近松秋江 ︻ちかまつ・しゅうこう︼ 小説家。本名、徳田浩司。初期は徳田秋江と号したが、後に近松姓に変更。明治9年5月4日〜昭和19年4月23日。岡山県和気郡藤野山に生まれる。明治34年に東京専門学校英文科を卒業後、出版社、新聞社など職を転々とするも、いずれも長続きしなかった。明治42年、妻の大貫ますが家出。翌年、その生活上の破綻を描いた小説﹁別れたる妻に送る手紙﹂を発表し、文壇に広く名を知られる。その後も、ますに対する妄執を描いた﹁疑惑﹂︵大正2︶や、遊女に対する盲目的な情痴を描いた﹁黒髪﹂︵大正11︶など、赤裸々な私小説を多く発表した。大正11年、猪瀬イチと結婚。作風も変化をみせるが、安定へは向かわず、﹁子の愛の為に﹂︵大正13︶など、現世の苦患に悶え続ける破滅型の私小説を描き続けた。昭和17年、両眼を失明。昭和19年4月23日、死去。享年67歳。代表作は﹁別れたる妻に送る手紙﹂、﹁疑惑﹂、﹁執着﹂、﹁黒髪﹂、﹁子の愛の為に﹂など。 ︹リンク︺ 近松秋江@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 著作目録 小説 ‥ 発表年順 歴史小説 ‥ 発表年順 紀行・小品 ‥ 発表年順 アンケート ‥ 発表年順 評論・その他 ‥ 発表年順 回想録 然し、氏はさう大した貧乏人ではない。またそれが氏にあつては享楽の一つになつてゐるのだ。紙衣姿の伊左衛門や椀久や、江戸の作者の描いた大家の若旦那が家から勘当をされて、出入の者の二階に﹃いはくあつての侘び住居﹄だとか﹃まことに公はさすらへの身﹄だとか云つたり云はれたりしてゐるやうな境遇が趣味として好きなのである。氏が浜寺に行つてゐた時なども、電車賃さへ無いと云ふやうな時、氏はなさけなさと共に何とも云へぬ面白味を感じた事であらう。︵中略︶ 兎に角、何時までああした生活を持続して行けるかは疑問のやうにも思ふけれど、氏は血眼になつて女を追つかけてゐる時でも、その女を追つかけてゐる自分を見ては、いぢらしく思つたり楽んだりしてゐると云ふやうな人であるから、定めて一生涯夢を見てすごす人であらう。氏自身もその酔生夢死を望んでゐることであらう。 生田春月﹁近松秋江論﹂ 大正4年5月 女中に案内されて徳田さんの室へ入りますと国民新聞のS氏と矢張りその眼のことに就いて話しながら食事をしてゐられました。S氏の膳の上にはライスカレーとハムサラダがのせてありました。そこで徳田さんの膳の上を見ると、あの腐敗したやうな、膠の焦げたやうな臭ひのするくさやの干物がのつてゐるのです。︵その後訪ねて行つた時も昼飯時分で、その時はかつほの塩辛が皿の真中にどろ〳〵してのつてゐました。︶ 徳田さんはよくあんな腐つたやうなものが好きだ。あんな赤痢病の人糞みたやうなものを喰べてよく身体になんともないものだ。私はさういつたものが咽喉を通つて、胃の中へ落ちつくことを想像してみると黴菌恐怖に囚はれさうになつて、無気味に考へられるのです。でも徳田さんは相変らずくさやの干物が好きなのだな、と少々恐れて私は見てゐましたが、ふと、 ﹃徳田さんはそんな腐つたやうなものばかり喰べるので眼が悪くなつたんぢやないのですか﹄と、無遠慮に訊いてみると、 ﹃そんなことはないさ。箱根なんかでは随分御馳走が毎日あつたから、そんなことはないさ。﹄と、真面目な調子で言つて、指を汚しながらくさやをむしっては、さも甘さうにお茶漬をかつ込んでゐるのです。 池田孝次郎﹁くさやの好きな人﹂ 大正9年12月 近松君と共に色々の細かい仕事に当つてみると、近松君が見かけによらず事務の才に長じ、敏活な手腕をもつてゐられるのに感心しました。うまく急所々々を押へて、明快に仕事を処理して行く、俗務の腕が、なか〳〵確さうなのを、私は近松君において今度初めて知りました。 正宗君に、テキパキと事務を片付けて行く腕のある事は昔から知つてゐますが、近松君にそれがあらうとは思ひませんでした。それから又近松君には、謙虚人に下るといふやうな美徳があつて、一時文壇に自信を穿き違へた空威張の倨傲が流行した時、君の謙譲な特質が大に目についたのを覚えてゐます。 上司小剣﹁事務の才に驚いた﹂ 大正9年12月 むかし人づてに聞いてゐた秋江氏にはアブノーマルなヅボラものといふやうな点もあつたやうだが、私の知つてゐる秋江氏は、几帳面な、克明な、すべてに行き届いた人で、特に金銭の勘定なんぞのキチンとしたのには感心する。さうして文壇には珍らしい謙抑家で、自ら持すること厳に、人を待つこと寛なり、と言つた風のところも見える。こんなことを言つたら、或る一面の秋江氏をば、遠くから眺めてゐるだけの人々は、﹁フヽン﹂と鼻先きで嗤ふかも知れないが、自ら抑制して、すべてを穏やかな常識に愬へ、時々、辛辣な言句も弄することはあつても、それは決して剃刀のやうなものではなくて、黄金の小刀といふ風に、美しく且つ婉曲で、さうして奇警である。大言せず、叱咤せず、咆哮せず、静かに理智をもとめて、何人も見て当然と思ふところに落ちつく。……尠くともそこに落ちつきたいといふのが、氏の性情の根幹をなしてゐる。 上司小剣﹁現代の落柿舎主人﹂ 大正13年10月 秋江氏に初めて会つたのは、今から五六年前、まだ氏が赤城神社の中の下宿にゐられた頃だつたが、その頃には、随分疲労してゐられたやうに思ふ。正午頃にお訪ねすると、北向きの窓が一つしかない狭い室の中に、古雑誌だの紙きれだのが雑然と散らかつてゐるそばに、夜具などが脱ぎちらしてある。その中で、秋江氏が一人で、もう可なり生えてゐる白髪を、小さい鏡に映しては抜いてゐられたことなどがあつた。顔などは、まだ可なり若々しいのに、何処となく頽廃した老人のやうな様子が見えるので、心ひそかにいた〳〵しい思ひをしたくらゐであつた。 ところが、それからしばらくすると、その老人くさいところが、少しづゝ取れて行くのが見えるやうになつた。言はれることにも何処かに落ちつきがあつたし、笑はれる声も、これまでよりも明るく快さゝうに見へるやうになつた。少し変だなと思つてゐるとそのうちに、自らそれとなくお惚気などを言はれるやうになつたので、私もははんと気がついたのだつた。 ﹁これを女が呉れたですなあ﹂と言つて、財布の中から小さい女持ちの金時計を、惜しさうに出して見せたりされたことがあつた。可なりお惚気も聞かされたが、私は別に羨しいとも思はなかつた。が、正直なところ、秋江氏︵のお年︶でも情人が出来るのだと思ふと、可なり安心しないでもなかつた。 田中純﹁元気が続くやうに﹂ 大正9年12月 秋江氏は、僕などゝ寝転んで話したり、散歩したりする時に、僕に向つて、﹁君も享楽派だけれども、お互いに貧乏だから……﹂と云ふやうなことを云ふ。そして、着物だとか、食べ物だとか、女だとか、さう云ふ物質的歓楽に対してお互ひに持つて居る趣味に就て、いろ〳〵話をすることがある。僕は秋江氏程享楽派ではない。秋江氏は実に如何なることに対しても趣味を持ち得る。一寸其処らを歩いて女の半襟にも興味を覚える。さう云つた趣味性のデリーケートな人で、実を云ふと金でも沢山待つて居て働らかずに暮して行くと云ふ人だ。しかし、さう大きな欲望や、野心を持つて居るのでもない。自分は自分としてのさう云ふ範囲を持つて、其の範囲の中の実感に生きて居る。つまり自分の周囲にいろんなユルージョンを描いて、自分の世界を作つて居る人だ。 徳田秋声﹁徳田秋江論﹂ 大正3年8月 文学の話がよく出る。よく出るどころの話ではない。毎日毎日文学の話ばかりで、その他の話は、みんなその間のつなぎと云つていい。近松さんと自分とでは意見の違ふ事は稀にはあるが、大体いつでも一致する。又意見が違つても、併し相手の云ふ事はよく理解し合へる。 ﹁そこです。そこです。君は実によく解る。――つまりそこなんです﹂と近松さんは乗り出すやうにして自分の云つた言葉を愉快さうに繰返して、﹁君は年が若いのに、実によく解りますね﹂ そんな風にしてゐる中に、或日近松氏は、小さな手帳を出して、 ﹁僕が死んだ時に、その通知状を発する知友の中に、君の名を書き込んでもよござんすか?﹂ ﹁どうぞ﹂と自分は答へた。自分は微笑しながらさう答へたのだが、胸はへんに悲しく打たれる気がした。――近松さんはその小さなノオトに、自分の名前を書き込んでゐた。自分はその手付を見て、この尊敬する先輩からさうした友情を見せられる自分を光栄と感じながらも、さうして死亡通知を出す人々の名を、みづからノオトにつけてゐる近松さんが、とても淋しい孤独な人に思へて来た。――尤も、その時分の氏は淋しい独身の時だつた。だから余計に淋しい様子に見えたんだが、近頃は人の噂に聞くと、氏はゆつたりした、幸福な気持で新家庭で暮してゐられるといふ話だが…… 広津和郎﹁近松氏の精進﹂ 大正13年10月 ﹁別れた妻﹂によって幕の開いた、彼の数篇の愛欲小説、﹁疑惑﹂でも、﹁黒髪﹂でも、しつこい、思いきりの悪い彼の本性をよく現わしているのである。このしつこい、思いきりの悪いところに彼の文学の特色があるのだが、しつこいこと、思いきりの悪いことは、藤村にも花袋にも見られるので、本当は珍らしくないわけだ。ただ秋江のは、他の人々のように思慮をめぐらすことなく、知恵を働かすことなく、しつこさその物を単純に出しっ放しで行くのが、藤村などと異るところなのだ。﹁疑惑﹂の材料となった事実談は、話上手の彼からたびたび聞かされたもので、一度は面白かったが、しまいにはいやになった。私ばかりではない。友人仲間でそう云っていた。藤村などは秋江のように、誰れでも掴まえて、そんな醜い打明け話はしなかったにちがいない。私自身を省みても、秋江と同様の経験があったと仮定しても、あれほどアケスケと書かなかったに違いない。それで、私は、藤村の﹁家﹂にでも﹁新生﹂にでも、書くべくして書いていないものが隠されているのじゃないかと疑っている。かつて、藤村が、﹁どんなことでもさらけ出して書きまくるのが必ずしもいいことではない﹂と、泡鳴に当てつけて云ったことが思い出される。秋江は隠すところなく書いたに違いない。自分の経験事実だけは書きつくしたのだ。 正宗白鳥﹁自然主義盛衰史﹂ 昭和23年3〜12月 最も、情痴世界の探求者として、今更言ふまでもなく異常な勇者であるに似合はず、老の体力は大分弱すぎるやうだ。ポキリ折れはすまいが、案外長いきはされるに違ひないが、五官を現実世間の深酷な刺戟に沈湎せしめるには、老の体質は多分にフイーブルでありすぎる。たとへば、老は酒にも弱い、たばこにも弱い。食も細い。激しい香、響、色、その他に対してもすぐに窒息されてしまはれるやうな趣きが見える。 もつとも老ばかりではなく、僕たちの近しい人物で言へば、広津なぞにしても酒を飲まない。酒を飲まないのが真の生活者の生活秘訣かも知れないけれども、老の場合は、あれで五合もいけたらさぞうれしい晩もあるだらうと思はれるのだ。 そこで老は、随分昔から、趣味として、東洋的詩美に游ぶを好まれ、他面では例の政治好きといふやうな方へ逃げてをられる。隠逸美と政治とは大分かけはなれたものであるが、そこを共に並べ楽しまうとされるところに、老の志士風な心意気があるのであらう――しかし、それでは元田肇やなにかの風流と似すぎてゐるやうにも感じられるが……だから、僕としては、むしろ、ぐいぐいと詩美への耽溺に身を陥らせるやうに願ひたいのだ。老の政治論もいいが、たとへば木瓜の鉢植に想ひを寄せた感想文の方がぐつと上品でほんもののやうな気がします。どんなものでせう? 老よ。 三上於莵吉﹁情痴の勇者﹂ 大正13年10月 秋江君は何時だか読売の日曜付録に、﹁揚子江の流域に就て﹂と云つたやうな論文を書いたやうに、政治の方面にもかなり興味を持つてゐる。以前は憲政会贔屓だつたが、近頃ではすつかり変節して政友会贔屓になり、原には大分推服してゐるやうである。この春の総選挙の前に、九州に往つた帰りに京都に侘住居をしてゐるところに訪ねて往つて、談偶々選挙のことに及ぶと秋江君はしきりに憲政会の煽動的策戦を難じた揚句、 ﹁国の兄貴のところへも政友会の人に投票しろと云つてやつたですよ。﹂と云ひながら兄さんからの返事の葉書を取出して私に見せたりした。 議会の記事などはひどく注意して読んでゐると見えて、﹁何月の何日に犬養がこんな演説をした﹂とか﹁何月の何日に弾劾案が可決された﹂とか云ふことを、実に不思議な程よく記憶してゐる。それだから同君とこんな方面の話をしてゐると、引證該博、博覧強記で、痴遊の講談でも聴いてゐるやうで仲々面白い。 吉井勇﹁秋江先生三道楽のこと﹂ 大正9年12月
明治40年5月 大正12年12月 昭和9年
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