幕末から明治初期における医学教育


神谷敏郎 東京大学総合研究博物館



1 東京大学医学部の源流


 江戸時代に最も恐れられていた流行病は、高熱と身体各所の疼痛に苦しみ、短時日の間に死を迎える天然痘(疱瘡・痘瘡)であった。その予防としては病人を山深い疱瘡小屋に隔離するしか策がなく、人びとはただ「鬼神の仕業」と恐れおののいた。「天然痘にかかったことのない子供は、我が子と思うな」と言われたほど死亡率が高く、生命をとりとめた者も失明したり、瘢痕を顔に残したりと後遺症に悩まされた。

 天然痘に一度かかった人は二度とはかからないという体験から、軽い痘苗を使って発病させ免疫をつくる予防法が試みられてきた。1796年に英国の医師ジェンナー(Edward Jenner)によって牛痘種痘法が発明され、やがてそのすぐれた予防効果は世界に広められ、多くの人びとを救済した。ジェンナーの種痘の情報は、発見から数年後には日本にも伝わっていた。長崎の和蘭商館の医師として来日したシーボルト(Philipp Franz von Siebold)も文政6(1823)年に痘苗を持って来日したが、長い航海の間に腐敗してしまい接種に成功しなかった。ジェンナーの種痘法発明から約半世紀後の嘉永2(1849)年7月に、和蘭商館医のモーニッケ(Otto Mohnike)がバタビア(ジャカルタ)から長崎に持参した痘痂(かさぶた)によって本邦における最初の接種が成功した。この吉報はたちまち国内各地に伝播され、同年末には江戸にも伝えられた。その後各地の蘭方医たちの大変な努力で絶大の効果をあげ、多くの小児を救った。この種痘事業の著しい成果は、それまで漢方医学一辺倒であった幕府の医療政策を西洋医学へと転換させる源流となった。

 昭和33(1958)年5月7日に「東京大学医学部創立百年記念」の式典が東京大学大講堂で盛大に挙行された。この日から100年前の安政5(1858)年5月7日は江戸の蘭方医82名の拠金によって「お玉ヶ池種痘所」が開所された日である。東京大学医学部のみなもとを、内容的に連続性をたたないようにさかのぼれるだけさかのぼると、明治維新をこえて、お玉ヶ池種痘所に達するので、この日が東京大学医学部創立の日と定められている。東京大学そのものの創立は明治10(1877)年4月12日で、それより約20年後になる。ただし、東京大学の創立の日というのは、「東京大学」という「総合大学」が成立した日を指していて、当時この総合大学を構成した法・理・文・医の4つの学部の前身は、それよりずっと前から存在していた。したがってこの4つの学部の実質的な創立の日が、それよりさかのぼるのは当然のことである。

 東京大学医学部は創立百年記念事業として、[一]医学部総合中央館(医学図書館)の建設、[二]『東京大学医学部百年史』の編纂の二大事業をおこなった。医学部総合中央館は昭和36(1961)年11月3日文化の日に竣工式が挙行され開館した。『東京大学医学部百年史』は、故小川鼎三名誉教授、故緒方富雄名誉教授を中心とした編集委員の方がたが、10年の歳月をかけられて完成され、昭和42(1967)年12月20日に刊行された。今回、私に与えられた「医学部創設期から明治前期の東京大学での医学教育の変遷」の課題についても、医学部百年史に、仔細な考察による格調高い論述と解説が記載されている。したがって、本稿では医学部百年史から抜粋した該当項目の断片的な史実を述べ、これに医学教育においてはいかに教育標本が重要であったかを、2つの実例を通して紹介することとした。その第1例は江戸末期に、大阪の整骨医各務文献によって創り出された「各務(かがみ)木骨」である[22]。第2例は、幕府の西洋医学導入計画によって招聘され、安政4(1857)年9月に来日したオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールト(J.L.C.Pompe van Meerdervoort)が、教育標本として持参したオランダ青年の頭蓋骨にまつわるものである[27]。ポンペは5年間滞在して、愛弟子の松本良順(後に幕府の医学所第3代頭取に就く)の絶大な援助のもとにその難事業を遂行し、日本に最初の系統だった西洋式の医学教育を伝授し、その担い手を教育した。

 これに加えて、東京大学創立時の頃の学生はどのようにして勉学に励んでいたのかの一端を、明治10(1877)年に医学部医学本科に在学した、森林太郎(鴎外)が残した学習ノートを通して触れ、私の責をはたさせていただく。


2 ドイツ医学制度の導入と外国人教師


 幕府は万延元年(1860)10月、お玉ヶ池種痘所を接収して直轄とし、公式に「種痘所」と名付けた。かくて2年前に設けられた有志共同の私立の機関が官立となり、大槻俊斎を初代の頭取とし、「教授職及び治療医員」がおかれ、本来の「種痘」に加えて「蘭方治療」と「蘭方医術」の修得と研修をおこなう西洋医学の教育機関となった。その後、種痘所といいながら、西洋医学の教育を行っていることから、文久2(1862)年10月から「西洋医学所」と改称された。さらに文久3年2月に西洋医学所は、ただ「医学所」と呼ばれることになった(幕府は伝統的な漢方医学の研究機関として別に官立の「医学館」を置いていた)。

 維新政府は明治元(1868)年6月9日に幕府直轄の医育施設を接収して一時閉鎖したが、医学所は27日後の6月26日に新政府による「医学所」として復活させた。また、8月には漢方医学の医学館を「種痘所」と改め開所した(種痘所は明治4年に閉鎖される)。医学所は明治2年2月には「医学校兼病院」と称され、さらに、同年12月には「大学東校」と改称された。同年、新政府はドイツ医学の導入による日本の医学教育制度の確立を決議し、大学東校を日本全体の医学教育の中核とする方針で外人教師の招聘を決めた。明治3年2月に日本政府とドイツ北部連邦公使のフォン・ブラント(Max August Scipio von Brandt)との間に、プロシアより医学教師2名を3年間契約で大学東校に招聘することが調印された。その契約書にはドイツ人教師は大学別当(大臣)のすぐ下に立って日本の医者たちに自由に命令できること、両人とも、あるいは少なくともその1人は日本皇帝の侍医となることなどの条件が書かれていた。

 ドイツからは軍医2名、レオポルド・ミュルレル(Benjamin Carl Leopold Müller)[挿図1]と、テオドール・ホフマン(Theodor Eduard Hoffmann)が明治4(1871)年8月に「東校」に着任した。前者は外科、後者は内科を受け持った。両名の来日は折から普仏戦争(1870—71年)がおこり着任が大幅におくれ、着任直前の7月には大学東校は「東校」と改称されていた。

挿図1 ミュルレルの胸像。最初のドイツ人医学教師として来日し、日本の医学教育制度の確立に尽くした。その功績を記念して明治28年に建てられた。

 日本の医学教育制度確立についての全権をあたえられた、ミュルレルとホフマンは、東校の制度を根本より改革した。それは一挙にドイツ医科大学を取り込むことであった。修業年限は予科3年、本科5年とした。入学は毎年1回9月と定め、入学する生徒の年齢も制限された。定員は本科生約40名、予科生約60名とされた。この教育制度実行のために教養課程と基礎医学および臨床医学の3分野の外国人教師の充足が進められた。予科の教育担当教師としては、シモンス(O.Simmons)にラテン語、ドイツ語、数学を担当させ、大学南校の教師ワグネル(Gottfried Wagener)に兼担で物理学、化学、数学を受け持たせ、後に動植物学のヒルゲンドルフ(Franz Martin Hilgendorf)、理化学および数学のコッフュス(Hermann Cochius)、ドイツ語、ラテン語のフンク(Hermann Funck)をドイツから招聘して、予科教育の充実がはかられた。

 文部省は明治5年(1872)8月に学制を定め、学区制を布き、東校を「第一大学区医学校」と改称した。さらに明治7年5月の学制改革により校名が「東京医学校」と改められた。この間ドイツより明治5年11月に製薬学教師ニーウェルト(Niewerth)が、また明治6年7月に基礎医学の専任の解剖学者デーニッツ(Wilhelm Dönitz)が来任している。この年に日本の医学教育の基本学制を整え、その基盤を築いたミュルレルとホフマンは3年間の任務を終えた(帰国は翌明治8年11月)。彼らの後任者、臨床医学担当として内科のウェルニヒ(A. L. Agathon Wernich)が明治7年11月に、外科のシュルツェ(Emil A. W. Schultze)が同じく12月に相次いで着任した。さらに、明治9年6月にドイツ人教師ベルツ(Erwin Bälz)が来任し内科を、年末には教師チーゲル(Ernst Tiegel)が赴任し生理学を担当した。

 明治10年4月12日、東京医学校と東京開成学校は合併し、4学部を設け総合大学としての「東京大学」が創立された。東京大学の一学部として面目を改めた医学部は、すでに東京医学校時代に教育指針を大いに改めたので、総合大学となっても教科内容に格別の変更はなく、医学本科は予科3年本科5年の制度を踏襲し、そして製薬教場、医学通学生教場、製薬通学生教場、医院をも包含することも従前と同じであった。この間の東京大学医学部の名称と所在地の変遷は表1の通りである。



3 


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挿図2 各務木片の頭蓋骨(左)とポンペ持参の青年の頭蓋骨。木片の出来は真骨と区別ができないほど精巧である。

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挿図3 森林太郎直筆の大脳推移へい断面図。脳の構造を鉛筆で下書きした後、皮質と基底核を薄墨でぬり、髄質と識別されている。文京区立鴎外記念本郷図書館所蔵

 鴎外は蔵書家としても有名であり、それらの蔵書は没後、大正13(1924)年9月に東京帝国大学図書館に寄贈された。「鴎外文庫」として登録されている書籍の中に、ニーマイルの『病理学と治療学』の1877年版がある。鴎外はこの書物を座右の書として精読したようである。本の随所に黒や赤インクでアンダーラインが引かれたり、余白にドイツ語の書き込みのある頁が見られる。さらに挿図4のように、Carcinom des Magensは「胃癌」、Magengeschwürについては「胃瘍」などのように、数は少ないが項目によっては、朱墨の毛筆で漢字が記入されている珍しい箇所がみられる。


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挿図5 種痘医ジェンナーの像。種痘発明百年を記念して明治29年に建てられた。東京国立博物館構内

 日本の医育制度の創立者ミュルレルはドイツに帰国後、ベルリンの廃兵院長を務めたが、明治26(1983)年10月13日、病のため不帰の客となった。彼の没後2周年にあたる明治28(1895)年10月13日、その大きな功績を偲ぶために胸像が東京大学構内に建てられた。この銅像はドイツ陸軍軍医正の正装で、東京美術学校の教官藤田文蔵の作である。正面にDr. Müllerと刻したのは、ミュルレルの自筆を模したもので、台石の裏面に文学博士島田重礼(篁村)の撰、田口茂一郎(米肪と号す。解剖学初代教授田口和美の長男)の筆になる碑文がある。胸像は戦後の混乱のとき盗まれて、コンクリートの複製が置かれていたが、昭和50(1975)年6月28日に「ミュルレル銅像修復除幕式」が挙行され、立派な青銅の像に修復され、彼の功績を永く伝えている。ミュルレル像は医学図書館に面した、薬学部本館玄関の左手の小高い角地に、附属病院新外来棟に向かって建てられている。医学部と薬学部の創設者を記念するに相応しい位置である。ただ、残念なことに通りからこの胸像を見ることができない。周囲の草木が育ちすぎて胸像を遮蔽してしまっているからである。今日では百余年前に建てられた最初のドイツ人医学教師の像を訪ねる人はほとんど無く、あたかも木陰に潜んでいるかのようである。これも時代の流れであろうか。

 一方、御殿下グランドの東南の角地に、附属病院に向かって日本医学の父と讃えられたベルツ(内科学)とスクリバ(外科)の胸像が並んで建てられている[挿図6]。ベルツは明治9(1876)年6月、27歳で東京医校に赴任し、東京大学の内科教師として26年間にわたり目覚ましい活躍をした。スクリバ(Julius Carl Scriba)は明治14(1881)年6月に33歳の時に外科教師として東京大学に赴任し、前任者シュルツェのあとを継ぎ、1901年9月まで20年間にわたって外科教師を務め、偉大な足跡を残した。2人は東京大学医学部における最後の外国人教師であった。明治40(1907)年4月に2人の偉大な功績を讃えてこの胸像除幕式が行われた。現在の胸像前の敷地は広々としていて、見事な桜の木で囲まれている。春には本郷キャンパスのなかでも絶好の花見の名所となる。また、附属病院の教職員が医学図書館との間を往来するときは、必ずといってよいくらい胸像の前を通り、その存在は昔も今も変わらず輝いてみえる。

挿図6 ベルツ(左)とスクリバの胸像。日本の医学の恩人である2人の功績を讃え明治40年に建てられた。



【参考文献】

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