芥川龍之介 ︻あくたがわ・りゅうのすけ︼ 小説家。明治25年3月1日〜昭和2年7月24日。東京市京橋区入船町に新原敏三の長男として生まれる。生後九ヶ月頃から、母ふくが発狂したため、その実家の芥川家の養子となり、幼少年期を下町の本所に送る。大正2年、東大英文科に入学し、その翌年2月に豊島与志雄や菊池寛らと第三次﹁新思潮﹂を発刊。大正5年に発表した﹁鼻﹂が夏目漱石に激賞され、続く﹁芋粥﹂﹁手巾﹂も好評を博し、新進作家の地位を確立する。作品はほとんどが短編で、王朝物、切支丹物、現代物、歴史物など多彩な題材を扱ったが、いずれにおいても、小説の技術的洗練と形式的完成が追求されている。後年には﹁話らしい話のない小説﹂を提唱し、谷崎潤一郎と論争に至った。昭和2年7月24日、﹁ぼんやりした不安﹂から致死量の睡眠薬をのんで自殺。享年35歳。代表作は﹁羅生門﹂、﹁鼻﹂、﹁地獄変﹂、﹁河童﹂、﹁歯車﹂など。 ︹リンク︺ 芥川龍之介@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 芥川龍之介@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 初期文章 ‥ 発表年順 未定稿 ‥ 執筆年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 単行本 ‥ 発表年順 回想録 その年の冬の十二月に、漱石先生はとうとう胃壊瘍のために倒れた。そして、その葬儀の時に斎場で見た芥川君も私の芥川君に関する記憶の中では、矢張、忘れる事の出来ないものの一つである。 葬儀が終つて会衆がぞろぞろと帰り始めた時だつた。不図、フロツクを着た芥川君が長い椅子と椅子との間に突つ立つたまま、片手で手巾を眼に当てて、啜り泣いてゐるのを、見出し、更にそれを久米君が頻りに慰めてゐるのを見た時、私は不思議に強く心を打たれた。夏目先生の死とその葬儀の全部を通して、この時位心を打たれた事はなかつた。 それは夏目先生の死が、芥川君の心にどんな悲痛な影を投げたかを、私ははつきりみ取る事が出来たからだ。事実、漱石山房に集つた人は随分多かつた。然し、夏目先生から芥川君位可愛がられ、そしてその前途を期待された人はなかつた。 晩年の漱石先生は、所謂旧い門弟の多くに対して、芸術的にか、人間的にか、どちらかの意味に於いて、可なり失望してゐた。そこへ、自分と趣味傾向を同じくし、然かも、より多く芸術至上主義的であり、同時により多く芸術的精進の志に富んだ若々しい芥川君が現はれたのだから、漱石先生が異常に嬉しさを感じたのも無理はない。全く、漱石先生は初孫を愛するやうな気持で芥川君を愛したらしい。 然かも芥川君は漱石先生から単に愛されたばかりではない。その異常なる推奨があつたからこそ、あれ程華々しい文壇進出も出来たのであつた。その上、芥川君の作品に対して最も懇篤な、かつ、理解に充ちた批評をしたのも漱石先生であり、又、何かにつけて有意義な影響教化を与へたのも、矢張、漱石先生だつた。 江口渙﹁芥川龍之介君を回想す﹂ 昭和2年9月 大正十二年の地震の数日後に、私は今東光君と田端の芥川氏のお宅へ見舞ひに行つた。 ︵中略︶芥川氏と今君と私とは、多分芥川氏が云ひ出されたやうに思ふが、吉原の池へ死骸を見に行つた。芥川氏は細かい棒縞の浴衣を着て、ヘルメツト帽を冠つてゐられた。あの痩身細面にヘルメツト帽だから少しも似合はず、毒きのこのやうに帽子が大きく見え、それに例のひよいひよいと飛び上るやうな大股に体を振つて昂然と歩かれるのだから、どうしたつて一癖ありげな悪漢にしか見えなかつた。荒れ果てた焼跡、電線の焼け落ちた道路、亡命者のやうに汚く疲れた罹災者の群、その間を芥川氏は駿馬の快活さで飛ぶやうに歩くのだつた。私は氏の唯一人颯爽とした姿を少しばかり憎んだ。そして、自警団か警官がその怪しげな風態を見咎めれば面白いにと、ひそかに期待しながら、足の早い氏にとつとつ附いて行つた。 吉原遊廓の池は見た者だけが信じる恐ろしい﹁地獄絵﹂であつた。幾十幾百の男女を泥釜で煮殺したと思へばいい。赤い布が泥水にまみれ、岸に乱れ着いてゐるのは、遊女達の死骸が多いからであつた。岸には香煙が立ち昇つてゐた。芥川氏はハンケチで鼻を抑へて立つてゐられた。何か云はれたが、忘れてしまつた。しかしそれは、忘れてしまつた程に、皮肉交りの快活な言葉ではなかつたらうかと思ふ。 吉原で芥川氏は一人の巡査を捕へて、帰り路十町余りも肩を並べて歩きながら、いろいろ震災の話を引つぱり出さうとしてゐられた。おとなしい巡査はそれに一々答へてゐた。こんな風な一個市井の物好きらしく巡査と歩く芥川氏も、私には少々意外であつた。 生前の芥川氏に余り親むこともなく過ぎた私には、故人を思ふと、その日のヘルメツト帽であたりかまはず颯爽と歩いてゐられる姿が第一に浮んで来る。その頃はまだ死を思はぬ快活さであつた。 川端康成﹁芥川龍之介氏と吉原﹂ 昭和4年1月 芥川の癖と云へば、何んな時に逢つても必ず左の手に何かの本を持つて居る事です。アナトール・フランスの小説だとか、ダウデンの論文だとか支那の小説だとか、芥川の学問と正比例して随分多方面に亘つて居ます。芥川が外出には必ず本を携帯すると云ふ一例を挙げると、芥川がNの洋行を見送りに行つた時、携帯の漢詩集を静岡丸の船室へ置き忘れて来た事があります。横浜くんだり迄邪魔になる本を持つて行かなくてもよさそうなものですが。夫に芥川は持つて居る本を途中で読むかと云ふと、何うも読んで居るやうな様子も見えないのです。最初は気障で、見栄を張つて居るやうに見えて嫌でしたが、今ではそんな気は少しもしません。何うも見栄ばかりであんなに根よく本を持ち廻る事は出来ますまい。芥川が一書を携帯するのは普通人がステツキを持廻るのと同じやうな心理状態らしいのです。夫で習慣上の一の必要事となつてしまつたらしいのです。 菊池寛﹁印象的な脣と左手の本﹂ 大正6年10月 昨年の彼の病苦は、可なり彼の心身をさいなんだ。神経衰弱から来る、不眠症、破壊された胃腸、持病の痔などは、相互にからみ合つて、彼の生活力を奪つたらしい。かうした病苦になやまされて、彼の自殺は、徐々に決心されたのだらう。 その上、二三年来、彼は世俗的な苦労が堪えなかつた。我々の中で、一番高踏的で、世塵を避けようとする芥川に、一番世俗的な苦労がつきまとつて行つたのは、何と云ふ皮肉だらう。 その一の例を云へば興文社から出した﹁近代日本文芸読本﹂に関してである。此の読本は、凝り性の芥川が、心血を注いで編集したもので、あらゆる文人に不平なからしめんために、出来るだけ多くの人の作品を収録した。芥川としては、何人にも敬意を失せざらんとする彼の配慮であつたのだ。そのため、収録された作者数は、百二三十人にも上つた。然し、あまりに凝り過ぎ、あまりに文芸的であつたゝめ、沢山売れなかつた。そして、その印税も編集を手伝つた二三子に分たれたので、芥川としてはその労の十分の一の報酬も得られなかつた位である。然るに、何ぞや﹁芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた﹂と云ふ妄説が生じた。中には﹁我々貧乏な作家の作品を集めて、一人で儲けるとはけしからん。﹂と、不平をこぼす作家まで生じた。かうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。芥川としては、やり切れない噂に違ひなかつた。芥川は、堪らなかつたと見え、﹁今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄附するやうにしたい﹂と、私に云つた。︵中略︶私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川が悲しかつた。だが、彼の潔癖性は、かうせずにはゐられなかつたのだ。 菊池寛﹁芥川の事ども﹂ 昭和2年9月 芥川を初めて見たのは、高等学校入学の体格検査の時である。僕の二三番前に、恐ろしく痩せて眼だけ尖つたやうな細長い青年がゐて、それが肺病の嫌疑でも受けたのであらう。厭に丁寧に診られてゐた。僕もそれと同じ嫌疑を受けて、這入れないかと心配したが、幸ひ這入れてから見ると、其時の痩せた青年が芥川であつた。彼は無試験入学の四番、僕は八番であつた。 全く芥川の胸は肺病らしい形に出来てゐる。おまけに顔色が青白い。けれども見かけに寄らず彼は壮健である。腺病質である事は疑ひもないが、割合に規則的な生活もするし、暴飲暴食と云ふやうな事は、滅多にしないから、ひよつとすると僕より長生するかも知れない。而して彼と僕と誰れでも生き残つた方が死者の伝記を書く約束になつてゐるから、願はくは僕が彼の伝記を書かなくてはならぬやうな、ハメにはなりたくないものである。 世間の噂によれば、芥川はひどく美男ださうである。けれども僕はさうは思はない。かの円右に似た長き額と、動もすれば三角になる烱々たる眼とを除き、彼の顔全体の輪郭乃至造作は、﹁女の世界﹂の投票が九十五点を与へるほど、しかく立派だとは信じられない。が兎に角、鳥渡した秀才面はしてゐる。そしてあゝ云ふ小説を書きさうな面をしてゐる。容貌と小説との一致は、僕これを周囲の豊島に見、更に芥川に見る。蓋し芥川は豊島と比すれば美男なる点に於て、口惜しいかな一籌を輪するであらう。けれども彼の安心の為めに、彼の顔がどこか江戸前の畸形的美感を漂はせてゐる事を附言して置く。 久米正雄﹁隠れたる一中節の天才﹂ 大正6年10月 昨年の冬、気を変へて貰はうと僕が赤倉のスキーに誘つたら、非常に乗気になつた。そのあげく、こんなことを云つた。 ﹃凍死のことも調べてみたがね、赤倉あたりででも凍死出来るかね、凍死はうまく行けば非常に楽な死に様だよ。それに、過失だか自殺だか分らん得があるからね。――夕方、君が練習を終つて宿に帰つたあとに残るんだね、さうしてどんどん遠くへ独りで走るんだ﹄ ﹃そんなつもりなら一緒に宿に帰るから駄目だ﹄ ﹃そんなら晩、一服眠り薬りを君にもつておいてから出るよ。月の晩なんか、月の下で走つてみたいのだと云つて出たら宿でも怪むまい﹄ ﹃そんなら宿屋の亭主に、この人は少し気が変だから、僕と一緒のほか外へ出してくれるなと頼んでおくからいいや﹄ ﹃莫迦にしてやがら﹄ 佐々木茂索﹁心覚えなど﹂ 昭和2年9月 その次、芥川君に会つたのは多分その翌年の夏、我孫子の家に小穴隆一君と訪ねて呉れた時だつた。︵中略︶ 芥川君は吾々仲間が互に交はすお辞儀よりは叮嚀なお辞儀をした。長い髪が前へ垂れ、それを又手でかき上げた。我々は野人で、芥川君は如何にも都会人らしかつた。 芥川君は腹下しのあとで痛々しい程、瘠衰へ、そして非常に神経質に見えた。私は神経質な人に会ふと、互にそれを嵩じさせると切りがないので、反対に出来るだけ呑気にならうとする傾きがある。これは何も考へてするのではなく、自然さうなつた。 芥川君は三年間程私が全く小説を書かなかつた時代の事を切りに聞きたがつた。そして自身さういふ時機に来てゐるらしい口吻で、自分は小説など書ける人間ではないのだ、といふやうな事を云つてゐた。 私はそれは誰れにでも来る事ゆえゑ、一々真に向けなくてもいゝだらう、冬眠してゐるやうな気持で一年でも二年でも書かずにゐたらどうです、と云つた。私の経験からいへば、それで再び書くやうになつたと云ふと、芥川君は、﹁さういふ結構な御身分ではないから﹂と云つた。 芥川君は私に会つたら初めから此事を訊いて見る気らしかつた。然し私の答へは芥川君を満足させたかどうか分らない。 志賀直哉﹁沓掛にて―芥川君の事―﹂ 昭和2年9月 氏は近ごろこそ書画骨董に大分無関心になつたが、一時はいろ〳〵なものに凝つた。或は凝つたといふよりも趣味性が広汎で、どんなものにでも理解を持つことが出来るのと、総てのものゝ真髄を見極めようとする探究心とが、広い趣味性と結び付いて深く入つたものだと思ふ。 一時は南画などを蒐集してゐて、愛石の小品を掘り出して、書斎に懸けていたのを見た。 ﹁僕の道楽は五円以上を出ないのだ。﹂と、敢て意にも留ないやうなことをいつてゐたが、その実は一種の味噌だつたらうと思ふ。いつかは若仲の鶏の墨画を懸けてあつたが、 ﹁これなどは偽筆だといつてゐるが、大家の売立に出れば立派に通るものだよ。﹂ と、暗に観賞眼を誇つてゐるかのやうであつた。 いつかある時、私は、金工芸などにも氏の趣味の領土が広がつて行つてゐるのを見て驚いたことがある。書斎にかけてあつた三体の後背仏も趣味時代の名残りを物語るもので、私が訪ねて行つた時は銅印と、外に小さい鋼の水指しを机の上に置いてあつたが、隣家の香取秀真先生に鑑定して貰ふんだといつてゐた。 ︵中略︶ いつかは、エヂプト発掘の小さい花瓶を、可也高価な金で買つたといつて見せられたことがある。 またいつかはレオナルド・ダ・ヴインチの壁画やミケランゼロの彫刻の写真帳︵外国出版のもの︶を見せられたことがあつた。 こんな風に氏の趣味は、転々として、求むるものゝ総てを征服して行つたが、決して一つのものに膠着してゐるやうなヂレツタントではなかつた。これは聡明な氏にしてはじめて出来ることで、入学したかと思ふといつの間にか卒業してゐた。明敏にして物の奥を見極めることの出来る人……氏は総てに一種の鬼才を持つてゐたことがわかる. 鈴木氏亨﹁芥川氏の人及び生活﹂ 昭和2年8月 去る七月二十七日、芥川の遺骸が谷中の斎場から日暮里の火葬場に運ばれ、焼竃の中に移され、一同の焼香が了つたのち、ふと見ると、鉄扉のかたへかけてある札の上の文字が﹁芥川龍之助﹂となつてゐた。その刹那に、若しも芥川がそれを見たら、﹃しやうが無いな﹄と苦笑するだらうと思つた。すると、世話役の谷口氏が﹃どなたか硯をもつて来て下さい、仏が気にしますから字を改めます﹄といふやうなことを言つた。﹁芥川龍之介﹂と改めて書かれた。何だか私も安心したやうな気がした。生前、芥川は﹁龍之助﹂と書かれたり、印刷されたりして居るのを見ると、参つたやうな、腹立たしいやうな、浅ましいやうな感じをもつたものだつた。それは、彼が﹁龍之介﹂といふ自分の名を甚だ愛し且つそれについて一種の誇りをもつて居たからでもあつた。第三者の眼から見ても、﹁龍之介﹂は﹁龍之助﹂よりもよほど感じがいゝし、そうエステチツシユでもある。しかし我の強い彼は特別強くこの点を意識してゐたに達ひない。それは子供らしい誇であつた。しかしそんな所にわが、芥川の愛すべき性格のあらはれがあつた。彼の作品を愛読してゐるとか、彼を敬慕してゐるとか云つたやうな事を書いて寄こす人が、偶々﹁芥川龍之助様﹂と宛名を書いて居るのを見て、﹃度し難い輩だ﹄と云ふ様なことを呟いた例を一二思ひ出す。 恒藤恭﹁友人芥川の追憶﹂ 昭和2年9月 私は前に、新思潮同人の会合の席で、芥川君が余り口を利かないでまた余り笑ひもせずに坐つてゐたと云つた。実際同君は饒舌の方ではないが、また無口の方でもない。そして何にでも微笑を返すには余りに人が悪い。人が悪い点に於ては、今の新思潮同人中M君の次に位するであらう。そして皮肉なのは恐らく第一であらう。但しこの皮肉であるといふことについては或点まで割引して考へなければならない。世には非常に頭が鋭敏で透明であつて、そのために話をしてゐると、如何にも皮肉であるやうに感ぜられるゝ人が居るものである。芥川君は非常に頭のいゝ人である。 然し初めは、芥川君のその人の悪さとか皮肉さとか云ふものは、ごく親しい間柄に於てだけ発露したがやうである。なれない人に対してはたゞ敏感な都会人といふ態度だけで現はれてゐたがやうである。けれど、次第に君の人格がしつかりと根を下すに従つて、その人の悪さや皮肉さは如何なる所に於ても自由に流露するやうになつていつたらしい。但し、茲に云ふ人の悪さだとか皮肉さだとかいふものは、前にも一寸断つた通り、悪い小さな意味にとられては困る。寧ろそれは、ユーモアーの一つの鋭い角であると云つた方がいゝかも知れない。芥川君には、実にこの都会人らしいユーモアーが多分にある。 豊島与志雄﹁敏感で怜悧な都会人﹂ 大正6年10月 近松。あの人は収入はどの位あつたでせう。 徳田。収入も案外少いものぢやないですか、自分でもさう言つてゐましたが、世間からは非常に高い原稿料を取つてゐるやうに思はれるけれども、決してさうぢやないと言つてゐました。誰でも噂ほどにはないものですが……。 小島。ですから、何時でも片つ方に職を持つことを忘れなかつたんでせう。例へば機関学校の教官をやつてゐるとか……。 近松。それは文名を成さない時分でせう。 小島。成しても。今でも大阪毎日の嘱託でせう。 徳田。生活に就いては非常に不安を感じてゐたらしいですね。 中村。貧乏だ〳〵といふことはよく言つて居たけれども、どうも貧乏といふ実感が、ああいふ風な生活態度なり、あゝいふ風な生活様式といふか――には、少しも貧乏だといふ実感が来ないんですね。 近松。葛西善蔵のやうには来ないね。又近松秋江のやうにも。 徳田。お父さんに財産があるといふことをみんな信じてゐたから、それを幾ら力説しても誰も信じないので、芥川君は非常に苦しかつたらうと思ふ。 小島。兎に角あれだけの家を所有してゐて、書斎を建て増しゝたり何かすれば、外から見ればさう思ふのも無理はない。 中村。それだけに却つて、本当に貧乏だと受け容れられる貧乏人よりか、苦しいのでせう。 徳田。東京人のみえもあるしね。 徳田秋声・近松秋江・小島政二郎・中村武羅夫ほか﹁芥川龍之介氏の追憶座談会﹂ 昭和2年9月 或る日の午後、タイル張りの浴室で私は彼と一緒に入浴してゐた。上面の硝子窓には秋日差があかあかと照り、中はひどく明るかつた、或る刹那、互に浴槽の縁に尻を降し、温泉の中に両足を投げ出したまま休んでゐたが、彼はふと私の陽物を眺め自分のそれと見くらべながら、 ﹃君も少年時代に自慰をやつたね?﹄ ﹃うん。――然し、そりやア誰もやることだらう?﹄ ﹃はは、まアさうだが、その時分に自慰をやつた陽物はすぐ分るんだぜ、君エリスのセクジユアル・フイシコロジイにねそれが詳しく説明してある.つまり君と僕の形のやうな……﹄ ﹃ふつふつふ……﹄ 私は思はず苦笑してしまつたが、一転すると、彼は滔々とエリスのそれを説き出した。そして、エリス以外の数人の性心理説にまで及んだ。多読多識、それだけでも彼の若き死を惜むに堪へない。 南部修太郎﹁交遊十年﹂ 昭和2年9月 それから暫らくして、或る夜、突然芥川君が訪ねてきた。その夜折あしく、私の所に多数の集会があつた為、殆んど話をすることもできずにしまつた。その上に芥川君は、小穴隆一君や堀辰雄君等の、大勢の若い人たちと一所であつた。彼は土産に上等のシヤンパン酒を置いて帰つた。︵今から考へると、このシヤンパン酒は彼の死前の形見だつた。︶ しかし芥川君が訪ねてきた時、私の顔を見るとすぐに叫んだ。 ﹁君は僕を詩人でないと言つたさうだね。どういふわけか。その理由をきかうぢやないか?﹂ 語調も見幕も荒々しかつた。電燈の暗い入口であつたけれども、かう言つて私に詰め寄つた時の芥川君の見幕は可成すさまじいものであつた。たしかにその時、彼の血相は変つてゐた。かくし切れない怒気が、その挑戦的な語調に現はれてゐた。 一瞬間! ほんの一瞬間であつたけれども、自分は理由なしに慄然とした。或刃物のやうなものが、ひやりとして胸に突き出さした恐怖を感じた。彼の背後には、大勢の若い壮士が立つてた。イザといへば総がかりで、私に掴みかかつてくるのだと思つた。﹁復讐だ! 復讐に来やがつた。﹂実に或る一瞬間、自分はさう思つて観念した。 萩原朔太郎﹁芥川龍之介の死﹂ 昭和2年9月 自分等は神経衰弱、精神錯乱、自殺などといふ事について度々論じた。それ等の問題について、彼と自分とは正反対の意見だつた。第一の神経衰弱――これは程度の差こそあれ、互に共通した問題で、二人は互に極度の不眠症に悩んでゐたが、しかしその不眠に対する態度は、彼と自分とは全然反対だつた。自分が、如何に不眠に悩んでも、一切催眠薬を用ひない話をすると、彼は、 ﹃それは危険だ。精神病の医者に云はせると、薬を服んでも、眠つた方がいいと云ふよ。君、長い間、さうしてゐたら、君の頭も今にどうかなつてしまふよ﹄と云つた。 ﹃併し僕はやつぱり薬は服まない方がいいと思ふね。――僕はそれだから、不眠の時には、不眠を忘れて他の事を考へてゐる。眠れなかつたら、強いて眠らうとは骨折らない。翌日用事があれば、眠らないままで何処でも歩いて来る。さうしてゐると、どんなに眠れなくとも、二日目ぐらゐには眠れるよ﹄と自分。 ﹃それは無茶だ。そんな事してゐたら、頭をこはしてしまふよ。ベルナアルを服み給へ。――斎藤君︵茂吉氏︶だつて、始終薬を服んでゐるよ﹄ ﹃いや、誰が何と云つても、僕は服まない﹄ ﹃それはよくない。実際それは危険だよ﹄ それから彼はいろいろの催眠薬の話をした。彼は非常に薬の事にくはしかつた。薬を信じない自分には、彼が薬について病的享楽を持つてゐるのではないかといふ気がした。︵中略︶始終薬をのみつけ、薬に対して特殊な興味を持つてゐる人は、うつかりすると薬に誘惑を受けるやうな事がないとも限らない気がする。芥川君の場合にも、彼が薬を恐れないといふ習慣が、その決心を実行にうつすに当たつて、他の人々の場合よりも、比較的容易ならしめてゐるのではないかといふ気もする。 広津和郎﹁宇野に対する彼の友情﹂ 昭和2年9月 芥川は無性に犬を恐はがる。自分から見ると殆んど不自然な位恐はがる。散歩をしてゐて、犬に会うと、犬と出来る丈離れて通る。それから特に夜分、犬の吠える声を聞くと、顔の色を変へる。それが並大抵なうろたえ方でないんだから、気の毒にもなるし、吹き出したくもなる。自分でも前世は犬殺しでもあつたんで、今生はこんな犬が気になるのだらうと言つてゐる。実はさうかも知れない。 芥川のやうに勉強家で、さうして多能な人間を自分は一寸知らない。小説の外に戯曲も書けば、俳句も作れば歌も詠む。漢詩を作るかと思へば、絵をかいたり、古道具屋を漁つて歩いたりする。これは少し旧悪を数へ立てることになるかも知れないが、彼が、柳川隆之助なる仮名の下に、﹁心の花﹂や﹁未来﹂に、﹁アラヽギ﹂調の歌を出したことは、知る人ぞ知るだ。が、これ程多能な彼でも、神は全能なものを造らないと見えて、二つの欠点がある。歩行と手蹟だ。近頃は余り躓いて転げた話も聞かないが、先にはよく雨上りの道に膝をついて見たり、電車からおつこちて泥だらけになつたり、吊鐘マントを着て、坂の上でころんだら、手が出ないので、下までころがつて見たりしたものだ。それから手蹟だ。この夏も、僕の字は支那の何とかいふ書の大家の字に似てゐることを見出したから、大に気が強いとかなんとか言つて寄こしたが、大家の後援がなけりや安心が出来ないんだから、先生矢張り不安なんだと見える。がこれも転げなくなつてからは、大変手蹟をあげたやうだ。近頃ではその六朝風の字に余程据りが出来た。以前は手紙を貰つても、読むのに一ト骨折だつた。 松岡譲﹁勉強家で多能の人﹂ 大正6年10月 芥川君は、内田君の山高帽子の外にも、晩年いろんな物を怖がつてゐた。或ひはどうかした機みから、怖い怖いと云ふのが口癖になつたのかも知れない。同君が犬を恐れた話は有名なものだ。又日常生活の偶ふとした所に潜んでゐる神秘といふやうなものに対しても、非常に尖鋭な恐怖を感じたものらしい。よく﹁この壁の色は怖いよ﹂とか、﹁あの枝の動き工合は変だよ﹂とか、﹁昨夜いやな蛾が飛んで来た﹂とか云つては、無気味な顔をして見せた。村上鬼城氏の俳句だの、内田百間君の短篇だのを特に推賞してゐたのも、さう云ふ気持に共鳴する点があつたからだらうと思はれる。内田君の山高帽に無暗に拘泥して、﹁山高帽子は怖いよ。そんな物を被つて来て、僕をおどかすんぢやないか。それだけは廃してくれたまへ﹂なぞと云ひ出したのもその時分のことらしい。 森田草平﹁芥川龍之介の恐怖病﹂ 昭和7年9月 七月二十四日の朝、私は台所に炊事をしてゐると、奥様が驚いたお顔をなさつて、奥からお出になり、玄関でご隠居様とヒソ〳〵話してゐらつしやつた。そのお話の中に、﹁もう駄目です﹂﹁早く﹂﹁医者﹂といふやうな声が私の耳に入つた。 私はドキツとしました。もしや。でも、私は信じられませんでした。その内、私は水を持つて先生の寝室へまゐりました。奥様は一生懸命、先生をお呼びしてゐられましたが先生はもう冷たくなつてゐられました。 奥様もご隠居様もみなさま、お泣き出しになりました。私も思はず声を出して泣き出してしまつた。 あのお情ある先生が――私達に対しても決して威張りも、横へいもせず、ほんとに主人と思はれないやうな愛のある――先生が……私は早く医師が来て蘇生して下さればよいと祈つてゐました。そして先生はきつとおなくなりにはならないのだ。きつと何かの拍子にかういふやうになつてゐらつしやるだらうと思つてゐた。 けれども、下島先生がお出になり、ご覧になつて、注射なぞをなさつていらつしやつてゐたが ﹁もう、諦めなければなりません。﹂と首をうなだれて仰有つた先生の眼から涙が下りました。 芥川先生はと、恐る〳〵お顔を拝見すると、髪は長く、やせ形の面長のお顔には微笑さへ現はれてゐるのです。安々と眠つてゐらつしやるのです。 笑みをたゝへながら、永く永く眠つてゐらつしやる先生の傍には、奥様、御隠居様お三人、お坊チヤマお三人にお弟子の義敏さんと下島先生、みな首をうなだれてせき一つありません。 昨日まであれほど酷く照り付けてゐたのに、今朝は暗い雲が低くたれて、雨さへ降るやうな模様だつた。そよとの風もなく、お庭の草木も皆沈黙して文豪をあの世とやらへ、送つてゐるやうに思はれた。 森敏子︵註、芥川家の女中︶﹁芥川氏の死の前後﹂ 昭和2年8月 私は一見して芥川氏の余りに年取つたのに驚きました。尤も始終逢つてゐるとさうでもないが、久振りに逢つたからです。芥川氏も私の顔を見てさう思つたに違ひありません。 で、私は﹁お互に年取りましたね。﹂と云ふと﹁うん、だが、芸術家はこれからだよ。日本の作家は早く老いぼれて仕方がない。外国の作家は皆五十以上になつてから好いものを書く。﹂芥川氏は髪の毛を五月蝿さうに左手で掻き上げ乍ら云ふのでした。 七年前に逢つたとき白面の青年だつた芥川氏は髯顔の壮年になつてゐました。七年前に外国の作家のやうな印象を与へた芥川氏は今は俳壇の宗匠の様な印象を私に与へました。 何故と云ふに芥川氏はかなり暖かい日でありましたが、毛糸のジヤケツを着て、併し、羽織を脱いで、前垂を掛けてゐる風はどう見ても宗匠としか見えませんでした。 併し、これは書斎での印象で、或るひは洋服を着て、洋杖でも提げて歩くスタイルは以前にも増して、外国の作家のやうな印象を与へたかも知れませんが、私はその後まだ一度も芥川氏に逢ひません。だが、私は外国の作家のやうに気取つたスタイルよりは却つてかうした日本的の宗匠の風を推奨します。 以前の芥川氏はいくらか衒ふ気もあつたが今の芥川氏は些の衒ふ気分もなく、凡てを達観した宗匠のやうにおつとりと話すのでした。芥川氏は俳句が上手だと私は聞いてゐます。それで芥川氏は自づと宗匠のやうなスタイルが備つたのかも知れません。 HK生﹁私の見た芥川龍之介氏﹂ 大正14年7月 ﹁創作の筆を執る前に、原稿がすつかり頭の中に並びますか。﹂と訊ねてみた。 ﹁え、並ばなけや書き始めません。﹁邪宗門﹂や﹁偸盗﹂なんかは、この位でいゝだらうて筆を執つたので、あんなものが出来ました。あの二つはどうしても単行本の中へ入れる気はしません。しかし又、いくら頭の中で並べて置いても筆にする時にはよく変ります。例へば﹁奉教人の死﹂などは火事を描く気ぢやなかつたのでした。たゞ平凡に病床で死なす筈だつたのですがあゝなつたものです。どうも思ふやうにゆきません。思ふやうにゆかないと云へば過去の作は概して厭なものです。何時かも夏目先生に﹁先生は書き直したいものがありますか﹂と聞くと、﹁死ぬ時には絶版にして死にたい﹂と云はれた事があります。それから﹁糞でもひつた以上は自分の自由にはならないものだ、況んや作品をや﹂と云はれた事もあります。実際夏目先生は傑えらい人でしたね。今でも前と変らず尊敬することが出来ます。実際﹁人﹂として傑えらい人でしたね。全く﹁参つて﹂ゐましたよ。﹂ ﹁芥川龍之介縦横談﹂︵﹃文章倶楽部﹄無署名︶ 大正8年5月 文壇では遊戯が大へん好まれる。野球、テニス、花かるた、ダンス、将棋、碁、ピンポン、麻雀︵マアヂヤン︶等、大種分類はあるが、わが国文人諸氏はこれらのどれかに興味を持たない人は殆ど少ないくらゐだ。 ところで、かやうな文壇に於いて、遊戯の嫌ひの人が二人ある。芥川龍之介氏と佐藤春夫氏だ。 佐藤氏のはうは、遊戯をしてやれないことはないと云ふ。たゞ負けるのが嫌だと勝気なことを云つてゐる。 が、芥川氏が遊戯の嫌ひな原因は、根本は佐藤氏も同じであらうが、それに興味を全然感じないからだと云ふ。そして読書と創作のみに余念がない。従つて遊戯は想像するより以上に下手だ。一度菊池寛氏の家でピンポンの競技があつた折、芥川氏は新進の川端康成氏と立会はねばならない羽目に出会つた。が、川端氏も遊戯にかけては、芥川氏に劣らないほど下手だ。そして下手と下手の試合と云ふものも、却々勝負がつかないものだ。遊戯に興味を感じないと云ふ芥川氏は、その時には弱つたらしい。 ﹁芥川氏の遊戯嫌ひ﹂︵﹃文章倶楽部﹄無署名︶ 大正14年1月 芥川龍之介氏の葬儀は故人の気持ちにぴつたりとした、厳かにしてしめやかな裡に終つた、二十七日午後四時五分、白布に覆はれた遺骸は霊柩自動車に乗せられた、哀愁の文子未亡人と遺児がこれに続く、谷中斎場を埋た千余の人々は粛として声なく最後の黙祷裡に染井の火葬場に送られた、表通りには二千余の人人が蝟集して故人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた、この日午前十一時田端の自宅で近親、知友の告別式があり、午後三時からは谷中斎場の一般の告別式であつたのである、葬場は各方面からの花輪に埋められ柩の上には故人の意志を尊重した戒名﹃芥川龍之介之霊位﹄参列者は芸術界の人々を網羅した他、故人を慕ふ学生、海軍機関学校の生徒など人目を惹いた、殊に生前法廷の争ひにまでなつたアルス社からは大花輪に、北原白秋氏及び令弟鉄雄氏も社員数名と共に列するなど故人の徳を思はせる光景が場内に満ち慈眼寺住職篠原智光師以下の読経に式は初められ、弔辞は先輩として泉鏡花氏、友人として菊池寛氏、後輩として小島政二郎氏、文芸協会を代表して里見�ク氏が朗読した、読む人も聞く人も涙に場を湿らした、殊に菊池氏は弔辞を手にした当初からはふり落ちる涙であつたが﹁友よ安らかに眠れ!君が夫人賢なればよく遺児を養ふに堪ゆ﹂のあたり遂に涕泣して声なく、人々もまた感に打たれて声をなげて泣いた、未亡人に引かれて小さい比呂志君の焼香する痛々しさ、すすり泣きの声参列の人々の眼は赤くなつてゐた、全部の焼香の終つたのは四時、千余名の会葬者中には、徳富蘇峰、佐々木信綱、徳田秋声、松井松翁、岡本綺堂、近松秋江、上司小剣、鈴木三重吉、谷崎潤一郎、小川未明、水上瀧太郎、昇曙夢、加藤武雄、長谷川如是閑、石井柏亭、木村荘八、秋田雨雀、吉井勇の殆ど凡ての芸術界を網羅してゐた。 ﹁菊池寛氏涕泣して﹃身辺蕭条﹄の弔辞﹂︵﹃読売新聞﹄無署名︶ 昭和2年7月
一高時代 大正6年 大正14年初夏
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