北条民雄 ︻ほうじょう・たみお︼ 小説家。大正3年9月22日〜昭和12年12月5日。陸軍経理下士官だった父の任地京城︵ソウル︶に生まれる。大正4年、母が26歳で病死し、父に伴われて徳島県那賀郡の母の生家に帰る。10代後半の頃、小林多喜二の﹁不在地主﹂を読み、左翼文学思想の影響を受ける。昭和7年、友人らと同人雑誌﹁黒潮﹂を創刊、短編小説を書く。同年秋、遠縁の娘と結婚したが、翌8年春、ハンセン病を発病したため破婚、幾度か自殺を図る。昭和9年5月、東京府下東村山の全生病院に入院。同年8月、川端康成にはじめて手紙を書き、作品を見て貰う承諾を得る。川端の推挙により、﹁間木老人﹂︵昭和10︶、﹁いのちの初夜﹂︵昭和11︶などを発表。ハンセン病患者らの生活を描いたそれらの作品は、文壇に異常な衝撃を与える。その後も小説やエッセイを発表し続けるが、昭和12年12月5日、慢性神経症と腸結核により死去。享年23歳。代表作は﹁いのちの初夜﹂など。 ︹リンク︺ 北条民雄@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 北条民雄@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説・小品・童話 ‥ 発表年順 未定稿・覚え書 ‥ 50音順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 単行本 ‥ 発表年順 回想録 私は北条氏に一度だけ会つたことがある。それは或る雪の日だつた。その頃はいつも銀座で飲む時には、宵の口に資生堂でたむろしてコーヒーを飲んで時間を潰したもので、又さうしてゐると仲間に落ち合へる可能性もあつた。つまりそこは仲間のたまりでもあつた訳だ。︵中略︶その時、﹁文学界﹂を長く編輯してゐた式場俊三君が、一人の和服の着流しの青年を連れてはいつて来た。風態からいつても、式場君が連れだといふことからいつても、作家志望の青年らしいことは推察出来た。二人は我々に気づかずに別の席へ坐つたが、青年は中折を眼深に被つたままそれを脱がなかつた。︵中略︶ やがて式場君は我々に気がついてさし招いた。そして同席すると、この人が北条民雄だと紹介した。瞬間ハッとしたが、式場といふ人は何でも呑み込んでゐる人だから、その当り前の顔色を見て、こちらも何でもないんだなと思ひ、普通の文学者同士の初対面のつき合ひに返つた。 その時の話題は全然今記憶にない。といふことは、ごく平凡な応答をしただけだつたのであらう。では人物の印象はといふと、例へば生前二三度会つただけの嘉村磯多氏よりむしろ陰鬱でなく、不屈と謙遜が程よく入り混り、自分の立場を割り切つたものがあるやうに見えた。尤も今になつてのこんな印象は、氏の作品から来るものと適当につきまぜた後天的なものに違ひないのだけど。 河上徹太郎﹁北条民雄のこと﹂ 昭和31年5月 例へば、北条君などは本当の癩者の苦しみを嘗めてをらぬとも言へるとの所員の話であつた。これまでの癩者は、家族に棄てられ、世間に厭がられ、浮浪を続けるうちに、癩院へ連れて来られるのが普通であつた。北条君などは軽症の時に、療養所へ来たのだから、癩者だと知つてゐたのは肉親だけで、世間の人は見ても分らない。癩者として忌み虐げられながら、世間を歩くことはなかつたわけである。早く療養所へ入つたのは、知識人だつたからといふ点もあつたらう。世間の苦労はなかつたかはりに、自分の精神の苦悩は一倍烈しかつたのである。 現在、知識人は癩療養所の患者には甚だ少く、いはば異端者である。文学をやるやうな人は無論である。 療養所から見れば、北条君のやうなのは困つた人であつたにちがひない。例へば、十時に消灯後も北条君だけが蝋燭で徹夜してゐるといふやうな、一事が万事で、共同生活を破る者である。北条君が図書室に傭へてくれと言ふ本などは、殆ど外に読む人がない。悉くの患者がそれぞれの性能によつて働く作業にも、北条君は従はない。文学を書いてゐると、解し得る者は稀である。水に浮いた一滴の油だ。出来るだけ公平であらねばならぬ所内では、始末の悪い存在だ。一般の患者から白眼視される。北条君は作家として、癩者に深い同情を抱いてゐようとも、日常の接触では、周囲を愚劣だと侮蔑せずにはゐられない。従つて、社会と隔絶した癩療養所にあつて、更にまた孤立して生きてゐたわけである。 川端康成﹁北条民雄と癩文学﹂ 昭和13年3月 私は北条君に一度しか会つてゐない。﹁いのちの初夜﹂で文学界賞を受けて間もなく、東京へ出て来た時に、﹁文学界﹂編輯の伊藤君の案内で鎌倉へ来てくれた。伝染の危険がないといふ期間だつたけれども、遠慮して家へは来ず、駅の近くでしばらく話した。大雪の翌日だつた。北条君が帰る時には、林房雄君が鎌倉駅まで見送りに来てくれた。前の晩には、大雪の銀座で、横光利一君などと偶然会つたさうだ。北条君が文学者の面識を得たのは、これくらゐのものだらう。この時は、編輯の伊藤君と式場君とが、親切に世話をした。北条君は手紙を出すことも遠慮した。さういふ交友のあつたのは、中村光夫君くらゐのものだつたらしい。阿部知二君とも少し文通があつたかと思ふ。 この夏の初め、郷里へ帰る途中、東京にも数日ゐたらしいが、会はなかつた。面と向つては、尚更慰めの言葉も出にくいのだつた。北条君の告別に療養所へ行つたとき、友人諸君に面会して、臨終の模様など聞いたけれども、私からはやはりなんとも言ひやうがなかつた。ああいふところで、文学に精進する仲間の友情には、格別なものがあらうと思つた。 川端康成、同上 ﹁文学界﹂︵昭和十一年二月号︶に、一つ異様な小説が載つてゐる。北条民雄氏の﹁いのちの初夜﹂だ。作者は癩病院で生活してゐる癩患者である。この雑誌に以前同じ作家の作品﹁間木老人﹂が発表された時、その号の編輯後記に、作者は癩病患者であるといふ文句があるのを見咎めて、ある人が、実に失敬だと憤慨してゐたが、さういふ人も、この第二作を読めば、僕等は、お互に、実に失敬だなぞと憤慨する結構な社会に生きてゐる事を納得するだらう。︵中略︶ 作者は入院当時の自殺未遂や悪夢や驚愕や絶望を叙し、悪臭を発して腐敗してゐる幾多の肉魂に、いのちそのものの形を感得するといふ、異様に単純な物語を語つてゐる。かういふ単純さを前にして、僕は言ふところを知らない。 読者さへ増えれば、創作のモチフなどは、どうであらうが構はない文士から、﹁小説の書けぬ小説家﹂といふ小説を書かざるを得ない文士に至るまで、何も彼もひつくるめて押流す濁流の様な文壇から、かういふ肉体の一動作の様な、張りのある肉声の様な単純さを持つた作品を、すくひ上げて眺めると、何かしら童話染みた感じがする。癩病院の風景が、恐らくは如実に描き出されてゐながら、そんなものを知らない僕には何か幻想的な感じを与へるのと一般であらう。自意識上の複雑な苦痛の表現も、この作者から見れば、何んの事はないいのちを弄ぶ才能と映ずるかも知れない。 いづれにせよ稀有な作品だ。作品といふより寧ろ文学そのものの姿を見た。或る人目く、俺に癩病になれとでも言ふのかい。 小林秀雄﹁作家の顔﹂ 昭和11年1月 病気によいといふ事はたいていやつてみてゐたらしいが、たいして効果は無かつたやうだつた。時には変つた療法を教へたりする人があると、真向から、そんなものは糞にもならん、あれがいいこれがいいと云ふものは凡てやつてみたが、却つておれは悪くした。結局、病人は医者にいのちを委せるより他ないんだ、と喰つて掛る事もあつた。 死ぬ二三日前には、心もずつと平静になり私などの測り知れない高遠な世界に遊んでゐるやうに思はれた。おれは死など恐れはしない。もう準備は出来た。只おれが書かなければならないものを残す事で心残りだ。だがそれも愚痴かも知れん、と云つたのもその頃である。底光りのする眼をじつと何者かに集中させ、げつそり落ちこんだ頬に小暗い影を宿して静かに仰臥してゐる彼の姿は、何かいたいたしいものと、或る不思議な澄んだ力を私に感じさせた。私は時折り彼の顔を覗き込むやうにして、いま何考へてゐる? と訊ねると何も考へてゐない、と答へる。何か読んでやらうかと訊くと、いや何も聞きたくない、と云ふ。静かな気持を壊されたくないのであらう。 東条耿一﹁臨終記﹂ 昭和13年2月 彼の息の絶える一瞬まで、哀れな程、実に意識がはつきりしてゐた。一瞬の後死ぬとは思へないほどしつかりしてゐて、川端さんにはお世話になりつぱなしで誠に申訳ない、と云ひ、私には色々済まなかつた、有難う、と何度も礼を云ふので、私が何だそんな事、それより早く元気になれよ、といふと、うん、元気になりたい、と答へ、葛が喰ひたい、といふのであつた。白頭土を入れて葛をかいてやるとそれをうまさうに喰べ、私にも喰へ、と薦めるので、私も一緒になつて喰べた。思へばそれが彼との最後の会食であつた。珍らしく葛をきれいに喰つてしまふと、彼の意識は、急にまるで煙のやうに消え失せて行つた。 かうして彼が何の苦しみもなく、安らかに息を引き取つたのは、夜もほのぼのと明けかかつた午前五時三十五分であつた。もはや動かない瞼を静かに閉ぢ、最後の訣別を済ますと、急に突刺すやうな寒気が身に沁みた。彼の死顔は実に美しかつた。彼の冷たくなつた死顔を凝視めて、私は何か知らほつとしたものを感じた。その房々とした頭髪を撫で乍ら、小さく北条北条と呟くと、清浄なものが胸元をぐつと突上げ、眼頭が次第に曇つて来た。 東条耿一、同上 始めて会つた時から彼の眼は僕の中に強く灼きついてゐる。小刀ででも抉つた様に細く小さなそしてどこか三角な眼、それは笑ふと殆ど無くなつてしまひさうになりながら、その奥にキラと光る何かがある。始めての人ならまともに合せてゐられない眼だ。それは苦しんでゐる眼、絶えず相手の心理の裸形を感じ、それに傷つき続けてゐる眼だ。又何かにしつかと凭りかかり絶えざる憂鬱から逃れようとする無限の飢渇をひそめた眼だ。だが又、感傷もなく卑屈もない、残忍なほど冷たい眼でもある。女の人など﹁北条さんに見られると何だかこはいわ。﹂と言つたりした。 もともと彼は嫌人的な孤独な人間でなく、反対に寧ろ快活な行動的な男だつたらうと思ふ。子供の頃は村中の餓鬼大将で、何時も年上の子とばかり喧嘩をし、一度も負けなかつたと彼自身で威張つてゐた事があつた。彼には感傷的な詩歌の愛好時代は一度もなかつたといふ。又上京してからも働いてゐる小工場の争議をリードしたり、親友と無鉄砲な放浪生活を愉しんだり、等々の事から見ても、彼の本来の性情は明るい、人なつこい、或る意味で楽天的なものではなかつたかと思ふ。そんな北条を今あるものにしたのは、勿論一つは癩発病のせゐでもあるが、又彼自身も云つたやうに肉親的愛情を知ること尠く生ひ立つた故でもあらう。北条の入院前の経歴について語る事は、遠慮しなければならないのだが、唯君が十八歳で癩に発病する以前に既にもう人生に対してどんなイリュージョンも失つた、氷のやうな虚無を知つてゐたと云へば足りるだらう。 光岡良二﹁北条民雄の人と作品﹂ 昭和13年6月 ﹁先づドストエフスキイ、トルストイ、ゲエテなど読み、文壇小説は読まぬこと。﹂とは初めの頃彼が川端先生から言はれた言葉だつたが、トルストイの厳正なリアリズムに頭を垂れ、ドストエフスキイには狂熱的な傾倒を示した。がゲエテには遂に近づかなかつた。最後の二年彼の座右の書は、常にフロオベルとドストエフスキイの書簡集だつた。日々の恐ろしい単調と孤独に圧倒されながらも、彼はよく昂然として言つた。 ﹁だがいゝ。この小つぽけな書斎、二人のロシア人と一人のフランス人――これだけでいゝ。あと何がいるものか。﹂と。︵中略︶ ﹁俺は之から、二年、二年でいゝから社会へ出て暮したい。此処で獲得した今の此の眼で、もう一度生きた社会の現実の中に身を置きたいのだ。そしたら俺は間違ひなく、まだ誰も書かなかつたすばらしいものを書くんだがなあ。﹂ それは北条の痛々しい豪語だつた。ああ此の豪語をどんなに生かしてやりたかつたらう。だがたうとう彼は逝つた、こんなにも早く。 光岡良二、同上
■トップにもどる