有島武郎 ︻ありしま・たけお︼ 小説家、評論家。明治11年3月4日〜大正12年6月9日。東京府小石川水道町に生まれる。明治29年、農業革新の理想を抱いて札幌農学校に入学。キリスト教に接近するも、後に背教することになる。明治43年、雑誌﹁白樺﹂に同人として参加し、文学活動に入る。大正6年に発表した﹁カインの末裔﹂などにより、作家としての地歩を確立。自己の本然の要求に生きようとする人間と環境との相克を描いた。特に、近代的自我にめざめた女性の破滅を描いた﹁或る女﹂︵明治44〜大正8︶は、近代日本文学史上、屈指の傑作と評価される。また、﹁惜みなく愛は奪う﹂︵大正6︶など、評論でも独自の生命哲学を展開し、労働運動の激化に対する自己の態度を表明した﹁宣言一つ﹂︵大正11︶は大きな反響を呼んだ。大正12年6月9日、人妻であった波多野秋子と軽井沢で心中。享年45歳。代表作は﹁カインの末裔﹂、﹁生れ出づる悩み﹂、﹁或る女﹂、﹁宣言一つ﹂、﹁星座﹂など。 ︹リンク︺ 有島武郎@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 有島武郎@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説・戯曲 ‥ 発表年順 初期文章 ‥ 発表年順 童話・詩 ‥ 発表年順 講演・談話 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 純真な人間だ、熱のある人間だ、優しい人間だ、親切な人間だ、寛大な人間だ、何事も善意に解する人間だ、悪意を持ち得ぬ人間だ、大和魂の有無は知らない。武士道を重じないかも知れない。英雄肌ではない。豪傑肌は薬にしたくもない、計算には暗いやうだ。悧巧ではないやうだ、兎も角も間違のない事は人間的だといふことだ。極めて人間的だといふことだ。 彼れの容貌体格は﹁平凡人の手紙﹂にある通りで実に能く均整を保つてゐる。帰朝当時は無髯の好男子で、学者若しくは詩人といふより、寧ろ銀行員――それも間の抜けた――と初対面の人には誤られる風であつたが、長男誕生の記念とかで髭を蓄へてから、今日の堂々たる男振りとなつた。 ︵中略︶ 僕は彼れと十数年の交友であるが、未だ曾て彼れの怒つた処を見たことがない。只一度あつた。それはかうだ。 一昨年の冬だつたか、鹿児島の吹田順助君の上京を機とし、三人で竹葉で会食した時のことだ。彼れは平常酒は少しも飲まない、併し酒量は随分あるといふ予ねての話であつた。其夜は珍客はあるし、話ははづむし、殊に相手は酒豪の吹田君と来てゐるので、有島君も、一合位は飲んだらしい.其内隣室で西洋人がその伴侶に、彼れの英語の発音を批評して笑つたのを小耳に挿んで、いつになく顔色を変へて怒つたものだ。そして隣室へ押掛けて、膝詰談判までやつて退けた。其の帰途に又電車の車掌の不注意を怒つて、胸倉まで攫んだのは、今も一つ話に残つてゐる。 足助素一﹁極めて人間的なる人﹂ 大正6年9月 ﹁昨日、僕は、二人の心が段々切迫して来るにつけ、二人で波多野の前へ行つてうち明けようと、幾度か秋子を勧めたのに、どうしても秋子が承知しなかつたと話したね。あれだけでは、秋子がみじめだから、秋子の心持を言ひ添へて置くが、秋子は、波多野が秋子を愛してゐるのを能く知つてゐるだけに、嘆きをかけるのは一度で沢山だと考へたのだ。……情死者の心理に、かういふ世界が一つあることを解つて呉れ。外界の圧迫に余儀なくされて、死を急ぐのは普通の場合だが、はじめから、ちやんと計画され、愛が飽満された時に死ぬといふ境地を。死を享楽するといふ境地を。……僕等二人は、今、次第に、この心境に進みつゝあるのだ。﹂ ﹁…………﹂ ﹁君が僕を惜しんで呉れるのは能く分つてゐるが。……あゝ何といふほゝゑましさだ。ねえ、秋子さん、こんな寂光土がこの地上にあるとは今まで思ひもそめなかつたね﹂ ﹁…………﹂ ﹁秋子さん、僕はあなたに頼む。有島を殺さないで下さい。有島が死ねば、三人の子は孤児になるんだ……﹂ ﹁そを、あなたは係累がおあんなすつたのでしたつけねえ﹂ と、上は目を使つて有島を見詰めながら ﹁二人で解つてさへ居ればいゝのね﹂ ﹁あなたは愛する者の死を欲するのか﹂ 又しても上は目を使つて有島を見詰めながら、 ﹁二人で解つてさへ居ればいゝのね﹂ ﹁ふん、流石は商売人の妻だ。打算は巧みなもんだ。ではどうしても……﹂ ︵中略︶ ﹁決して邪魔をして呉れるな﹂ ﹁…………﹂ ﹁これは僕が一期の頼みだ。よ、決して邪魔をして呉れるな……﹂ ﹁…………﹂ 有島は涙を流しながら、握手を求める形で右手を、僕の胸のあたりにさしつけ〳〵幾度もこの言葉を繰返した。 今まで堰き留めてゐた涙が、一時に迸り出た。僕は号泣して、有島の手を握りしめた。 ﹁僕は、僕の力が及ぶ限りはする。だが、僕の力に及ばぬことは……﹂ その後僕は何をいったか覚えない。只泣いた。有島の肩を抱いて泣き合つたことを覚えてゐるだけだ。 足助素一﹁寂しい事実﹂ 大正12年8月 ○﹃人は自分の為に生きず又死せず﹄と有島君の棄た聖書に記かいてある。生命は自分一人の有ものであると思ふは大なる間違ひである。若し基督信者が信ずるやうに、生命は神の有でないとするとも、之は人類の有、国家の有、家族の有、友人の有である。有島君は基督教を棄て、此簡単明瞭なる真理をも棄てたのである。背教は決して小事でない。神を馬鹿にすれば神に馬鹿にせらる。有島君はダンテやミルトンが神の子、人類の王として崇めしキリストを棄て、一婦人、而も夫ある婦人を選まねばならぬ運命に陥つた。有島君の為に計つて、愛をキリストに献ぐるは、某女に与ふるよりも遥かに益ましであつた。有島君は神に叛いて、国と家と友人に叛き、多くの人を迷はし、常倫破壊の罪を犯して死ぬべく余儀なくせられた。私は有島君の旧い友人の一人として、彼の最後の行為を怒いからざるを得ない。 人の子の智慧も才ちか能らもなにかせん 神を棄すつれば死ぬばかりなり。 内村鑑三﹁背教者としての有島武郎氏﹂ 大正12年7月 札幌にゐた時代は、君は可也急がしいやうだつた。学校の方も教授以外にいろんな用があつたやうだし、講演会などにも度々引ツ張り出されたし、日曜学校や遠友夜学校の校長をしたり、それから黒百合会といふ学生達のやつてゐる絵画の会にも関係したり、﹁白樺﹂の原稿なども押し迫つてから書かねばならなかつたり――然し君はさういふ忙しい中を、活動的にグン〳〵切り抜けて行つた。 それに君の家は、一時は一部の学生や僕等のグループのサロンのやうな趣きがあつた。ひと頃君は自分の内で、研究会といふものをやつて、同好の士を集めて、社会問題に関する英語の本を講義してゐた。その席上ではよくバクニンとかマルクスとかクロポトキンの名が物語られた。然しまたトルストイやホヰトマンや、ミレーやルソーやの話も出た。君が欧洲から持ち帰つた絵画集なども繰り広げられた。僕はさういふ機会に、君からいろ〳〵新しい事を知る事が出来た。その会以外にも、科学上の問題を持つて、君の所へ議論をしに来る学生や、境遇上或は人生観上の苦悶を訴へに来るものやがあつた。それから煖炉の周りで林檎や南京豆を噛ぢり乍ら、無邪気な呑気な話しに打ち興ずるやうな夜もあつた。さういふ時には君はやはり無邪気な青年となつて、腹を抱へて笑ひ崩れた。さうかと思ふと、快活な君は時々蒼白な額を曇らせて、独自の道を行く人のみが知つてる孤独と懐疑とに深く悩まされてゐる様な事もあつた。あの時分は蓋し君のシュツルム・ウント・ドラング時代だつたらう。 吹田順助﹁札幌時代の有島君﹂ 大正6年9月 波多野さんと有島さんはなぜ死を決したか。之はなぜ恋に落ちたかと云ふ問題よりも更に複雑で、更に神秘な問題である。或人は波多野さんを死神ででもあるかのやうに思つて、死にたい〳〵といつて相手を求めてゐたのだといふし、又或人は有島さんも折角思ひ立つた財産抛棄の事もいろ〳〵の故障があつて、自分の思ふ通りにも行かず、世の中がイヤになつたのだなどゝも云ふ。併し二人の情死が、二人の情交に基くといふことはどうしても否む訳には行くまいと思ふ。仮令如何なる事情、如何なる理由あるにもせよ、有夫姦と云ふ現行法律と抵触する事件の世に公けにされる以上は、其儘に済まさるべき訳はない。六月六日の海上ビルヂングに於ける有島、波多野︵春房︶両氏の会見は談判不調に終つて、波多野氏が警視庁に訴へ出でんとするや、最初蒼くなつて慄へてゐた有島さんは、突然意を決して、﹁君の手によつて二人が牢に入るのは寧ろ本望だ。さア之から直ぐ警視庁に行かう﹂と云つて両波多野氏を促して立ち上つた。途中春房氏が、﹁三人の子供のある貴下を入牢せしむるは情に於て忍びず、何か他に解決の手段なきや﹂と有島さんにいひ出すと、有島さんは冷笑一番﹁十数年連れ添ふた女房を入牢せしむるを甘んずる君が、他人の子供に忍びずといふは矛盾に非ずや﹂と詰つたと云ふ話を聞いた。若し此話が本当であるならば、流石は有島さんだ、よく云つたといふ嘆美の念が涌くと共に、僕には今一つの観察がある。それは意識的か無意識的かは分らぬが、﹁法律の制裁﹂を受けて﹁社会的の批難﹂を薄くしようと云ふ心持だと思ふ。又誰がどう云ふ風に切り出したかよく分らないが、﹁一万円﹂で解決めようと云ふ話も出たといふ事だが、有島さんは﹁金でこう云ふ話を決めるのは厭やだ﹂と刎ね付けたと云ふのだ。之も有島さんの人格をあらはす美しい話と思ふけれども、僕は矢張り﹁金で話をつけるのは厭やだ﹂といふ心の外に、﹁金では話のつく問題ぢやない﹂といふ考もあつたのぢやないかと思ふ。ナゼならば一旦一万円で話を纏めても、翌月は五千円、其翌々月は又五千円といふ風に、有島さんの財産のある限りは鳧のつかぬ話になり易いのだからである。又社会の道徳的批判は有島氏の従来の声望に一大打撃を加ふるに極つてゐるからである。足助氏などは、有島さんを人間以上の神様のやうに祭り上げて、利害の打算などは全くなかつた人のやうに新聞などに話して居られるやうだけれど、之は贔屓の引倒しといふもので、若し今の世に、利害の打算をせぬ人があるとすれば、僕の眼には神様と見えないで、馬鹿に見える。 滝田哲太郎﹁有島さんと波多野さんの記念の為めに﹂ 大正12年8月 兄位心の底から謙虚な人はなかつた。兄には対者の地位、年齢等は如何なる場合でも殆ど問題でなかつたやうである。どんな人に対しても、兄は直ぐその対者の優れた点を見出して尊重する事を、先づ何よりも第一に忘れなかつた。だから﹃君は感心屋だ﹄と云つたやうな意味の言葉で足助兄によく冷かされたものだが、然し兄と接触を持つ人々は、その為めにどんなに自身のひねくれた根性を浄化され、至上なる心の誓と勇気とを与へられたことだらう! 激情家ではあつたが、無駄な火は決して燃さなかつたので、平常は至極温厚な君子人に見えた。然し表示していゝ程の言葉は決して遠慮はしなかつたもので、此の春どう戸迷つたものか或る反動暴力団の機関雑誌の記者とか云ふ人が来て、自身等に関係のある各暴力団の名を並べ立て原稿を依頼したが、兄は直ぐ真正面から﹃そんな暴力団は大嫌ひです!﹄と烈しく明言して、却つて周囲の人々をハラ〳〵させた事がある。﹁独断者の会話﹂の中に﹁私は他人の不愉快な顔を見るのがいやなばつかりの弱気から、大抵のことは我慢して云々﹂とあるが、元来が優しく温い心の主人でもあり、自他に障壁を築かぬ人でもあつたので、何んの緑もゆかりもない初見の人々でも、相談を持ちかけると本気になつて、自身のことのやうに心配もし世話もした。物質上の援助を受けた人々も︵兄から︶かなり大多数で、私の知つてるだけでも容易な額では留まらぬ。兄自身の質素な生活を見て、﹃有島はケチだ﹄と云ふ人々は、自身の無駄な贅沢を恥ぢるがいゝ。 橋浦泰雄﹁黒燿の下に﹂ 大正12年8月 私が有島氏にあつたのは、たゞの一度きりである。それも氏が今年の春、関西の方へ出かけられる当日の忙しい時間を二十分程あつたに過ぎない。波多野夫人には雑誌の用事で二度ばかりあつたことがある。有島氏は仏陀のやうな、円満な人格者として私には印象されてゐる。波多野夫人については、はつきりした顔の輪画に大きな眼と、日本人としては大柄な体格とを記憶してゐるだけである。この二人の中に、苦しくして楽しいローマンスがゑがかれてゐやうとは勿論露ほども知らなかつたが、今から考へると、それもこれも不可避的であつたと見るより外はない。何といつてもそれは事実なのだから。 けれどもこれだけの関係でなら私は有島氏の訃報に接して別段心の静平を失ふ程でもなかつたらう。ところが有島氏は日本で有数の文豪であり、特に、私の最も尊敬してゐる小説家の一人であつた。真理に対して氏のやうに献身的であり、謙譲で、真率であつた人は日本現代の小説家の中で殆んど類がなかつた。特に、最近、社会問題の怒涛が日本に押しよせて、思想界が混乱をはじめた時、氏は、身を挺して此れが解決にあたつた。さうして、氏の思索の方向が漸次大衆の動く方向と合致せんとする時、突然今度の事件が起つたのである。しかも、屍体は、死後一ヶ月もたつて、誰の屍体ともわからぬ位に腐爛してから発見されたといふことは、いやましてあはれを深くしたのである。こんなわけで、氏の今回の情死は、路傍の見知らぬ人の情死に比して、私には――恐らく大多数の人にとつてもさうであつたであらうやうに――シヨツキングであつた。 平林初之輔﹁有島武郎氏の死について﹂ 大正12年8月 私は、一度秋子夫人に逢つた事がある。こざつぱりとした小形の婦人としての記憶のみで何等の印象をも受けなかつた。有島君は雑誌の手伝ひ人だとして紹介した。勿論その当時それ以上の関係は決してなかつた。彼女も初めは彼を尊敬したのみであつたであらう。が、それが自然に愛となり最後に恋愛となつたのである。彼は初めは避けて居た。彼女は私をチヤームしやうとして居ると感づいて居つた。だん〳〵接近するに従つて彼の心も溶けて純な友愛を彼女に与へ始めたのであらう。元来女は男に対して恐しい誘引力を有して居る。況や純なる愛を捧げる女性に対して反抗するには彼は余りに寛大であり又純真であつた。 今迄彼と恋の関係を有した女性は少くも日本で四人、外国で二人あつた事実を私はよく知つて居る。彼は幸な男であつたであらう。併し彼が婦人から受けた誘惑は普通人の想像以上に強力であつた。彼は女性を尊敬した、そして女性を牽きつける男性美を遺憾なく彼が有して居たのである。此の種の誘惑を知らない道徳家宗教家が頭から彼を責める心事は寧ろ隣むべきである。 森本厚吉﹁胸友有島君を懐ふ﹂ 大正12年9月 人に会はれるといへば、先生は他で見るも気の毒な程、骨身を惜しまず会はれました。迷惑もし失望もせられながら、会はふとして来られた人には死ぬまで会はれました。御自身でも、これでは仕事なんか出来たものではないと知られながら。嘗てこんな言を漏らされたことがあります。﹃河上さんは社会問題を取扱はれながら、面会人をよくもあんなに撃退して御自身の道を進むことが出来るね。だうもこれには弱つた﹄と。 然し先生は決して人に会ふことを拒否することはしませんでした。殊に初面会の人には。先生が余り疲労されてゐるので、見兼ねて御母堂が﹃今晩は御断りした方が良いでせう﹄と云はれた時でも、﹃何ツ一寸会つて来ます﹄と書斎に行かれるのが多かつたそうです。先生は晩年よく云はれました。﹃僕が人に会ふのは僕の贅沢心から来てゐるのかもしれない。真実に良い人があつて、僕に会ひ度いと思つて来ながら、僕が面会を断つてしまつたばかりに、此の世で言葉も交はさずに擦違つて永遠に知らずにしもうかと思ふととても堪まらないんだ﹄と。 先生程人類を愛した人は決して多くはないであらう。私の知つてゐる人の中で――勿論さう多くは知らないのであるが――先生程人間を愛した人を尠くも私は知らない。世の総べての人に尠くもこのことだけは知られて欲しい。 八木沢善次﹁師の死に面して﹂ 大正12年9月 先生は予科の語学を受持つて居られました。私どもは確か昨年でしたか死んだ亜米利加の文学者 Jack London の書いた Called of wild と、カーライルの英雄論と、科外にセーキスピヤのテンペストとを教はつたかと思ひます。先生のリーデングは流暢とは思ひませんでしたが、正確だといふ一般の評判でした。洋行した人は明瞭にアクセントを付けますから、何うかすると我々日本人の耳には気取る様で変に聞えますが、先生にはそんな嫌味な処は更にありませんでした。若し訳語に適当な辞句が見付からない時は、真黒な心持ち縮れた長い櫛目の通つた事のない髪の垂れ下つた白い額に手を当てゝ瞑目されます。それは何うしても語学の教師でもなければ、勿論農学士でもなく、思想界の人のやうに見えました。一体先生の御顔は何ちらかと申せば沈欝な、影の多い方です。︵中略︶ 学生の受けは先生位一般的に好感と尊敬とを以て迎へられた人はありますまい。中には有島宗とでも云ひ度い程熱烈に先生の人格に推服して居たものもありました。学校に﹁黒百合会﹂と云ふ学生の絵の会がありますが、何時も熱心に御世話をなされて、御自分でも必ず三四枚の水彩画なり油絵なりを出品して会を奨励されました。尚学生の心服してゐた他の理由として、先生は多くの教師の中で我々若い者の心に対して常に理解と同情とを持つた有力な味方でした。学生が人生観とか倫理問題とかいふものに疑ひを抱いたりして、先生に御相談に行けば、何んな学生に対しても決して好悪の差別なく一様に熱心に聴いてやつて、御自分の意見をも述べ、注意をも与へられたといふ事です。 XYZ﹁教師としての武郎氏﹂ 大正6年9月
明治34年6月 明治44年7月 大正11年
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