通し、股ぐらから出して縛った。それを私と力を合わせてやっとこさ引っ張り上げた。
男は全身泥まみれで人相も風体もわからない。いつかホラー映画で見たことのあるような容貌だった。泥男はなおも私たちに眼鏡を捜させた。眼鏡は、路肩に生えたフキの茎に引っかかっていた。眼鏡をかけた泥男は、ほっと一息ついて、麦わら帽子のおじさんと私に礼を言った。
男が自転車を起こしているとき、私は放り出してあるキャンバスを拾い上げた。キャンバスは二枚重ねになっていて、絵は内側である。クリップを外して見た。一枚は予備で、もう一枚に絵が描いてあった。女の裸の絵だった。濃い緑の森を背景にしているので、白い肉体がいっそう際立って見えた。ヘアまで丹念に描かれていて、私はあわててクリップを止め、元通りにした。
﹁だめだ、こりゃあ﹂
男がぼやくのも無理ないことに、自転車は車輪がぐんにゃり曲がっていて乗ることができなかった。クルマに乗せて行くしかないようである。しかし、そのまま乗せたのでは、いくら面倒くさがり屋で掃除をしない私のクルマといえども、座席が泥だらけになるので困る。私はトランクから先日花見に使ったゴザを出して、後ろの座席に敷いた。
﹁それじゃあ、お送りしましょう。あなたのお名前は?﹂
﹁ゴミ﹂と男は短く答えた。
﹁はあ、ゴミ?﹂と私は一瞬とまどった。
﹁そう、五味耕太っちゅうもんじゃ﹂
男は、名前の漢字を一つ一つ説明しながら言った。
﹁なるほど。で、図書館の森でヌードを描いていたんですか﹂
﹁きょうは裸婦じゃない、バックの森を描きこみにきたんじゃ﹂
五味と名乗った男は不機嫌そうな声を出した。話題はそれでとぎれ、あとは彼が指示するとおり道路を走った。
五味宅は、かなり老朽した木造の二階建てだった。玄関の戸を開けた男は、いま帰った、と平然とした口調でいう。人の好さそうな丸顔の老女が出てきた。和服を着ていて、年恰好からすると夫人らしい。主人の泥まみれの姿に気づくと、あらまあーっ、と頓狂な声をあげ、鳥が飛び立つような恰好をした。
﹁本多さん、それ、千載一遇ってやつだよ﹂
マスターはカウンターに水割りを出しながら言った。虹山という名前だが誰も本名を呼ぶ者はいない。スナック︿虹﹀のマスター、略して��ニジマス�≠ナ通っている。
﹁……なんで﹂
﹁あの人、シュンポンのコレクターだよ﹂
﹁え、シュンポンって?﹂
私は耳慣れない言葉にまごついた。
﹁図書館司書がそんなことを知らないでどうするの﹂
ニジマスはカウンターの上に、水でぬらした指で文字を書いた。
﹁春本﹂
﹁ああ、男と女のあれかい﹂
﹁そう、あれ。あれを二階の床が落ちるほど蒐集してるって﹂
﹁誰か見た人はいるの﹂
﹁五味氏は人間嫌いのところがあってね、容易に他人を家に上げないそうです﹂
﹁じゃあ、見た人がいないのになぜわかる﹂
﹁床が落ちたとき、補修工事に行った大工の話さ﹂
﹁なるほど﹂
﹁あの人の顔、前歯が︿ハ﹀の字のように開いていたでしょ﹂
﹁泥だらけだったから、そんなことまで気づかなかった﹂
﹁人相学的にいうとね、ああいう歯の空いた人は浪費癖があるんだ。明治の澱粉景気で財をなした父の遺産を全部、その蔵書に注ぎこんでしまったそうだから﹂
﹁へえ﹂
﹁本多さん、その手づるを離さないで、上手に取り入って家へ上げてもらうことです。もちろん、そのときはぼくも連れてってください﹂
﹁だって、そんなものを……﹂
﹁悪書を知らずして良書を語るなかれ。図書館司書なら本と名のつくものは何でも見ておくべきじゃないの。とにかく、そのときはぼくのことをお忘れなく﹂
ニジマスに念を押されてから、しばらくたってS高校で只野先生に会った。只野先生は、私が高校生のころ、読書の面白さを教えてくれた国語教師で、この先生との出会いがあって司書の道を選び一生の仕事にすることにした。いわば恩師である。先生は当時から読書三昧の生活をしている。愛書趣味は生半可ではなく、教頭に昇格の話があったさいもそれを蹴ってディレッタントに徹してきた。だから、いまも平の国語教師で図書担当、私とときどき顔を合わせるのである。職員室でお茶をいただきながら、何気なく五味氏の一件を口にすると、先生は急に声をひそめた。
﹁あの︿ワ印﹀の蒐集家かね﹂
﹁ワジルシ、って﹂
﹁図書館司書がそんな言葉を知らないでどうする。猥本のことだよ﹂
﹁猥本? ああ春本のことですか﹂
﹁そうさ、そういう珍本奇書の類をごまんと所蔵していると聞くが﹂
﹁先生は教職にありながら、そんなことにくわしいんですか﹂
﹁い、いや、そうでもないが、好事家の奥義はそこに極まるというからな﹂
﹁そんなもんですかねえ﹂
そこで先生は改まったように姿勢を正して言った。
﹁本多君、これはまさに望まずして福来るだよ。ぜひとも五味氏との出会いを大切にして、同時に私との出会いも大切にしてだな、その宝物殿に入るときはぜひ私も……﹂
ニジマスといい、只野先生といい、五味コレクションと聞くと眼の色を変えた。あの泥だらけの男が蒐集したものにそんな価値があるのだろうか。このところ空洞のようになっている私の胸の中に、少し好奇心が湧いた。
五味耕太氏がアパートを訪ねてくれたとき、私は横になってテレビを見ていた。あわててそこら辺のものを片づけにかかったが、独身男の部屋というものは、そんな簡単にきれいになるわけがなく、積年の埃(ほこり)が舞い上がるだけである。
﹁先日はありがとう。君はまったく命の恩人です﹂
五味氏は埃のなかに正座して言った。きょうは泥が着いていないから素顔が見えた。年齢は六十代半ばというところか。頭蓋骨の形をすっかり感じさせる禿げあがった頭は磨いたように光り、眼鏡はめまいがしそうなほど度がきつく、厚い唇から突き出ている前歯は、ニジマスが言ったように︿ハ﹀の字の形に開いていて、私は浪費の相というものを目の当たりにした。
﹁あの側溝は、下の地帯に水田があってときどき水を通す。もし水が流れてきたら、わしは溺死するところでした。ほんとに助かった﹂
深々と頭を下げ、手にしていた菓子らしい包みを差し出した。私は一度辞退し、それから礼を言っていただいた。次に五味氏は部屋をぐるりと見まわした。
﹁君は本が好きらしいね﹂
部屋の隅にスチールの書棚が一つあって、私の蔵書はそれだけだった。
﹁これぽっちの本では自慢できるものが何もありません﹂
﹁いやいや、本は数ではない。一生に一冊、いい本との出会いがあればそれでいい﹂
﹁それにはたくさんの本にアタックしなければなりません。五味さんは膨大な蔵書をもっておられると聞きましたが﹂
﹁うむ、わしも本が大好きじゃ﹂
﹁好事家垂(すい)涎(ぜん)の書ばかりとか﹂
﹁それほどでもないがね﹂
﹁みんな、一度見たいものだと言ってますよ﹂
﹁下劣な奴らには見せんことにしている。先日も国会議員を通じてどこかの駐日大使が、ぜひ見たいと申し入れてきたが断ってやった﹂
私の下心を察したのか、五味氏は早くも防護柵をめぐらしたように感じられた。私はなんとかその柵の中に入ろうとした。しかし私の自慢できるような初版本、署名本、特装本は数冊しかなく、あとはろくでもない雑本ばかりだったから、どうにも話の接ぎ穂がない。そのとき私の眼は、壁に画鋲でとめてあった書店の請求書をとらえた。
﹁いい本との出会いはあまりないですが、こんな請求書と出会いました﹂
私はその紙片を五味氏に見せた。氏は怪(けげ)訝(ん)そうな顔をして見入ったかと思うと、たちまち笑い出し、
﹁こりゃあ傑作だ、崋山先生も大笑いだろう﹂と叫んだ。
私が市内の某書店に注文した本は、渡辺崋山の﹃一掃百態﹄だった。︿一掃﹀とは、この場合、ひとはき、さらりと描く、という意味だろう。江戸の庶民の生態を洒脱な筆致で描いた、漫画や俳画の原点ともいえるものだ。ところが請求書には、店員が何を勘違いしたのか︿掃﹀の字を女偏にしてしまっていた。
一婦百態――これではとんでもない悪書を買ったようではないか。五味氏はひとしきり笑ったあと、籤(くじ)でも引き当てたかのようにその請求書を掲げて、
﹁どうだろう、これをわしに譲ってもらえまいか﹂と言った。
﹁え、こんなものを﹂
﹁珍品コレクションに加えたい、ぜひわしに……﹂
そんな一店員のミスに、なぜこんなに執着するのかわからなかった。すごい意味でもあるのかと黙っていると、なおも、
﹁なんとか頼む、これは近年にない逸品じゃ﹂と執拗である。
私は、好事家というものの感覚が少し見えた気がした。ははん、要するにシャレが好きなんだな。五味氏に取り入るのに、こんなものですむならお安い御用だった。
﹁いいですよ。そんなに気に入られたのなら、差し上げましょう﹂
﹁ありがたい、わしの宝物が増えた﹂五味氏は嬉々として言った。
﹁ところでお願いがあります﹂間髪を入れず私は言った。﹁一度、五味コレクションを見せていただきたいのですが﹂
五味氏は黙っていたので、私は食い下がった。
﹁図書館司書として、いろいろ勉強したいんです。アンダーグラウンドの世界も見ておかなければ、本のすべてを知ったことにはなりませんから﹂
﹁うむ、そのうちにそういう機会もありましょう﹂
今夜でも来いと言われるかと期待したが、軽くいなされてしまった。
その後、五味氏は図書館に足しげくやってきては私に話しかけるようになった。私はいつ五味宅来訪の許しが出るかと心待ちしているのに、なかなかそれを言ってくれない。何度もせがむのは足元を見られる気がして、我慢して黙っていた。ある日、図書館に只野先生が訪れ、五味氏と顔を合わせた。二人に面識はなく、せっかくの機会だったので、私が両者を引き合わせた。
五味氏は、再び側溝へ落ちた話をして、私を命の恩人だと言った。
﹁いまどきこんな親切な若者はいません。みんな他人の災難を横目に素通りしてしまう。やはり先生の教えがよかったのでしょうなあ﹂
私はすでに若者ではなかったし、また只野先生に教えられたのは、興に乗って一方的にしゃべりまくる国語の教科であって、私には面白かったけれども、大部分のクラスメートは他人の身になっていない、と不評だったのだ。しかし、それは言わずにいた。すると先生は巧みに話題を持ちこんだ。
﹁お怪我がなくて何よりでしたね。実は私もあの辺りで事故に遭いまして﹂
﹁ほう、先生も側溝に落ちたんですか﹂
﹁いや、落ちたのはバイクのほうで、私は道端で肩を打って脱臼しました。ひどい痛みで、ただ唸るばかり……﹂
﹁あの辺は人通りが少ないですからねえ。それでどうしました﹂
﹁ちょうどハイヤーが通りかかりまして、整骨院へ連れて行ってもらいました﹂
﹁すぐ治りましたか﹂
﹁はい、腕の骨が肩に入ってしまえば痛みが嘘のようになくなりましてね。ところで、外れた骨が入るときには大きな音がするもんですなあ﹂
﹁どんな音がするんです﹂
﹁コトン、という感じです。ちょうど庭の添(そう)水(ず)が石を打つような音﹂
﹁はあ、……コトンとね﹂
﹁で、私は短歌をやっとるんですが、さっそく一首詠みました﹂
﹁それは風流、ぜひうかがいたい﹂
先生は私にメモ用紙を要求し、胸ポケットから万年筆を取り出してさらさらと書いた。
呻(うめ)き伏す吾に足掛け接骨師 脱臼の肩コトンと入れぬ*
﹁��足掛け�≠ニいうのはどういう意味ですか﹂
﹁接骨師は外れた肩の反対側、つまり脇の下に足をかけて、いわばそこを支点に引っ張って骨を入れるんですよ﹂
﹁なるほど。それにしても短歌で滑稽味を表現するとはユニークですなあ﹂
﹁詠嘆だけが短歌ではありません。滑稽味のみならず、官能的なものもありますよ、私の歌じゃないですが。五味さんは湯浅真沙子の歌集﹃秘帳﹄をご存知ですか﹂
﹁はて、それは知らない。どんなものですか﹂
﹁たとえば、こんなのがあります﹂
只野先生はまたメモ用紙にさらさらとしたためた。
握り締めわが陰(ほ)部(と)の辺にあてがいて入るればすべてを忘れぬるかな
﹁ううむ﹂と五味氏は唸った。
﹁こんなのもあります﹂
只野先生はもう書くのが面倒になったものか、それから数首、声に出した。感情をこめて詠ずる言い方である。いずれも遠慮のないあからさまな短歌だった。五味氏は再び感心し何度も唸ったが、私は当惑した。
﹁先生、ここは公共の図書館。夏休みで子供たちも増えているのに困ります﹂
﹁すまんすまん、つい乗ってしまった﹂
五味氏は私の声が耳に入らなかったのか、身を乗り出し先生の手を握った。
﹁ぜひ、その本を見せていただけまいか。何なら今晩おうかがいしたいが﹂
﹁きていただくのは恐縮です。私が参上しましょう﹂
﹁……そ、そうかね。いや拙宅へきていただけるなら、その方面の本もいろいろありますから、話題に事欠かない﹂
この言葉は、五味宅への招待と同じことだった。
﹁いや、願ってもないこと。何が何でもおうかがいしましょう﹂
先生はさすがに年の功、見事に取り入った。
﹁拙宅をご存知ですか、ポプラ公園のところを左に曲がって……﹂
﹁大丈夫です。ぼくが案内してあげます﹂
私は声を張り上げていた。このチャンスを逃してなるものか、必死の便乗である。
﹁うん、そうしてくれますか……﹂
ついに五味氏の言質をとってしまった。
その夜、私たちは興奮気味で五味宅を訪問した。廊下も階段も歩くたびにミシミシ音がして揺れるのは、建物が古びていることもあるが、二人の浮き立つ気持ちが歩き方に現れたのかもしれなかった。私たちは十畳ほどの和室に通された。ここが五味氏の書斎らしく、壁のほとんどが書棚になっていて、天井から床まで隙間なく蔵書で埋まっている。畳の上にも雑多に本が積み重ねられ、散らかされ、ちょっと見には泥棒が入って掻きまわした後のようだった。いったいどれほどの冊数があるのか見当もつかない。
廊下を夫人がやってきて、書斎には入らず襖(ふすま)のところで挨拶した。先日と同じく和服を召し、人の好さそうな微笑みを浮かべていた。持参したビールなどを載せたお盆をどこへ置くか少し迷ったあと、積み上げた本の比較的安定した場所を選んで載せると、うつむいたまま引き下がった。
﹁この部屋には、あいつも入れんことにしている﹂
五味氏はお盆を引き寄せ、私たちの間にあるテーブルの上にコップ、肴(さかな)の小鉢を配った。部屋の中でこのテーブルだけが唯一の空間だった。
﹁それじゃ、同好の士の出会いを祝って乾杯﹂
ビールを一飲みすると、只野先生は持参した本を取り出した。
﹁これが、昼にお話した歌集です﹂
﹁うむ﹂
五味氏は厚い眼鏡の奥の眼を光らせた。ページを開いて見入るや、うむうむ、を繰り返し頭を上げない。私たちは時間がもったいなく、早く秘蔵の本を見せてもらいたくてしょうがない。
﹁五味さん、よろしければその本は差し上げましょう。ここへ保管していただくのがふさわしい気がしてきた﹂と、待ちきれなくなって只野先生が言った。
﹁そりゃあ、ありがたい。これはまさに逸品ですなあ﹂
五味氏は相好をくずした。厚い眼鏡に歪んで眼の表情はわからないが、頬や口元がゆるんで笑顔と知れた。
﹁さてさて、それでは何からお見せしますか﹂
やっと望みが叶いそうである。五味氏は立ち上がって書棚のあちこちから無造作に本を引き出し、数冊をテーブルの上に置いた。
﹁まず、こんなところからいきましょう﹂
最初の和綴じの本は、表紙も擦り切れてぼろぼろだったが、辛うじて﹃四畳半襖の下張﹄と読めた。
﹁こ、これがあの有名な……。話には聞いていますが、本物は初めてです﹂
只野先生は感激した面持ちでいう。
﹁そう、ご存知のように永井荷風の作といわれている﹂
﹁たしか、全文掲載した雑誌が摘発され、裁判で有罪になった事件がありましたね﹂
﹁あれは判決がおかしい﹂
﹁……にしても、つまり発禁本ですなあ、これは﹂
先生が開いているのを私は横から覗きこんだ。文語体なので口語文を読むようにすんなりとは頭に入ってこない。文字面を追っていると五味氏はその横に次の本を置いた。
﹁これは芥川龍之介の作といわれる﹃赤い帽子の女﹄です﹂
﹁へえ、芥川龍之介がそんなの書いたんですか﹂
﹁真偽のほどは定かではない。読んで自分で判断するしかないねえ﹂
これは現代文だから読めそうである。芥川の小説は多く読んでいたから、文体を見定めてやろうとそっちへ眼が移った。すると氏は、この本も逸品、とさらにその横に次の本を置き、また講釈をひとしきり。それを読もうとするとまた次を……。これでは目移りして、落ち着いてサワリを読むこともできない。私の好奇心は中途半端になって、テーブルの上をうろつくばかりだった。
﹁これが﹃歌まくら﹄。歌麿の代表作じゃよ﹂
横大判の見開き口絵は春画だった。一瞬、私も只野先生も息をのんだ。これは読まなくてもいい、ずばり一目でわかる。しかし男女のからだが複雑にからみ合って、腕や脚がどっちのものかわからない。なによりも驚くのは男性自身がビール壜ほどもあるし、女の下腹部は手術中かと見まがうほどだった。
﹁ふ、風情がありますなあ﹂
只野先生が感に耐えないという声を出す。
﹁江戸の絵師はこれに命をかけていたんだねえ。そこだけじゃないよ、顔の表情、手の動き、腰つき、足の指、総動員で事に当たっている。画面の隅々まで気配りが行きとどいている、見事というしかないねえ﹂
五味氏も見所を指で示してほめちぎる。
私は顔がほてってきた。黙って見ていると好き者と思われそうなので、何か言わなければと考えたが言葉が浮かばない。ページをめくっていくと、さらに海女、後家、芸者、南蛮人などさまざまな風俗が現れ、大胆奔放な姿態を展開した。
﹁……あ、こんな顔をした力士がいましたね、たしか幕内だったなあ。……あ、こんな決まり手がありますよね。なんて技だったかなあ﹂
私は照れ隠しにそんなことを口走っていた。すると只野先生は、
﹁君は、髷(まげ)を結って裸になっていれば、みんな力士に見えるのかね﹂と非難するようにいう。
そこで、なんとか話題から外れないように考え考え言葉をついだ。
﹁最近、女優のヌード写真集が売れているようですけど、この迫力、まるで違いますね﹂
﹁あんなものと比較にならんよ。見えたの見えないのと次元が低い﹂
五味氏は言下に断じた。いったいどっちが高くてどっちが低いのか、私にはちっともわからなかった。
﹁五味さん、猥(わい)褻(せつ)という観念をどう思いますか﹂
只野先生が言った。なるほど、こういう言い方をすると、どこか高尚な感じがする。
﹁そうですな。……誰しも持っているものを何で隠すのかってことですよ。おかしいでしょう。人間も動物、これがあったから百万年も地球に存続できたんですからなあ。猥褻こそ文化の原点であり、芸術である。規制することが犯罪です﹂
﹁はあ、基本的にはわかりますが、どうも……﹂
﹁なにが、どうもです﹂
﹁いや、たとえば道行く人がみんな大事なところを出して歩くようになったら、節度も奥床しさもなくなってしまう気がしまして……﹂
﹁わしは、みんな出して歩け、と言っているのではない、出して何が悪いかと言っているのです﹂
﹁はあ……﹂
﹁もっとも、みんな出してくれたほうが楽しいですがね。何せ北海道は寒いですから﹂
﹁………﹂
只野先生は、五味氏の論理がつかめなくて困惑しているようだった。
﹁最近の状況を見なさい。若者の中にはセックスなしで付き合う男女がいたり、セックスレス夫婦なんかも現れているという。生物の根源である性が失われつつある。生命体としてのエネルギーが消えつつある。これは文明の危機です。こんなことでは人類は滅亡しますぞ﹂
五味氏の声は糾弾する調子を帯びてきて、手を拳にするとテーブルをどんと叩いた。床の根太でもゆるんでいるのか、その拍子に本の山が崩れ、床の間に不思議な形をした物体が置かれてあるのが見えた。
﹁あ、あれは何ですか﹂
﹁わからなきゃ、それでいいんじゃ﹂
﹁いや、何となくわかりますけど﹂
反り返った棒状のものやえぐれた空洞もある。木の瘤が多いが、石や土偶らしいものまであった。陰陽物は大小さまざまで、ひとつひとつ異様な力がみなぎっている。
﹁真ん中の最も巨大なのはわしが川から拾ってきた。どうだい、よく似ているだろう﹂
﹁いや、まったく、なんともはや……﹂と只野先生は意味不明の言葉を発した。
床の間の真ん中に棒で突いたような穴が開いていて、壁の奥の暗闇が見えた。
﹁あれもやはり、あれを表しているのですか﹂
私の言葉もなにやら意味不明になってきた。
﹁いや、あれはただ開いているだけじゃ﹂
﹁はあ……﹂
﹁実は、わしには男の子が一人おるが、空手なんかに夢中になりおってね﹂
﹁空手、いいじゃないですか、男らしい﹂
五味氏はふいに眉を寄せ、考えこむような表情になった。
﹁奴はわしと意見が合わんくて口論になり、とうとう家を飛び出しちまった﹂
﹁………﹂
﹁そのとき、奴め、わしを殴るわけにいかず、腹立ちまぎれに拳を突いて開けたのがあれ。あれから十数年、行方知れずでね﹂
﹁………﹂
﹁以来、わしの道楽はますます高じてしまった﹂
﹁そうでしたか。……いや、私も教育者の端くれですが、親も教員もできるのはせいぜい子供の基礎をつくってやるだけ。それ以上は何もしてやれんのですよ。世界はどんどん変わっていくし、そこで生きていくのはその子自身なんですから﹂
只野先生は謹厳な表情に戻って、五味氏の気持ちを包みこむように話した。
﹁そういえば、君はわしの息子くらいの年になるわけだ﹂
五味氏は急に私の顔を見て言った。
﹁これらのものを息子には見せることはないと思うが、君には見せとる。……まあ、これは好事家同士の関係ということで﹂
氏はそう言ってまた口元をゆるめると、ビール壜の口を私のほうへ差し出した。
﹁はあ﹂
私が当初、五味コレクションを見たいと言ったとき、容易に聞きとどけてくれなかったのは、私に子息の姿を見たからだったのか。ビールを注いでもらいながら、私はしきりに哀しくなった。
けっきょく、その夜、十二時まで過ごして、五味コレクションの氷山の一角に触れたに過ぎなかった。しかし、貸してほしいとは言えない気がした。只野先生もとっておきの歌集を進呈したのに、それを言い出しかねたらしい。だが、こう言うのは忘れなかった。
﹁五味さんの世界は宇宙のように広大で、とても一夜や二夜では拝見することができない。また寄らせていただきたいですな﹂
すると五味氏は信じられないくらい上機嫌のていで、
﹁どうぞどうぞ、わしも同好の士を得て大変嬉しい。ぜひまたお出でください﹂と答えたのだった。
帰りしなに夫人に礼を言おうと茶の間に寄ると、夫人の傍らに若い女性がいた。細面にやつれた感じがあって、それが寂し気に見える。どこかで見た顔のような気もしたが思い出せなかった。彼女は夫人といっしょに微笑みながら頭を下げた。玄関を出てからも憂いを含んだような、それでいて澄んだ眼差しが印象に残った。私の頭の中は先刻見たさまざまなシーンが思い浮かび、それに茶の間にいた女性の顔が重なって、果てしない妄想を呼んだ。
カウンターの前の椅子に坐るなり、ニジマスがこう言った。
﹁本多さん、知ってますよ﹂
﹁え、なにを﹂
﹁とぼけたってだめ。五味宅を訪問したそうじゃないですか﹂
﹁早耳だなあ。どうして知ってるの﹂
﹁梟の地獄耳、鷹の千里眼、わがニジマスは鼻がきく。……なぜぼくを連れてってくれなかったんです﹂
﹁だって知ってのとおり、五味氏は誰でも家へ上げる人じゃない。ぼくだってやっと上げてもらったんだ。こんど機会があったら、なんとか頼んでみてあげるよ﹂
﹁きっとですよ。ところでどうでした﹂
そこで私は先夜の驚愕の見聞をいちいち復唱した。ニジマスはしきりに、うわあ見たかったな、畜生いい思いしてえ、と溜め息まじりに聞いていた。順々に話していたら、帰りしなに茶の間にいた女性のことに及んだ。
﹁あの若い女性はいったい誰なのかなあ、いい感じだったけど﹂
﹁新川鮎子、二十八歳。……もう若くはないですよ﹂とニジマスは視線を斜めにして言った。
﹁なんだ、彼女を知ってるの﹂
﹁鼻がきく、と言ったでしょ。女性の匂いにはとくに敏感なんです﹂
﹁さすが。……しかし二十代なら若いじゃないか、ぼくらからみればずーっと﹂
私とは七歳の差がある。ニジマスにしたって三十を少し越えたところ、彼のほうが上のはずだった。
﹁そりゃそうですけど、花の盛りというわけでは﹂と彼は自分を棚に上げている。
﹁で、五味氏とどんな関係なの﹂
﹁それはね、本多さん……﹂ニジマスは急に意味あり気に声をひそめた。﹁五味氏の絵を見たことがありますか﹂
﹁どうだったかな。あの夜、部屋にあったかな﹂
﹁風景じゃなく、裸婦の絵ですよ﹂
﹁そうだ。見たことがあったよ﹂
五味氏を側溝から引き上げたとき、自転車の横に放り出してあったキャンバスを覗いたのを思い出した。
﹁その裸婦の顔、誰かに似てなかった?﹂
﹁……あ!﹂
私は緑の森をバックにすっくと立った白い裸身を思い浮かべた。はっきり断定はできないが、あの新川鮎子の顔がだぶった。彼女に初めて会ったのに、どこかで見た、と思ったのはあの絵が当の本人だったからなのか。
﹁わかったでしょ。つまり鮎子はね、五味氏の裸婦のモデルなんです。半年前にこの町へやってきたんだけど、どうも東京でヌードモデルをしていたらしい。あんな虫も殺さぬ顔をしていて、平気で人前で脱ぐ。気をつけたほうがいいですよ、そういう女とつき合うとろくなことはない﹂
﹁誰もつき合うなんて言ってないのに何でそう先走るの。それにヌードモデルのどこがいけないんだい﹂
﹁いけないことはないですけど、本多さんはきちんとした人だから、人前で裸になるような女性と関わったりしちゃあ危険だと言ってるんです。前のこともあるし……﹂
弱みを突かれて声が出なかった。別れた女はこのスナックでニジマスに紹介されて知り合ったのだった。あの手痛い失敗から自分に自信を失っていた。口(く)説(ど)こうなんて思っているわけでない、と私は心の中で呟きながら、鮎子の視線に感じた孤独の翳(かげ)りのようなものを思い出していた。
2
一週間後の昼すぎ、只野先生から電話がきたとき、五味宅再訪の誘いかと思った。ところが、受話器から伝わってくる言葉は信じられないものだった。
﹁な、なんて言いました﹂
﹁だから、五味氏が亡くなったと言うんだよ﹂
﹁そんなバカな。この前、会ったばかりじゃないですか﹂
﹁うん、私も冗談かと思ったんだが、五味氏の弟さんという人からの連絡なんだ﹂
とにかく行ってみることにして、私は即刻、クルマで只野先生宅を回り、いっしょに五味宅を訪れた。
茶の間には町内会の役員らしい人が数人集まっていた。鮎子もいて、私たちに気づくと先に立って案内してくれた。私はこの人が本当にヌードモデルなのだろうかと、彼女のあとに従いつつ、こんなときに不謹慎ながら、喪服の中身を想像してしまった。
五味氏は六畳ほどの部屋に寝ていた。いや、顔に白布がかけられて寝かされていた。只野先生が鈴(りん)を叩いて合掌し、続いて私もそうしたがどうもまだ信じられない。ワッと言って急に起き上がり、私たちを驚かせるのではないかという気がする。先生がそっと白布をめくった。氏の顔は額も頬もつやつやしている。やつれたところが全然ないから、寝ているとしか見えなかった。
﹁いったい何でこんなことに﹂
﹁医者の診断では急性心不全ということです﹂
夫人はいつもより甲高い声になっていた。気持ちが動転して、まだ事態がよくのみこめない感じだった。夫人の言葉を引きとって、五味氏によく似た、しかしどこかひ弱な感じのする男が言った。
﹁つまり、俗にいうポックリ病らしいです。兄貴のからだはどっこも悪いところがなかったのに、いったいどうなっちゃったのか﹂
この人が弟の恩次氏だった。只野先生が白布を戻すと、夫人はまた口を開いた。
﹁この前からとても上機嫌でした。自分と同じ感動を持つ人が現れたって。夕べも寝る前に、そろそろ会いたいなんて独り言をいってましたのに……﹂
ふいに夫人は声を詰まらせ、只野先生はうなだれ、私は涙ぐみそうになった。そのとき勢いよく襖が開いて、チョビ髭(ひげ)の男が顔を出した。古本屋の悉(しっ)古(こ)堂だった。
﹁おーい、五味先輩、どうしたんです﹂
彼は氏の遺体ににじり寄ると、布団の上からすがって揺り動かした。
﹁返事できないんですか。困ったなあ、誰かもう一度生き返らせないの。この前、死んだらわしの本を処分してくれって言ってたのに、こんなことになるなんて﹂
言い終わらないうちに子供が泣くような声をあげた。その声があまり大げさに聞こえ、胸が詰まっていた私はかえって醒めた気分になった。
そのせいだろうか、私の意識は遺体から抜け出した五味氏の魂さながら、部屋の人々の頭上を浮遊した。それは次に部屋を抜け出し、廊下を渡り階段を昇って、先日、私たちを請じ入れてくれた書斎に至った。そこで私の意識は蔵書を片っ端から開いて見た。そして愕然としたのだった。どの本も文字や絵が消え真っ白になっているではないか。五味氏が生涯をかけ、精魂かたむけて蒐集したコレクションのすべてがただの紙屑に変わった……。その幻は私をわれに返らせた。
――葬式が終わると、いや葬式の最中からといったほうが正しいかもしれない、五味氏の遺した蔵書のことが多くの市民に取り沙汰された。このごろ元気がないので回春剤がわりにぜひ見たいものだとか、下手に株なんかやるより儲かるかもしれないから全部買い取ってみようとか、警察が手入れをすればほとんど没収されるから危ないとか、外国へ持ち出せばすごい値がつくとか、噂は噂を呼んだ。もっともそれは男たちに限られた話だったが。
噂をするばかりでなく、実際に蔵書に近づく者たちも現れた。浮世絵研究家と称する男から、ぜひ一度見せてもらいたい、と電話がきたり、友人だという見知らぬ男が訪ねてきて、生前、五味氏に貸した本を返してもらいたい、わからなければ私が蔵書中から探し出す、と勝手に家へ上がりそうになったり、隣市の古本屋が初七日に大きな供物を届けて本の放出を示唆したりという有り様である。いずれも恩次氏が傍らにいたので、いまだ悲嘆にくれているときに何事か、と断ったとのことだ。
さらに追い討ちをかけるように地元新聞がコラム欄で、五味氏の一生をかけた財産なのだから、遺族はコレクションの散逸を防ぎ守っていくべきだ、と書いた。しかし、その後、私の知った情報を分析すれば、遺族といっても子息は行方知れずだし、五味未亡人は老いてなお純真無垢の聖女のような人だから、あの膨大な珍本類を保存管理していくことなどとうていできるわけがない。恩次氏も実弟とはいえ兄とは似て非なる世俗の人であり、とてもエロスの園を真面目に守り通す器量はないものといわざるを得ない。
ある市議会議員は、遺族は思いきって全蔵書を図書館に寄贈すべきだ、と言った。貴重な資料を生かして、地方文化の向上とまちおこしに一役買ってもらうのがよい、と。これは見当違いもはなはだしい。確かに風俗資料としての価値はあるだろう。だが、教育機関である市立図書館が、春本、春画の類をもらっていったいどんな利用法があるというのか。閲覧や展示のたびに猥褻物陳列罪に問われるではないか。
そんな本の行く先など、遺族以外の者がいらぬお節介だ、と私は、噂を耳にするたびに腹を立てた。ついに我慢しきれなくなって只野先生宅へ押しかけてしまった。
﹁まったく、五味氏が心を許した者は、私と君だけなんだからねえ﹂
先生が差し出すお銚子を拒むなにものもなく、私はぐい飲みをあおって、こう意見を述べた。
﹁趣味は一代、いっそ古書ルートでマニアに売りさばいたほうが、五味氏の遺志が生かされるんではないですか。みんな競って自分のものにし、大切に保管するでしょう。それに、売って相当の利益を得れば、夫人は、いうなれば生前、五味氏の勝手気ままに耐えてきたのですから、その貸しをいま返してもらっていいはずです﹂
先生も左手の焼きシシャモを食いちぎり、右手の特大ぐい飲みを干して、同感の意を表した。
﹁夫人がより潤うために、コレクションをいかに高く売るか工夫しなくてはならん。古本屋にまとめて放出しては買い叩かれてしまう。最も儲かる方法は、書店経営にして、コレクションを毎月少しずつ古書情報に掲載し、広く全国に散在するマニアへ通信販売することが得策だと思うね﹂
﹁そうです、それが最も賢明です﹂
﹁それでは書店を経営しよう。これは五味夫人一人ではやれない、助っ人がいる。私と君が手伝おう。夫人が店主で私が番頭、君は丁稚、というのは可哀そうだね、うん、第二番頭をおくことにしよう﹂
﹁今どき、そんなの古いですよ。社長、常務、専務、この三役でいいじゃないですか﹂
﹁よし、それでいい。で、具体的な経営のあり方だが……﹂
私たちは酔うほどに気持ちが結束し、どう古書界に打って出るか戦略を立てたのだった。それから先はあまり記憶がないのだが、どうも散々しゃべったあと、ハイヤーを呼んでもらってアパートへ帰ったようである。そして、その一夜の夢は、翌朝眼が醒めるとともに二日酔いとなって嫌悪感を募らせた。
五味コレクションを売りさばくには、あの膨大な蔵書の一点一点について適正な価値判断のできる者がいなくてはならない。しかし只野先生も私もそんな世界に精通しているわけではなかった。それに五味夫人も若くはない。そんな長い時間をかけてのんびり売ったりしていたのでは、貸しを返してもらう前に……、いやこれは縁起でもないことを想像した。とにかく、私たちが口角泡をとばして力説し合ったことは酔いが言わせたにすぎなく、何の役にも立たない巷(ちまた)の噂と変わらなかった。
﹁五味コレクションの目録を作っていただけないか﹂
恩次氏からそんな相談が持ちこまれたのは、五味氏の四十九日の法要が過ぎて間もなくだった。彼は、遺された蔵書類をどうするかまだ決定していないが、残すにしても売るにしても、目録を作って、兄の生前の情熱の証(あかし)にしたい、と言うのだった。私はその言葉が嬉しかった。
﹁大賛成です。で、夫人は了解したのですか﹂
﹁義(ね)姉(え)さんには私から話しますが、図書館司書の方から一言いっていただければ、説得力が違います﹂
﹁ぼくは司書でもあり同好の士でもある。地方にいて国禁の書を集めに集めた、五味先輩の反骨精神の全容に触れられるなら願ってもないこと。ぜひやらせてほしいと思います﹂とつい言い方に力が加わった。
﹁ありがたいお言葉です。だが、本多さん一人では大変でしょう。やはり只野先生とか気心の知れた人を何人かアシスタントに﹂
﹁そうですね、相談してみましょう﹂
さっそく連絡すると只野先生は、作業が夜ならば喜んでやらせていただく、と言った。しかしメンバーを増やすことには不賛成だった。おおっぴらにやっては極秘裏に蒐集してきた五味氏の遺志に反する、というのだ。思うにこれは、先生が教育者であり、そのことで変な噂が立つのを嫌ったのかもしれなかった。
五味夫人とも直接話した。私が、これは書誌学的にも風俗学的にも貴重なもの、ぜひ研究したい、と言うと、夫人は快く了解した。目録作成のメドは来年八月、五味氏の一周忌記念に冊子にするとのことで、五味家としては応分の謝礼もしたいという。
﹁とんでもない。それは固く辞退します。私たちは五味さんの性に対する、まるで赤ん坊のように無邪気で、原始宗教的崇拝に近い純真な気持ちに触れたいんです。お金をもらったりしては、あの人の心を冒(ぼう)涜(とく)することになります﹂
﹁ああ、五味は本当にいい友人にめぐり会えて……﹂
夫人は眼に涙を浮かべた。しかしハンカチでそれを拭ってしまうと、こう言った。
﹁でも、私はあの人から絶対に覗くな、と言われてましたので、部屋には入りませんよ。よろしくお願いしますね﹂
﹁それがいい。ほんとに義姉さんは男の気持ちをおおらかに見守ってやって、兄貴は幸せ者だった。女房の鏡です。……で、及ばずながらこの私も、夜は銭湯経営でこられませんが、昼の時間を割いて、できるだけお手伝いしたいと思います﹂
恩次氏は感激した口ぶりで座をまとめた。みな実に誠意ある人たちで、気持ちよく無償の奉仕ができそうだった。
――それから私たちは、ほとんど毎夜のように五味宅に通い、目録づくりをした。それぞれが書棚を受け持ち、端から一冊ずつ、題名、著者名、発行所、発刊年月日、規格、価格などを記録する。それを私がパソコンに入力した。すべてを終えたらソート機能を使って、分類、並べ替え、ページ割りする手順である。
書棚は図書館で見ることのない本ばかりだった。色褪せた薄っぺらな小冊子が知る人ぞ知る珍本だったり、擦りきれた帙(ちつ)の中に奇態な秘本が隠れていたりした。巻物から豪華本、豆本、カストリ雑誌、蔵書票、だまし絵、透かし塵紙、人形まで出てきた。それらはまったく何の整理もされず、ただ雑然とむやみやたらに並べられている。おそらく氏は、好きなものを集めただけなのだ。入手するまでは血道をあげるが、いったん自分の城へ運んでしまえばあとはどうでもかまわないといった無頓着さだった。
作業は遅々として進まなかった。何しろ量が多すぎた。私たちは、砂漠の砂を一粒ずつピンセットでつまんで整理しているような気分だった。しかし、進まない原因はほかにもあった。只野先生も私も、記録は表紙と奥付を見ればわかるものを、つい本を開いては引きこまれ、いつか時間を忘れていたりするのだ。もちろん本心をいえば、この役得があったればこそ引き受けた仕事なのだが。
ある日、町の書店に立ち寄って出てくると、駐車場の横の通りでニジマスに声をかけられた。
﹁このごろお見限りですか、ちっとも店に現れないじゃないの﹂
﹁ああ、夜、ちょっとした仕事をしてるもんで﹂
﹁へえ、図書館の仕事なんですか﹂
私は、彼を五味氏に紹介する約束をしていたが、その前に氏はあの世へ発ってしまった。五味コレクションの話を最初に教えてくれたのは彼だったから、いま私が彼抜きで、その整理をしていることが少しばかり後ろめたかった。
﹁うん、まあ、それに近いようなこと……﹂と言葉を濁すと、いつになく執拗に聞いてくる。やむなく私は事の次第を話して聞かせた。
﹁え、そんないい話があるなら、ぼくにも一声かけてくれたっていいじゃないの﹂
彼は顔をキッとさせ、なじるように言った。
﹁でも、作業は夜だからお店で無理でしょ。それにお金になる仕事じゃない。五味氏の遺徳を偲んで無報酬でやってるんだから﹂
﹁かまいませんよ。夜がだめなら昼にとかさ、ねえ、なんとか話つけてよ﹂
とうとう私はニジマスをメンバーに入れるよう説得することになった。只野先生は、そんなわけのわからない者を入れてはいけない、ここは少数精鋭主義を貫くべし、と主張したが、恩次氏は、昼の仲間が増えるのはありがたい、少しでも作業が早まるなら大いにけっこう、と賛同し、さっそく作業に加わることになった。
推薦した手前、ニジマスの作業ぶりが気になって、休館日の午後、五味宅の二階へ行ってみた。彼はちゃんと蔵書にとりついていたので、とりあえずは安心した。
﹁どう、はかどってるかい﹂
﹁ええ、こういう仕事は楽しいねえ。ぼくも司書とやらをめざせばよかった﹂
彼は口笛を吹いたりしてご機嫌の様子だった。私も隣の書棚で作業を始め、ときどき横目で見ていると、どうも彼は記録をとることにあまり熱心ではなく、むしろ本に夢中になって見入っているとしか思えない。ついに見かねて言ってやった。
﹁ぼくたちは記録をとりにきてるんだ。目的を忘れてもらっちゃ困るよ﹂
﹁わかってますよ。しかし、本多さんだってこの役得があって引き受けたんでしょ﹂
﹁そ、そんなことはない。純粋に五味氏の偉業に触れたいだけ﹂
﹁ま、建前はおいといて。人間、誰しも思いは同じ。ほら、すっごいねえ、この奔放なイマジネーションがたまらない……﹂
ニジマスの耳に私の言葉は風が吹いたのと同じだった。開いた本を穴のあくほど見つめて、まるで本物の虹鱒が卵に精子をふりかけるみたいに、身をふるわせて喜んでいた。
街路樹や公園の樹木の葉がほとんど落ちてしまったのに雪が降らず、今年は秋が長いと思っていたら、十二月はじめになっていきなり冬がやってきた。朝、見渡す限り白銀に覆われ、それから毎日のように降り積もった。十日もたたないうちに昨冬よりもはるかに多い積雪量になった。
そんな雪の降る町で鮎子に会った。メーンストリートを歩いていてすれちがったのだ。こっちから会釈をすると彼女は少し驚いたふうだった。雪の中の彼女は清純そのものだった。周囲が白一色になって、髪も肌も口紅の色も一段と冴えて見えたからだろうか。ベージュのふっくらしたブルゾンにワインレッドのマフラーがよく似合っていた。言葉を交わさなかったので私は、振り向きたい衝動に駆られ、それに辛うじて耐えた。
それから少したってマイナス二〇度の寒波に襲われた日、今度はコンビニエンス・ストアーで会った。向こうから声をかけられたのだ。
﹁あら、お買い物﹂
思いもよらぬ近い距離で彼女が微笑んでいた。
﹁……ええ、ほとんど外食ですけど、朝飯なんかこういうの便利なんで﹂と私はうろたえながら、手にしていたオニギリやインスタント食品を示した。
彼女は、今日は黒革のハーフコートを着ているが、あのワインレッドのマフラーを巻いていた。同系色の赤い唇が言った。
﹁じゃあ本多さん、もしかして独身?﹂
﹁そうです。いい歳して甲斐性がないもんで﹂
﹁いいえ、そんなこと……。でも変ねえ﹂
﹁なにが﹂
﹁ニジマスさん、たしか本多さんは結婚してるって言ってたみたいでしたけど﹂
﹁え? なぜだろう﹂
私は別れた女のことを思い出した。つき合ってはいたが結婚も同棲もしていない。彼は何を言ったのだろう。
﹁ニジマス君とはお知り合い?﹂
﹁ええ、ときどき会社にこられるものですから﹂
彼女は、広告会社のOLなのだが、そこの専務とニジマスが友だちで、よく会社に現れるというのだった。いっしょにストアーを出た。家まで送りましょうか、というと、すぐそこですから、と駐車場の横のカステラを重ねたような形のマンションを指差した。
﹁それじゃあ、五味宅のすぐ近くですね﹂
﹁ええ、ですからときどきお邪魔しています﹂
いったいあなたは五味氏とどんな関係なのか、本当にヌードモデルなのか、と聞いてみたい気がしたが、立ち入ったことを言うのが憚(はばか)られ、そこで別れた。空気まで凍りついたような風景の中を去っていく、彼女の後ろ姿を見つめて思った。モデルならもっと尻を左右に揺する歩き方をするはずだ。いや、それはファッションモデルであって、ヌードモデルに歩き方なんて関係ないか。さればヌードモデルの条件は何か、きっと均整のとれた体ということになろう。となれば、彼女は非の打ちどころないたおやかな体つきだ。それに、あの並でない美しい肌……。やはりヌードモデルかもしれない。いや、ヌードモデルだとしたらどうだというのか。全身が魅力的でなにが悪い。人は誰でも顔を出して暮らしている。全身が顔だと思えばいいのだ。私は考え方を転換しようとした。
五味宅での作業はストーブを燃やして行われた。それでも木造の古い家は格別に寒かった。二階には書斎のほかに廊下を挟んで洋室があり、そこは五味氏が生前アトリエに使っていたらしい。夫人が私たちを信じて二階へ上がってこないのをいいことに、只野先生とアトリエを覗いてみた。蛍光灯のスイッチを入れると中はまるで物置きのような状態だったが、壁に何枚もの裸婦の油絵が掲げてあった。そのうちの一枚に眼がとまったとき、私は声をあげそうになった。
――深い緑の森をバックに、一人の裸婦が立っている。その顔はまぎれもなく鮎子だった。鮎子は両手を広げるようにして、白日のもとに裸身をさらしていた。彼女は五味氏のモデルだったのだ。一糸まとわぬ姿で彼の前に立ったのだ。あんなヘアまでさらして。
﹁本多君、その絵にずいぶんご執心のようだね﹂
只野先生が後ろで言った。鮎子の顔は覚えていない口ぶりだった。
﹁い、いや、……あれは、ぼくが五味氏を溝から引き上げたとき描いていた絵なんです。いわば五味氏との出会いの記念みたいなもの﹂
﹁なるほどそれは思い出深い。いや、実にいい絵だね。清楚な顔立ちに豊満な肉体、女性というものはこのように可憐かつ官能的であってほしい、五味さんの願望が凝縮されているようだ﹂
私の気持ちは、只野先生の感想とはほど遠いところで混乱していた。仮に彼女の美貌を聞き及んで、ぜひ一目拝顔したいという者が現れたら、それには何の抵抗も感じない。ほらこの方が鮎子さんですよ、と誇らしげに教えてやるだろう。しかし、鮎子の美しい裸身を見たいという者が現れたら、それは認めるわけにはいかない。自分だけが見るのならいいが、断じて他の者には……。全身を顔にすればいいという論理は成り立ちそうになかった。私は矛盾する気持ちを整理できず、ただ落ち着かなかった。
図書館は本を借りにくる人を待つばかりではなく、本を満載した移動図書館車︿ブックモービル﹀で町を巡回し、利用者の便宜をはかっている。私の仕事はほとんど内勤だが、月に数日外勤があって、それがこの当番である。その日の午後、巡回コースの各ステーションを回り、三時すぎにブックモービルは丘の上の図書館へ戻った。車庫収納を運転手に任せて、積もった雪を踏みながら構内をいくと、正面玄関からニジマスが出てくるところだった。
﹁おや、ニジマス君が図書館通いとは珍しい、いかなる心境の変化ですか﹂
﹁え、冗談じゃない、ぼくだって勉強はします﹂
彼は急に眉間を寄せて謹厳な表情をつくった。
﹁ほら、よく見て。ぼくってけっこう知的な顔立ちだと思わない?﹂
﹁思わない。どう気取っても、遊び人の二日酔いって顔にしか見えないよ﹂
﹁ひどいなあ、そりゃないよ﹂
ニジマスはむっとしたように口を尖らせてから、声をひそめた。
﹁実は、穀物相場の情報がほしくてきてみたんだけど、図書館にそういうのちっともおいてないんですね﹂
﹁そんな個人が儲ける情報は個人で買ってください。ところで、このごろ会う機会もないけど、昼の目録作業、ちゃんとやってるんだろうね﹂
﹁ああ、順調そのもの。そのうちぼくの受け持ち分もパソコンに入れてもらいます﹂
﹁頑張ってよ、とにかく量が量だから、みんなで精ださないと﹂
﹁わかってますって、それじゃあね﹂
彼は手を振って行ってしまった。しかし何となく妙な予感がして、私は閲覧室へ戻ってから応対した女子職員に聞いてみた。するとニジマスは、江戸時代の浮世絵が今どのくらいの価格で取り引きされているか知りたがってきた、というのだ。
﹁古書情報に、広重の東海道五十三次の一枚が売りに出ているのを見つけたんです。そうしたら、よし、とか言って、ここ半年分の情報を持ってこさせて、熱心に調べていたわ﹂
前もって私に言えば調べてやったものを、なぜ彼は穀物相場などと嘘をついたのだろう。女子職員はこんなことも言った。
﹁先に電話がきて、本多さんいますかって言うの。留守だと言ったのにきたんですよ﹂
彼は何かを企んでいるのではないか。私の胸に疑惑が湧いた。それがもっと強まったのは夜になってからだった。いつものように五味宅での記録を終え、アパートへ帰ってから、それをパソコンに入力していると電話が鳴った。
﹁あの、夜分に恐縮ですが、五味コレクションは今後いったいどんなことになるか知りませんか﹂
声の主は悉古堂だった。
﹁知りませんねえ﹂と私は正直に答えた。
﹁そ、そんな冷たいこと言わずに教えてくださいよ﹂
﹁だって、ほんとに知らないんです﹂
﹁聞きましたよ。毎晩、整理をしてるっちゅうじゃないですか﹂
﹁目録をつくっていることは確かですが、処分するかどうかは別問題のようです﹂
﹁その目録をどこぞの専門の店に見せて、高く売る算段をしてるんじゃないですか﹂
﹁そういえば五味夫人が、数日前、隣の市の古本屋がきたと言ってましたねえ﹂
﹁そ、それはなんていう本屋で﹂
﹁さあね。夫人は、ちっともわからないから恩次氏に話してくれと言ったそうです﹂
﹁ありがとう﹂
悉古堂は電話を切った。それから一時間ほどして、今度はチャイムが鳴った。私はパジャマに着替えていたので、いまごろ誰かとドアを開けると、チョビ髭の店主が立っていた。
﹁なんだ、あなたもしつこい人ですね﹂と私の口調はとげとげしくなった。
﹁申しわけありません。どうも、あの恩次氏は、まるでクラゲのような人で、ぬらりくらりとしていて正体がつかめない。で、物は相談ですが、どうか君からも、蔵書を売るなら、この悉古堂に渡すよう、五味夫人に働きかけてほしいんです。それから変わった情報があれば逐一教えていただきたい﹂
﹁そんなことで夜中にわざわざくることはないでしょう。私はもう眠いんです﹂
﹁ほんとに失礼とは思いますが﹂と店主は、後ろ手に持っていたダンボールの箱のようなものを差し出した。﹁これ、ほんの気持ち﹂
﹁そんなことされたって困りますよ、私はスパイのようなことはできません﹂
﹁スパイだなんてそんな人聞きの悪い。ただ私はああいう本はやはり好事家に回してやるのが一番だと思うんです。業界は今いい本がすっかり払底して、コミックやアダルトに頼って細々と暮らしている。あの五味コレクションはまさしく掘出物の山……﹂
﹁わかりますが、こんなのいただけません﹂
﹁何とか頼みますって。それじゃあ﹂
私が拒んでいるのに、悉古堂は片手拝みをしたあと、箱をおいてドアを閉めてしまった。箱を振ってみると液体の音がする。開けるとやはりウイスキーだった。ニジマスと言い、悉古堂と言い、何かを画策している様子だ。状況が見えないながら嫌な予感がした。
﹁それにしても、こんなのもらうわけにいかないな﹂
そう言いつつ私はグラスを出し、お湯割りにして飲んでいた。
翌日の昼食時に、私は鮎子の勤める広告会社が入っているビルのレストランへ行ってみた。彼女は五味氏の裸婦画のモデルなのか、半信半疑の気持ちが収まらず、運がよければ鮎子に会えるかもしれないとの思いに押された行動だった。
ビルの最上階にあるレストランの、見通しのいいテーブルに座を占めた。すると少し離れた観葉植物の陰のテーブルに、鮎子とニジマスが差し向かいでいるのを見つけてしまった。二人とも仲よさそうにハンバーグ・ステーキなんかを食べている。鮎子が私に気づいて会釈をし、ニジマスも振り返って、やあ、と何気ない調子で手を上げた。
たぶん私の顔は強張っていただろう。彼は私に、あんな女とつき合うな、と言っておきながら、彼女と公然と、しかも親しげに食事をするとは。いや、何かのっぴきならない事情があったのかもしれない。いや、しかし、どんな事情があるにしろ、やはり私より若くハンサムなニジマスのほうが男性としての魅力があるに決まっている……。二人いっしょの現場を目撃して私の心は千々に乱れた。注文した大盛りのビーフカレーがきたが喉を通らず、半分以上も残してしまった。図書館に戻ってからも午後の仕事は上の空だった。ニジマスに誠意をもって五味コレクションとの出会いを与えてやったのに、人をコケにする態度が許せなかった。
その夜、五味宅へは行かず、ニジマスと対決する気で、久しぶりにスナック︿虹﹀へ出かけた。しかし店先までくると、どうしたことかいつもの七色のネオンが消えているではないか。入口にはシャッターが下り、マジックペンの下手な字で﹁当分、閉店します﹂と書いた紙が貼ってある。何かあったのだろうか。嫌な予感は募る一方だった。
3
階段を駆け上がる音がしたかと思うと、襖が開き、血相変えた恩次氏がとびこんできた。
﹁に、虹が消えた!﹂
﹁冬には虹は出んでしょう﹂
只野先生がのんびりした声を出す。
﹁いや、あのニジ、ニジマスがいなくなってしまった﹂
﹁ああ、虹山君のことかね﹂
﹁ぼくも彼に会いたいことがあって何度か店に行ってみるんですけど、いつも閉まってますね﹂
私はそう言いながら、もしや、とここ数日来の疑問がふくれあがってくる気がした。只野先生はうなずきながら言う。
﹁だから、わけのわからない者を入れたらだめだと言ったんです。……まあいい、一人抜けたって大した影響があるわけでない。三人でじっくり取り組めばよろしい﹂
﹁いや、先生。ニジマスが単に抜けたということじゃないんで。あいつにまんまとしてやられた……﹂
﹁え、いったい何をやられたって﹂
恩次氏はほとんど半泣きの顔になっていた。以下は彼が語ったその顛(てん)末(まつ)である。
――昼間、目録づくりをしているとき、ニジマスが高名な北斎の枕絵﹃萬福和合神﹄を見つけ、これを欲しがる者に見せたらいくらで買うと思います、と聞いてきた。そんなの今どき興味を持つ者はあるまい、というと、ぼくならこれを百五十万円で売ってみせますと自信あり気に話す。そこで物は試しと二人でひそかに持ち出し、ニジマスの店の客という挽(ばん)曳(えい)競馬協会の役員をやっている男に見せたら、金庫から百万円の札束をポンと出し、これで売ってくれ、と言ったそうだ。
﹁それでどうしました﹂と只野先生は裁判官のような口調になった。
﹁はい、二人ともお金に眼がくらんで、絵を置いてきました﹂と被告は首をうなだれて言った。
﹁置いてきたって。お金はどうしたの﹂
﹁はい、もらってきました﹂
﹁それをどうしたの﹂
﹁二人で分けました﹂
﹁何という……。で、半々ですか﹂
﹁いいえ、七-三です﹂
﹁どっちが七です﹂
﹁私のほうです。実は、サボテンのコレクションをやってまして、その借金に当ててしまったんです。どうかこのことは義姉さんには内密に……﹂
集めるものは違うが、兄弟だけあって蒐集癖は共通しているらしい。
﹁とんでもない人ですねえ。やったのはそれだけですか﹂
只野先生はなおも厳しく問いただした。
﹁……実は、まだあるんです﹂
﹁何、まだあると!﹂
恩次氏はシャツの袖で額の汗をぬぐってから、続きをしゃべり出した。
――二人はこれに味をしめた。ニジマスは、都会の闇ルートに渡りをつければもっと高く売れる、酒の非合法な流通経路に知人がいるので、さらに海外の富豪や蒐集家にさばけるよう当たってみよう、という。それにはやはり現物を見せるに限る。恩次氏はボスだから黙って素知らぬ顔をしていれば、あとはぼくが手先になってやるから任せて、というのに乗せられ、夫人が買い物に行っている隙に、百冊あまりを持ち出した。
﹁百冊も! で、何を持ち出したんです﹂
只野先生は、書棚を見まわして言った。
﹁ニジマスがどこからか情報を得てきて、金目の本を片っ端から引き抜き、トランクに詰めて運んだんです。抜いたあとはそこらへんの本を挟んだりしてごまかして……﹂
なるほど、これだけの本の山なら百冊くらい持ち出しても変化は感じられない。先生も私も露だに気づかなかったのだから。
﹁とんでもない話だ、五味氏が心血を注いだ遺産を。なんたる弟か﹂
﹁でも、兄貴は子供のとき、よく私のものをとったもんです﹂
﹁子供のころの兄弟喧嘩と関係ありません。これは五味氏の貴重な財産です。あなたもそう言って私たちに頼みにきたんじゃありませんか﹂
恩次氏は深くうなだれた。今度は私が訊ねた。
﹁その闇のルートに手がかりはないのですか﹂
﹁それがさっぱりわからんのです。私は知らん顔しておれば、すべて奴がやることになってましたので﹂
にわかボスはまったく頼りにならなかった。
﹁では、換金して帰ってくる可能性もあるわけですね﹂
﹁いや、それはないでしょう。奴の取り引きしている酒屋やツマミ関係の店を当たってみたんですが、何カ月分も借金したままなんで﹂
﹁じゃあ、それを返済するために帰ってくる﹂
﹁いや、踏み倒すつもりにちがいない。店を若いバーテンに売って行ってますから。奴は穀物相場に手を出して、とんでもない大損してしまったらしいんです﹂
﹁ああ、なんてことだ﹂
只野先生が大きな溜め息をつくと、恩次氏は突如、
﹁君がいけないんだぞ、あんな奴を紹介するから﹂とこっちへ矛先を向けた。私は一瞬言葉に詰まり、それから怒りが込みあげた。
﹁何を言ってるんですか、共謀してやっておきながら!﹂
私の怒鳴り声に、恩次氏は早送りで見る旱(かん)魃(ばつ)のビデオのようにみるみる萎れてしまい、
﹁魔がさしたんです。兄貴、勘弁して……﹂と声を震わせて泣き出した。
もう容赦しない。問い詰めてやる――私は怒り心頭に発し、五味宅をとび出した。角を曲がって鮎子のマンションへ向かった。その後ひそかに探って、鮎子の部屋が二階の右から三番目であることは調べてあった。ところが彼女の部屋には電灯が点いていなかった。寝るにはまだ早い時間である。ということは留守なのか。むだとは知りつつ、階段を駆けのぼるとチャイムを押した。立て続けに何度も押したが出てくる気配はない。
﹁畜生、二人でドロンしやがったな!﹂
私ははらわたが煮えくり返るようだった。憤然と五味宅にとって返すと、なんと茶の間に鮎子がいるではないか。
﹁あら、ちょうどいいところへ。いま鮎子さんがショートケーキを持ってきてくだすったの。本多さんもいっしょに食べません?﹂
五味夫人がにこにこして言った。恩次氏と只野先生まで口の縁に白いクリームなんぞをつけて食べている。二人とも困惑した表情ではあったが、こんな事態が発生しているというのに何たることか。私はもう気持ちを抑えられなくなって声を荒らげた。
﹁鮎子さん、話があります。ちょっときていただけませんか﹂
私の剣幕にただならぬものを感じて、彼女はもちろん、他の人たちも驚いた表情になった。彼女を茶の間から連れ出すと、クルマの助手席に乗るよう促した。エンジンをかけ、やたらふかしながら発進させた。
﹁どうしたんです。そんなにとばしたら危ないわ﹂
﹁ぼくと事故死でもしたりしちゃあ、死にきれませんか﹂
﹁……私はかまいませんけど。本多さん、不本意でしょ﹂
したたかな女狐め、いまシッポをつかんでやる。憤怒はますます頭のなかで渦巻いた。
﹁で、何の用かしら﹂
﹁いいですか、正直に答えてください﹂
﹁私、本多さんにはいつも正直でしてよ﹂
逆上のあまり、私は何から問いただしたらいいかわからなかった。呼吸を整えて切り出した。
﹁き、君は、ニジマス君とどういう関係なのですか﹂
﹁どういうって……﹂
﹁この前、レストランでいっしょに食事をしてたじゃないですか﹂
﹁あら、そのことを怒ってるの﹂
﹁怒ったって、そういう関係なら仕方ありませんけど﹂
﹁そういう関係って﹂
﹁ニジマスといい仲なら﹂
﹁いやだわ。逆よ。あの人に言い寄られて困っていたんです﹂
﹁うまいこと言ったって、ぼくはだまされませんよ﹂
ライトに照らし出された道路の白いセンターラインが車体の脇をフルスピードで疾走し、後方へ飛び去って行く。
﹁なんで本多さんをだます必要があるんです。それに私、なんでこんなことを聞かれなければならないのかしら﹂
﹁さあね、君はニジマスの正体を知ってますね﹂
﹁なんのこと?﹂
犯罪の陰に女あり、との言葉が浮かんだ。奴とぐるになって五味コレクションを横取りしようとしたってそうはいかない。私は犯人に証拠を突きつける検事の気持ちだった。
﹁彼は、五味コレクションの精髄ともいうべき品々を持ち出して、雲隠れしちまった。時価数百万、いや数千万円の物をね﹂
﹁えっ……﹂
﹁君は知らないとでもいうんですか。全部吐いてしまいなさい﹂
﹁とんでもない言いがかりですわ!﹂
鮎子は身を起こし、こっちを向いたようだったが、また向こうへ倒れていった。国道に入る急カーブを私がいきなりハンドルを切ったため車体が傾き、遠心力が働いて外側へ放られる恰好になったのだ。タイヤの軋む音のなかで私は態勢を整えて言った。
﹁ならば、じゅうぶん納得のいく釈明をしてください﹂
しばらく沈黙があったあと、彼女は観念したものか、少し上ずった声で、しかし言葉を噛みしめるように語り出した。
﹁……ニジマスさん、このところしきりに私に町を出ようと誘っていたことは確かです。先日も会社にきて、話がある、昼食をおごるから聞いてくれというので、レストランへ行ったんです。こんど大金が入るからそれを元手にして都会へ出たい。君とならうまくいく、いい商売ができる、いっしょに行こう、としつこく誘うんです﹂
﹁で、君はあとから追いかける気なんですね﹂
﹁とんでもない。あのとき、はっきり断りましたわ﹂
﹁………﹂
﹁この町へ着いたとき、私、精神的にずたずたの状態でしたから、︿虹﹀で飲んで泣いてしまって、そこをニジマスさんにつけこまれたの。でも、弱みにつけこむ人って嫌いです。会社の上司と知り合いだから波風立てないように気をつけてきたんですけど、あの時、二つに一つと迫るもんですから、つい彼を傷つけてしまったかもしれません﹂
いつかクルマの速度は落ちて、私は平常の運転をしていた。しかし、なおも疑問は山ほどあった。
﹁じゃあ、失礼ついでにもう一つお聞きしたい。五味氏とはいったいどんな関係なんです。ぼくは鮎子さんの裸婦の絵を五味氏のアトリエで見ました。君はヌードモデルもやってるんですか﹂
﹁………﹂
信号が赤になってクルマをとめた。街灯の明かりで座席もうっすら明るかった。横目で彼女を見ると、手が拳になっていて震えている。
﹁私が、本多さんにそんなに言われるなんて、残念ですわ﹂
その言葉は胸を突く力がこもっていて、私はいささかたじろぐものを感じた。信号が青に変わり、クルマをスタートさせると同時に彼女は話した。
﹁……私、東京から逃げてきたんです﹂
﹁逃げてきた?﹂
――鮎子はあるコンピューター会社のOLだったと言う。同僚に結婚を約束した男がいて幸福でいっぱいの日々だった。ところが男は社長の娘に近づき、天(てん)秤(びん)にかけて鮎子を捨てた。傷心癒(いや)しがたく彼女は北へ向かい、摩周湖にやってきた。死にたいとまで思っていたらしい。旅館でちょうど観光旅行で泊まっていた五味夫妻に出会い、人生のやりなおしを諭され、頼ってこの町へきた、というのだった。
﹁五味のおじさん、本多君は命の恩人だと言ってましたけど、私にとって五味夫妻は命の恩人、いまの会社も奥さんにお世話いただいたんです﹂
﹁……そ、そうなんですか。じゃあ、ヌードモデルの件はどうなんです。お世話になったから脱いだんですか﹂
﹁もし、私がそうしていたら、本多さん、どう思いますの﹂
﹁いや、そ、それはもちろん個人の自由です。しかし、鮎子さんが、いくらぼくの尊敬する五味氏といえども、その前で、裸身をさらすというのは、ぼ、ぼくは許せない﹂
﹁なぜ、許せないんです﹂
﹁なぜって、それは……﹂
いらぬお節介かもしれない。だが、鮎子が裸になると思っただけで、私の胸は苦しくなった。その気持ちは言葉になりそうになかった。私はしどろもどろになってしまった。すると、彼女のほうが落ち着いてきて、いつもの柔らかい声になった。
﹁私、五味のおじさんに絵を描かせてくれって頼まれたことがありました。で、描いてもらったんです﹂
﹁……やっぱり!﹂
﹁でも、ヌードじゃないわ、肖像画です。その絵、見せていただいたけど、実物よりよく描いてもらった感じでした。それからしばらくして、こんなのも描いちゃったって見せてくれたのがヌードの油絵。よく見ると私の顔に似ているの。冗談がすぎると思ったんですけど︿森の妖精﹀という題の美しい絵でした﹂
﹁………﹂
﹁五味さんは言うの、私みたいな女を妖精のようだって……。でも、あの方、眼が悪かったでしょう﹂
彼女はしまいに笑っていた。聞いているうちに私は目頭が熱くなった。性の極致を探究してきた五味氏が最後に求めたのは清純無垢な妖精の姿だったのか。それを鮎子の表情に見いだしたのか。私はそんな二人の関係を、とんでもない妄想で踏みにじっていたらしかった。
前方にドライブインのネオンが見えた。私は鮎子にコーヒーでも飲まないかと誘った。彼女は同意した。喫茶店風のシックな造りだった。窓側に席をとり、私は彼女の正面に坐って、頭を下げた。
﹁ぼくの早とちりで、君を侮辱してしまった。許してください﹂
﹁誤解がとけたら、それでいいですわ﹂
﹁ニジマスの嘘を真に受けてしまって……﹂
﹁私がヌードモデルだって、本多さん、信じたんですの﹂
﹁信じた。だって、君きれいだもの﹂
﹁………﹂
コーヒーがきて、しばらく黙って飲んだ。やたら陽気なジャズ・ピアノが流れていた。窓の外の闇をクルマのライトが何台も通過して行く。北へ向かうクルマばかりだった。みな悲しいのだろうか。鮎子は北へ向かってきた。悲しいと人はなぜ北へ向かうのだろう。私と別れた女は南へ向かったけれども……。
﹁実は、ぼくも相手に逃げられたんです﹂
私は正直に話した。心底好きになれなくて恋人に振られたこと。以来、自分に自信がなく、何事にも本気で当たれないこと。しだいに人生が儚(はかな)く思えてくること。話していると、鮎子は相づちをうってくれた。私の傷は癒されるようだった。
﹁……そう、似たもの同士ですのね﹂
鮎子が微笑みながら言った。私は彼女に切ないほど一体感を覚えたが、それを口にすることは憚られた。たったいま彼女を疑い、問い詰めたばかりである。気持ちを抑えるしかなかった。しかし、これまでの胸のつかえがとれ、晴ればれした気分だった。
雪の下に春の気配を感じる季節に移った。だが、恩次氏がすっかりやる気をなくしたので、目録づくりは停滞していた。こんなペースではとうてい一周忌には間に合わない。恩次氏は己れの悪事を糊塗する気持ちも働いてか、目録作成の期日を守ることにこだわって、鮎子に手伝ってもらおう、と提案した。若い女性に破廉恥ともとれる、そんな作業を頼めない、と私は反対し、只野先生も同じ意見だった。ところが恩次氏は、彼女だってもはや初(うぶ)な歳でもあるまい、前歴もあるようだし、と過去を知っている口ぶりである。とにかくパソコンに堪能だから題名のチェックだけならかまわんだろう、と夫人を通して頼んでしまった。五味氏の情熱の証を記録するとの言葉が説得力をもったらしく、鮎子は簡単に了解した。
いよいよ最後の追いこみが始まった。私と只野先生が交互に、引き出した本の記録事項を読みあげ、それを鮎子がパソコンに打ちこむ。たしかに題名や著者名だけなら、女性がいてもさほど問題はなかった。たとえば﹃誹風末摘花﹄とか﹃カーマスートラ﹄とか言ったところで、彼女に何もわかりはしない。﹃責めの研究﹄や﹃かきく毛考さしす世相﹄だって何とかクリアしたものの、なかには題名でずばり中身がわかってしまう本もけっこうある。﹃前戯五千年﹄とか﹃性愛技巧大辞典﹄とか﹃正しいお変態本﹄とかいうあからさまなのは、さすがに読むのがためらわれ、彼女も聞き返すのがためらわれ、お互いに赤面してしまうのだった。
しかし、この三人体制でやっと効率的な作業のスタイルが確立したといっていいだろう。私たちが読みあげるものを彼女は瞬く間にキーを打ってしまうので、作業はいままでの倍以上の早さではかどった。作業がスピードアップした原因はそのほかにもあって、書斎に彼女がいると、私たちは必要項目以外に本を開いて見入ったりする時間のロスがなくなる。実はこのことが最も大きい効果だったかもしれない。
春の陽気で暑いほどの夜だった。只野先生が国語研究班の会合でこれなくなって、私と鮎子が二人で作業をしていた。いつものように事務的に進めていたのだが、次々に本を引き抜き読みあげていると、書棚の下のほうに隠すかのようにしまわれている大判の本を見つけた。布装の表紙に﹃アダム&イブ﹄の金文字が打ってある。開いて見ると扉に、裸の女が差し出すリンゴを噛む裸の男の絵があった。油絵に似たタッチから見て五味氏の直筆と思われる。絵の隅に︿紅太﹀と押した朱印は︿耕太﹀のシャレにちがいない。
胸騒ぎがして扉を繰ると、果してリンゴの木の下で交わる男女の姿態が眼に飛びこんできた。ページをめくるにつれ、大胆な絡みのバリエーションが展開され、手が震えた。その歓喜の表情にからだが熱くなった。気がつくと鮎子が横で覗きこんでいる。彼女も頬が上気し、瞳が潤んでいた。私はいつかアダムになり、イブを押し倒した。始め抵抗したイブはついにアダムにしがみついてきた……。
夢心地のさなか、突然、背中に何かがなだれ落ちてきて、身動きできなくなった。気がつくと私たちは重なり合ったまま、本の下敷きになっていた。激しく動いたため、本の重量で弱っていた根太が折れ、書棚が倒れたらしかった。
両手を突っ張って彼女をかばいつつ離れようとしたが、容易に起き上がることができない。あわてるとなおも本が崩れてくる。下着をつける間もなく、襖が開いて夫人が現れた。そして、眼をこれ以上大きくならないというほど見開いて言った。
﹁な、何をしてるの、あなたたちは!﹂
とてつもないヒステリックな声に私たちは身をすくめた。夫人は、辛うじて本のなだれから免れた五味氏直筆の画集を見つけ、自分のほうへ引き寄せて覗いた。一瞬、沈黙があったあと、
﹁こ、こんなものを……﹂
笛を吹くような悲鳴をあげて、その場に昏倒した。
休みの朝はいつまでも寝てしまう。温かい布団の中でぐずぐずしながら、鮎子のよく反応するからだのことを思っていた。と、夢を破るように電話が鳴った。
﹁た、大変だ。本が一冊残らず消えちまった!﹂
きんきん響く声が耳に刺さった。悉古堂の声である。とっさに何を言っているのかわからず、ぼんやりしていたのだが、それが五味コレクションのことだと知って、瞬時に眠気が失せた。
﹁それ、また、どうして?﹂
﹁何がなんだかわからない。とにかく大至急……﹂
五味宅にはとても恥ずかしくて、あれからは行っていなかった。しかし緊急事態発生、やむを得ない。私は大急ぎで着替えるとクルマにとび乗り、走り出してから思いなおして只野先生宅へハンドルをきった。庭でタンポポを抜いていた先生を拉(ら)致(ち)するようにクルマに押しこみ、五味宅へ走る。
無断で二階へ駆け上がると襖が開け放しで、なんと十畳の書斎はきれいさっぱり空室になっている。壁の全面から私たちを圧倒した蔵書一切が、かき消えたように見当たらないのだ。襖の向こうで五味夫人と恩次氏、それに悉古堂が坐って何やら話しこんでいた。
﹁……あの行方不明だった耕平からですか!﹂
恩次氏が驚いた声をあげた。夫人はいつもの和服ではなく、幾何学模様のワンピースを着て、まるで別人のように溌剌としてしゃべっている。
﹁ええ、ニューヨークへ渡って空手修行に打ちこみ、いまでは道場の師範代をやっているっていうの。驚くやら嬉しいやら。そこでお父さんが去年亡くなったと言いましたら、もう泣くばかりで。あの子も五味もお互いに意地っ張りな性格でしたから……﹂
夫人はそこで眼にハンカチを当てた。出奔していた子息から国際電話がかかってきたらしい。
﹁本当に兄貴が生きていたらどんなにか……。しかし、それにしてもよかったじゃないですか。義姉さん、よかったよかった﹂
恩次氏は何度もうなずき、声を詰まらせている。
﹁……それで耕平は、空手の教え子で恋仲になったアメリカ娘と結婚したいんで、彼女を連れて帰国する、というんです﹂
﹁それは、ようございましたねえ。ところで、その蔵書のほうは?﹂
悉古堂は、なんとかそっちを聞き出したい一心である。
﹁あの子ったら、三日後に帰国するというもんですから、私、すっかりあわてちゃった。だってそうでしょ、日本の実家へ帰って、あんな本が山ほどあるなんて。アメリカの娘さんの眼に入ったら、それこそ五味家末代の恥ですわ。そこで私……﹂
﹁そ、そこで﹂
悉古堂も恩次氏も身を乗り出す恰好で、夫人の言葉を待った。
﹁そこで、すぐ処分してもらうことにしましたの。電話しましたら、さっそくトラックで持って行ってくれました。これで安心よ﹂
夫人はさばさばした声になった。
﹁処分って、いったい誰がどこへ持って行ったんですか﹂
﹁古紙再生ですよ。古物商の方に、製紙工場で全部溶かしてもらうよう頼んだら、責任持ってやりますって﹂
﹁………﹂
悉古堂が少しずつからだをずらし始めたと思ったら、急に部屋をとび出した。
﹁待てっ!﹂
恩次氏も続いて出て行く。只野先生が私に合図してあとを追いかけたので、私も急ぎ足で階段を下り、廊下を走った。玄関を出ると悉古堂は早くもライトバンに乗ってエンジンをかけた。その助手席に恩次氏がとび乗る。私が自分のクルマに乗りこむとき、鮎子がやってきた。
﹁いっしょに行こう﹂
﹁何があったの﹂
﹁話はあとだ。早く乗るんだ﹂
助手席に鮎子、後ろの座席に只野先生を乗せて、すでに遠くを走って行くライトバンを追いかけた。
﹁もう処分されちまってるってことはないでしょうね﹂
﹁その心配はあるまい。回収した古紙は上質紙、中質紙、ボール紙というふうに分類してからパルプにするはずだ。今日持ちこんで、今日溶かすことはないよ﹂
﹁しかし、本をばらしてしまって紙質ごとに分けられてでもいたら終わりですよ﹂
﹁……とにかく早く行ってみるに越したことはない﹂
ライトバンはあわてていることがわかるような運転ぶりで、橋を渡り、交差点を右へ曲がった。私も続いて後を追った。畑中道の向こうに製紙工場の長い煙突が見えた。煙が出ていて紙を燃やしている錯覚を抱く。しだいに工場の全容が視野に広がり、構内に回収した古紙がうず高く積み上げられているのが見えた。門の中へライトバンは斜めになって入って行く。私も数秒遅れてそれにならった。紙屑が散らばり、風が吹くたびに宙に舞い上がる。それは駐車場にまでとんできていた。
恩次氏と悉古堂がクルマから出て工場へ入って行く。私たちも続いた。工場の内部は何か回転音が聞こえていたが、存外静かだった。私たちはあちこち見まわした。よれよれの紙が巨大なベルトコンベアーに乗せられてゆっくり運ばれて行く。水槽のようなものが並び、何本ものパイプが壁や天井を這い、ギアやチェーンが回っている。どこが始まりでどこが終わりなのか、ちっともわからない。
正面のタンクの横に作業服を着た工員が現れた。恩次氏が近づいて頭を下げ、何やら話している。私たちもやっと追いついた。
﹁……それ、もしかして、あのエッチな本のこと﹂と工員が尋ねた。
﹁そ、そうです、その本です﹂と悉古堂が勢いこんで言った。
﹁それなら、到着と同時に処分しましたよ﹂
﹁えっ!﹂
私たちは絶句した。
﹁だって、古紙は分類しなければならんでしょうが﹂と只野先生が訊ねた。
﹁いや、うちの工場は段ボールの芯をつくってるんで、選別なしです。何でもぶちこんでパルプにしてしまう﹂
﹁そ、それにしても運びこんでただちに溶かしますか。外にあんなに積んである。何日かたってからやるんではないですか﹂と恩次氏。
﹁人目に触れて困るものはすぐやるんです。溶かすところを責任者に立ち会っていただいて。役所の公文書なんかそうします。けさ届いた本類も誰にも見せたくないというんで……﹂
工員は洗濯機のお化けのようなものを指差して言った。
﹁このパルパーでいま溶かしている最中です。ご覧になりますか﹂
私たちは近づいて見た。水槽の中には鼠色のどろどろのものがモーター付きの攪拌棒で掻きまわされ、ぐるぐる回っていた。
﹁ここで摂氏三〇度の温水とかきまぜて、ばらばらの繊維に戻します。紙からゆるめられたインクは脱墨装置によって取り除かれます。界面活性剤のおかげでインクの除去がたいへん容易になりましてね、これが再生紙の生産量を増やせた要因なんです﹂
施設見学にきたわけでもないのに、工員は説明口調になった。恩次氏が悲鳴のような声をあげて頭を抱える。悉古堂はわけのわからない唸り声とともに地団太を踏んだ。只野先生は眼をつぶり腕組みをして何も言わない。
私は、五味氏が亡くなったときに見た、蔵書がすべて真っ白の紙屑になった光景を思い浮かべていた。あれは幻ではなかった。五味氏の生命体は死んで分解され原子になって、またなにか違う物質として生まれ変わる。氏の情熱の証だった本も絵もパルプになり、段ボールの芯になって生まれ変わる。離合集散は宇宙の摂理である。しかし、それはどこか虚しい気がした。
﹁すべては消えていくのか﹂と私は呟いた。
﹁でも、私たちは残ったわ﹂
掌(てのひら)に温かい感触を覚えた。横にきた鮎子が、みんなに見えない角度でそっと私の手を握り締めていた。
*文中、最初の短歌は、古澤達夫歌集﹃堅香子︵かたかご︶の花﹄から著者の許可を得て拝借しました。
初出 : ﹃北方文芸﹄ 一九九五年九月号 北方文芸刊行会
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