岸田国士 ︻きしだ・くにお︼ 劇作家、小説家、評論家、翻訳家。明治23年11月2日〜昭和29年3月5日。東京四谷に生まれる。砲兵大尉の父の意向によって士官学校に入り、明治45年、久留米四八部隊に配属されるも、学生時代からの文学志望やみがたく在任三年で退職。大正6年、東大仏文選科に入り、フランスの古典、近代劇を学ぶ。大正8年、仏領インドシナを経てパリに渡り、11年に帰国するまで劇壇に出入りして実地を学ぶ。大正13年に﹁チロルの秋﹂を、翌年に﹁ぶらんこ﹂、﹁紙風船﹂を発表。その明るくみずみずしい戯曲は、それまで北欧やロシアの暗い外国近代劇になれていた劇界に一石を投じた。その後も旺盛な創作活動を続けるも、満州事変あたりから政治色を強め、昭和15年、軍部統制下の大政翼賛会文化部長に就任。このために戦後は公職追放にあったが、創作意欲は衰えず、多くのコントやエッセイを発表した。昭和29年3月5日、脳出血により死去。享年63歳。代表作は﹁牛山ホテル﹂、﹁沢氏の二人娘﹂、﹁歳月﹂、﹁双面神﹂、﹁ルナアル日記﹂︵翻訳︶など。 ︹リンク︺ 岸田国士@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 岸田国士@文学者掃苔録図書館 著作目録 戯曲 ‥ 発表年順 小説 ‥ 発表年順 翻訳 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 とにかく、ハデな男だつた。ハデといふのは、人物性行にも、多少それがあつたが、それよりも、彼の運命をいふのである。彼はハデなる星の下に生れた。 彼のデビュのハナヤカさ。 あれが小説家だつたら、必ず、文壇的闇討ちを食つたにちがひないと、思はれるほどのものだつた。三島由紀夫君いかにハデなりといへども、岸田国士出現当時と、比べられない。 ﹁古い玩具﹂﹁チロルの秋﹂では、まだ、それほどではなかつたが、﹁紙風船﹂で、万人が瞠目した。 ﹁紙風船﹂といふものは、扇の的であつた。那須の与市の話。なぜ、そんな古いことを、持ち出すかといふと、扇を射た時に、敵の源氏の兵隊も、フナバタを叩いたといふ伝説がある。 ﹁演劇新潮﹂派と、築地小劇場派の戦ひも、源平に似てゐたが、大正期も近代であるから、敵方を賞讃するといつても、フナバタなぞは叩かない。反対に、悪口の形式をとる。やれ、軽薄だの、才気の遊びだのと、ムキになつて、雑言を飛ばしたが、実は、あの作品に参つてゐたのである。築地派の水木京太なぞも、﹁あれだけには、感心するよ﹂と、私に洩らしたことがある。 筆の序で、喩へが歴史的になるが、あの当時の岸田君は、赤いヨロイを着て、白い馬に跨つて、無人の野を馳け出した若武者だつた。今後は、戯曲の分野でも、あれほどハデなデビュは、再び見られないのではないか。 岩田豊雄﹁断片﹂ 昭和29年5月 とにかく、よく引越しをした男で、以上の外に、洩れがあるかも知れない。 ﹁暫らくすると、イヤになつてくるんだよ。急に越したくなるんだよ。僕は、本来、ボヘムなんだね﹂ 彼は、ほんとに、困つたことのやうに、さう語つた。 確かに、さういふところがあつた。 移転癖ばかりではない。築地座を解散させたことも、新劇研究所をこしらへたことも、新劇合同を企らんだことも、明治文芸科を引き受けたことも、翼賛会へ入つたことも、雲の会をやり始めたことも――よく考へてみると、一つの魂の根から出たことのやうに、思へてならない。 文学座だけは、二十年近く続いてるが、それは、彼一人で創めたのではないからである。一人で創めたのなら、今頃、とつくに、ツブしてゐるだらう。 彼自身のいふボヘムといふことは、別言すれば、理想家といふに当る。 理想家だから、ぢきに引つ越しがしたくなるのである。︵中略︶ あんなに、飽きツぽくで、よく、一生、シバイを捨てなかつたと思ふ。いや、一時は、だいぶ飽きたらしい時もあつたが、結局、戻つてくるところを見ると、やつぱり、シバイは好きだつたのだらう。あゝいふ死方をしたから、永遠に、シバイと縁切りはできなくなつた。しかし、彼が百まで生きて、壮志なほ衰へるところがなけれは、シバイなぞ蹴飛ばして、もつと高い塔へ登らうとしたかもわからない。 岩田豊雄﹁移転癖﹂ 昭和29年5月 私は小さい時、父の匂をコーヒーと煙草の煙の交つた匂だと思つていました。父が病後煙草をやめてしまつたことは、父の匂まで変えてしまつた様な気がします。 最近は新しい家に住む様になつて暖炉も今度は充分に研究して、具合よく燃えるようなのを作りました。そして緬羊や家鴨、羊、鶏の世話をしたり家の周りに果物の木を植えたり、つるばらの手入れがとても楽しみの様でしたが、夏とりたてのとうもろこしをゆでて東京から来た人に出して、その人が満足げな表情をすると父も安心した顔をして﹁何しろとうもろこしというのは何処のがうまいとか何とかいうんじやないんだ、とり立てですよ。先ずとつて一時間以内だナうまいのは‥‥。﹂と云いました。明方頃から近くの池に釣にでかけることもありました。父が釣をしていると或日通りすがりの人が﹁この辺で鯉釣の名人が居るそうじやありませんか﹂と云つたそうです。そして父は家に帰つてから﹁その男は俺が当の名人とはしらないで聞いてるんだ﹂と愉快そうに話していました。 岸田衿子﹁山の想出﹂ 昭和29年5月 はじめに、わたくしは、“どん底”の舞台稽古中、突然、発病し‥‥と申しましたが、たゞしくは、これは、嘗ての病気が再発し‥‥といふべきだつたので、昭和二十七年の三月、すでに一度、脳神経麻痺に犯されて、岸田君は、東大病院に入つてゐるのであります。しかし、静養の結果、案外早く健康がとりもどせ、これならまた仕事ができるといふ自身がでゝ来たについては、とりあへず演出の仕事をしてみよう、それにはかねての希望の“どん底”をやつてみようといふ気になつたのであります。でありますから、今度の仕事は、自分の仕事を試みるためのいはゞセブミだつたので、しかしこの、純粋な、ヒタムキな精神をもつてゐる岸田君にとつて、そのセブミの度を越すことは、きはめてたやすいことだつたのであります。‥‥そこに、わたくしは、芸術家の運命にしかけられた一つの哀しい落し穴をみいださゞるをえないのであります。 それにしても、最後の仕上げの舞台稽古中に倒れ、劇場の観客席から、大ぜいの扮装した俳優たちによつて、病院へ行く自動車まで運ばれたといふことは、演出者としたら、これほど本望なことはないと思ふのであります。‥‥と、せめてさうとでもいはないことには、われ〳〵の哀しみは、いま、外に軽減されるみちはないのであります。 久保田万太郎﹁戯曲作家岸田国士﹂ 昭和29年5月 私は岸田さんの最初の新聞小説﹁由利旗江﹂を共同脚色して、演出は私が引受けた。この時も初日の夜に一晩中日本の俳優と劇場の組織の欠点を挙げて批評をしていた。 私はよくも斯う次から次と欠点が指摘できるものだと感心したが、新劇を含めて、既成の演劇に満足していなかつた。凡そ出来上つたものに感心しない人だつた。 後に明治大学の文芸科の科長になつた時、演劇科を設けたが、ここで歌舞伎を講義したり、歌舞伎の見学をすら認めようとしなかつた。学生の要望で、講座だけは設けたが岸田さんの本意ではなかつた。新劇の発達に歌舞伎は害になると堅く信じていた。 と同時に日本の所謂お役者の生活や習慣を唾棄していた。これは演劇のことだが、他の文壇にしろ、生活上のことにせよ、個人ではなく、文士の気風とか、共通の習慣ということには常に鋭い批判を下して、自分はその中に染まろうという気はなかつた。 斯ういう岸田さんの独自な批判は自分を孤独に追い込み勝で、演劇という集団的な活動には不向きであり、矛盾がありそうに思われる。事実岸田さんは矛盾を気にしながら、いつでも矛盾を孕みそうなことに興味を覚えていた。 今日出海﹁モラリスト岸田国士﹂ 昭和29年5月 君についての憶い出の中で、われわれの痛恨をよぶものは、君が、われわれの懇望を容れ、衆望に押されて、戦時態勢の斜面をひた走る国勢の喰いとめ役として、あの大政翼賛会の文化部長に就かれ、就かしめたことであります。心ある者は、君の就任によつて、新しい段階の展開を期待し、何かホッとして、あの不安の中に、青空をのぞんだ気持ちでありました。当時の言葉を以つてすれば、余人を以つて代えがたしと、われわれの見た、君の知性と力量をもつてしても、その結果が如何ともなし得なかつたのは、われわれのキモに銘じているところであります。更めて、当時の御苦労を、深謝させて頂きたいと思います。 ところが、更に最悪なる事態は、君がこの位置にあつたという現実だけを掴え、その底に潜んでいた真意を問うところなく、戦争終末とともに、長年月に亙つて、追放に追い込んだのであります。然も、その理由とは無関係に、この場合、君の文筆活動を禁じたばかりでなく、君の旧作の舞台上演も映画化をも禁じたのでありました。そして、終に、君をして、山に籠り、椎茸をつくり、湖水で魚を獲つて一生を送る決意さえ固めさせたのでありました。君の表現は、この場合にも、これも亦人生だと洩らされたのではありましたが、この時期の苦悩は、まことに、推察するに余りあるものがあります。 菅原卓﹁弔辞﹂ 昭和29年5月 初めの一年間、岸田君は比較的よく学校に出て来た。午前は平たいテーブルを囲んで、エック先生の講義を聴いて、午後は青木堂で珈琲を飲んだり、神田川の米河岸の私の家まで歩いて来て文学を論じたり、……その頃純真だつた私に、玉突きといふ道楽を教へてくれたのも彼だつた。今の筑摩書房横町の玉屋に初めて連れ込まれて手ほどきを受けてから、三十位突けるやうになるまで、随分一緒に遊んだ。岸田君の玉はその頃八十か百で、一番うまくなつた時代は百七八十だつたらうか。 二年目の中頃から、あまり学校に来なくなつて、フランス行の準備の金を溜め始めた。仕事は白水杜の仏和大辞典の下受けで、編纂者として名前を掲げてはゐないが、原稿の大部分は岸田君の手に成つた。原稿料は月々の仕事の半分だけ貰つて生活し、残の半分は白水杜の社長の仏文出の福岡君が押へて旅費に積立てた。︵中略︶ フランスから帰つて間もなく、﹃葡萄畑の葡萄作り﹄を翻訳したが、原書は私の所蔵本を用ひた。難しい文章のところに、鉛筆で×印が四五箇所つけられてゐる外、少しも汚れてゐない。色の褪せたインキの字の仮名は、私の字である。﹃葡萄畑﹄ほどの稀有な名訳を、短時日で仕上げた岸田君の力量には、私はたゞ感服するばかりであつた。 鈴木信太郎﹁初めの頃の思ひ出﹂ 昭和29年5月 リオンで五ヶ月暮してから、僕は巴里に移つた。巴里での僕の仕事は、芝居を見たり、絵を見たり、音楽を聴いたり、その余暇に書物を買ふことだつた。特に観劇は毎夜のことだつた。或晩、惨虐な劇ばかり演るグラン・ギニョール座の客席に腰をおろすと、隣の席に岸田君がゐるではないか。お互に快笑して手を握つた。 ﹃暫らくだね。それにしても世界は狭いものだ。昨日、東大の研究室で膝を突き合せて、エック先生の講義を聴いたのに、今、巴里で会ふなんて妙な気持になるね﹄と話し合つた。見ると、岸田君は三十がらみの外国婦人――醜くも、美しくもない。人の好ささうな女――と一緒だつた。後で判つたが、岸田君は巴里滞在中は、その女性と同棲してゐたらしい。由来、岸田君は肉欲には寧ろ恬淡だつたが、身のまわりの世話をする女がなくてはならぬ淋しがりやだつたから、さうした世話女房風な女をたまたま見出して、生活のおちつきを得たのだらう。後に帰朝して、美しい細君を得たが、それは、麗人にして世話女房を兼ねた、岸田君にとつては蓋し理想の夫人であつた。︵中略︶ 巴里では、岸田君と会ふのは、殆ど劇場内であつた。特にヴィユー・コロンビエ座の客席や廊下だつた。岸田君は単なる観客ではなく、同座の座主でも、演出家でも、俳優でもあつたジャック・コポーに就いて、彼を師と思つて、演劇を客席から眺めずに、舞台裏から、アトリエから真剣に研究してゐた。コポーの方でも、岸田君の明敏な頭脳と溌剌たる感性を高く買つて、薀蓄を傾けて岸田君を指導したのである。 辰野隆﹁巴里に在りし日の岸田国士﹂ 昭和29年5月 岸田国士君は、最も中庸を得てる知識人だつた。嘗て、太平洋戦争中、大政翼賛会の文化部長に就任した際、吾々文学者はこぞつて同君を声援した。その明徹な理智を以て、軍部の横暴に対する一つの防波堤となるべきを期待したのである。ところが、辞任間際に同君は言つた。 ﹁どうも、言葉が通じない感じがする。﹂ つまり、政治家や軍人の中にはいると、吾々日常の言葉がその語感通りに通用しないといふ謂なのである。凡そさうであらうかと私も思つてはゐたが、現実にさうだとなると、これは大変なことだと考へられるのである。――現在でもたいてい同じことだらう。 ところで、この言葉の問題だが、岸田君がフランス留学から帰つて来て、新鮮流麗な会話の戯曲を発表した時、多くの者は冬のさなかに春風を呼吸する思ひをした。戯曲の構想はドギツイ葛藤を捨てて、日常生活的な柔軟さに即しながら、その会話の運行や言葉遣ひが、現状よりも一歩先行してゐたのである。所作と共に言葉を生命とする演劇に於いて、これはまさに一つの明るい窓だつたのである。ルナールの﹃博物誌﹄に見らるゝ如き名訳は、岸田君の言語感覚の鋭敏さを語るものであらう。創作小説に於いても同様のことが言へる。 ﹁僕はものを書く時もさうだが、なにか饒舌る時も、言ひ方をたいへん気にするやうになつた。﹂ これは岸田君が還暦の祝ひの挨拶の後に、ふと私にもらした言葉である。 豊島与志雄﹁岸田国士君を偲ぶ﹂ 昭和29年4月 仏文科には、ヤンチャものが多かつた。良家の子弟のやうなヤンチャもあつたし、苦労を重ねた人物も、大てい軌道はずれであつた。ヤンチャは軽薄に通じ、軽はずみに通じる。わたくしも、時々、さういう自分にウンザリすることがあつた。その中で、岸田さんは、少しちがつていた。いつも微笑して、腹を立てている時でさえ、笑顔をくずさず、しかも、いいたいことははつきりという。そして、おそろしくねばり強いのである。岸田さんに対して、なにか冷たいところがあつて近づきにくいと評する人がいたが、わたくしは、逆に、一種ストイックなその態度が好きだつた。 中島健蔵﹁岸田国士の生涯――その一断面――﹂ 昭和29年5月 だんだん社会が暗くなつて、文学の自由が圧迫され、一々情報局や軍の報道部の干渉をうけるようになつたある夜のこと、当時の﹁省線﹂の中で、偶然岸田さんにぶつかつたことがある。岸田さんの家は、杉並区の松庵南町というところにあり、わたくしは淀橋に住んでいた。だから、中央線の東京駅から新宿までの間だと思うが、その時、岸田さんは珍らしく酒気をおびていた。かなり酔つていたといつてもよい。どういうわけかわからずに、妙なこともあるものだと思つて、その時はそのまま別れたが、あとで聞くと、岸田さんは、その日、﹃双面神﹄の内容について、海軍の報道部から、ひどい小言をくつたということがわかつた。軍人の恋愛を書くとは何事か、という例のガムシャラな横柄づくで、下つ端の下士官か何かにどなられて、さすがの岸田さんも、酒をあふつたのであろうと想像するほかない。 中島健蔵、同上 ﹃どん底﹄の演出をお引き受け下すつて、稽古に入つて我々は驚いた。予想を裏切つての先生の御熱心さに、むしろ我々が押され気味だつた。 もちろん、先生の御健康を心配して、 ﹁もつとお休み下さい﹂ と申上げたが、四十日近い稽古に、休まれたのは二、三日だつた。 私が過労で倒れたのを、先生は大変御心配下さつて、亡くなられる日まで、毎日、慰労して下さつたのに、それが急に逆になつてしまつたとは、私として申上げる言葉もない。 午後二時に倒れられて、左半身がすぐ利かなくなられ、ロレツも怪しいながら、かなり喋られたが、語られることは、みな﹃どん底﹄のことばかり。 ﹁何でもないさ、死ぬ前にはこうなるもんさ﹂ と突然口走しられ、我々をハッとさせて、 ﹁これはルカのせりふだよ﹂ とニヤリとされた。たしかにそうなのである。 私の顔をみて、 ﹁おお、ムッシユ・バロン﹂ と声をかけられ、ゾーブ︵人足︶役の小池朝雄が一寸先生の手を執つたら、 ﹁誰だね﹂ と言われたので、小池は、 ﹁ゾーブです﹂ と答えた。すると先生は、 ﹁ゾーブ、歌えよ﹂ と即座に帽子屋のせりふをおつしやつた。私は小池と顔を見合せたが、お慰めするべく、あの有名な﹁夜でも昼でも……﹂の歌を歌おうにも、とても我々の気持ちは、ほど遠いものだつた。 中村伸郎﹁ゾーブ、歌えよ﹂ 昭和29年4月 先生は、政治に積極的な関心をもつことを、文学者としで必ずしも褒むべきことと思つてゐられなかつたやうであるが、満州事変以後の日本のファッショ化については、真剣に心配され、二・二六事件の直後には、軍部の逸脱を警告するため、軍務局にゐる嘗ての同期生にわざわざ話しに行かれた。しかし、勿論、当時の軍部が一文学者の言葉に耳を借す筈がなく、先生は空しく帰つて来られた。奥様は万一の場合など心配してゐられたらしく、急いで玄関に出迎へて、﹁どうでしたの﹂と訊ねられた。﹁いや全然だめだつたよ。話にならん。兵隊の考へ方つていふものをすつかり忘れちまつてたんだな。軍と国民との間隙なんていふものはない、そんなことは軍民離間を策する者の妄言だといふんだ﹂と、先生は長大息された。﹃双面神﹄は、この苦い発見から、逆に、軍人の特殊な気質といふものを解明し、政治家と一般人に、軍人の説得法を教へようとした、沈痛な努力であつた。 宮崎嶺雄﹁追憶﹂ 昭和29年5月 先生は決して気永な性分の方ではなかつたに違ひないけれども、辛抱のよさと我慢強さは、少し妙ないひ方をすると、それが先生の趣味の一つのやうにさへも見えました。またしても私の言葉は疎忽で申わけがありません。それほど先生にはその際奇妙に明るい持ち方で持つてゐられたその自信と、自信の手前、むろん内部に痛々しいひそかな格闘があつたにしても、それをも加へたそんな場合に不似合なある気軽な張合ひのいい感じのものがありました。鋭い視力でいつも遠くを見てゐる人の、人なみ越えた奥ゆきの想像力が、先生をそんな風に私どもの前に見せたといつてもいいでせうか。 ――とても僕でないと辛抱はできないから‥‥ とあの時も仰しやいました。大政翼賛会の文化部長に就かれた時には、私どもにとつていくらかそれは意外でなくはありませんでしたが、 ――さて、こんな仕事を誰れにやつてもらふのも気の毒だから、引受けました。 といはれたのを忘れません。それからまた、 ――こんな役目が勤まるのは、我々にとつて、ちつとも自慢ぢやないね、三好君。 といはれたのをさすがに健忘症の私も決して忘れることができません。さうしてさういはれた時の先生の微笑には、ただ今この式場のうづだかい紅白の草花の中に見る先生の微笑よりも、はるかに苦がいものがありました。 三好達治﹁弔辞﹂ 昭和29年5月 北原白秋の﹁邪宗門﹂は懐ろに入れて歩いたものだよ、と珍らしく昔話をきかされたのもその頃のことであつた。﹁邪宗門﹂は明治四十二年の上梓、だからそれは、むろん先生が渡仏される遥か以前、もしかすると連隊旗手の青年士官時代であらうか。﹁人がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買ひきて妻と親む﹂この啄木の歌を先生の口から聞いたのもたしかその同じ日のことであつた。︵この種の話柄はその後繰りかへされた記憶がない。私どもはたいていいつも世間話に終止したから。︶ところで啄木の歌は、当節歌壇の方では、とんと相場が落ちて軽蔑され気味なんですよと、それもまた世間話の一つを私が説明すると、先生はただへえ‥‥といはれたきり、珍らしく口を緘して沈黙してしまはれた。余ほど意外の面持であつたから、私も手持無沙汰であつた。 ――井伏君の小説、あのつつましさ、控へめな点がいいね。 これもずゐぶん以前の言葉。その後は再び承らなかつた。梶井基次郎君のなくなつた時には、 ――文学者は、何も永生きするばかりが能ぢやないさ、立派な生涯だ‥‥ ときつぱりいはれた。 三好達治﹁思出すこと三四﹂ 昭和29年5月 私が岸田さんに急に接近したのは、しかし、昭和三年ごろ、春陽堂の﹁現代戯曲全集﹂の校訂という仕ごとをやつたあとのように思う。私は﹁編集部﹂という名まえで解説を書く必要から、岸田さんの戯曲をまとめて読んだ。そして、気のきいた、軽快な会話からできあがつている岸田さんのハイカラな戯曲のうしろに、人生を見る透徹した作者の目が冷く光つていることを発見した。その目を、私は恐ろしいもののように感じた。 そのすぐあとで、どういうまわり合せだつたか、私は岸田さんをお宅に訪問した。松庵南町の新築移転する前のお住いであつたと思う。秋子夫人と結婚して間のないころで、私は、新夫人のおもてなしで、酒のちそうにあずかつた。そして、主人公がたしなまないことなど無視して、遠慮なしに、ちようだいするうちに、大分酔いがまわつて、岸田国士の戯曲について論じだした。あげくの果てには、新夫人のいる前で、﹁君は冷い男だ﹂ときめつけた。私はまだ若くもあつたし、酒の酔いも手伝つて、﹁ぼくは、君のように冷い男とは、友人として、安心して、つき合わない﹂というような、失礼なことまで言つたような気がする。だが、岸田さんは、にやにや笑つているだけだつた。そして、たつた一言、﹁そんなに冷い男でもないつもりだがな﹂というようなことを、つぶやいただけであつた。 吉田甲子太郎﹁岸田さんのこと﹂ 昭和29年5月
大正10年 昭和15年12月 昭和28年8月
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