水上滝太郎 ︻みなかみ・たきたろう︼ 小説家、評論家、劇作家。本名、阿部章蔵。明治20年12月6日〜昭和15年3月23日。東京市麻布区飯倉町三丁目十五番地に生まれる。父、泰蔵は明治生命保険会社の創立者。慶応の学生時代に泉鏡花、永井荷風に心酔。﹁水上滝太郎﹂の筆名は鏡花の作中人物から採ったもの。明治44年、処女作﹁山の手の子﹂を発表。三田派の新進作家として文壇の注目を浴びる。大正5年12月、明治生命保険会社に入社、以後死没するまで実業家と作家との両立を続ける。大正7年1月の﹁新聞記者を憎むの記﹂以降、批評、感想、随筆などのすべてに﹁貝殻追放﹂の名を冠し、健全な市民精神による文明批評を展開した。創作の方も初期の叙情性の濃い作風から、写実的で文明批評的要素の濃い作風へ変化していく。明治生命専務取締役に就任した直後の昭和15年3月23日、脳溢血により死去。享年52歳。代表作は﹁山の手の子﹂、﹁大阪﹂、﹁大阪の宿﹂、﹁貝殻追放﹂など。 ︹リンク︺ 水上滝太郎@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄︵未編集︶ 水上滝太郎@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説・戯曲 ‥ 発表年順 貝殻追放︵エッセイ︶ ‥ 発表年順 出張日記︵エッセイ︶ ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 恐らく彼は、自ら好んで世話好きになつたのではないだらうが、厄介な問題や、相談の種が、方々から集つて来るのを、決して拒絶しなかつた。多種多様な社会面から頼み事が持ち込まれるのを、一々面倒を見てゐた。交際が広い顔が広い。しかし余り慣れ親んだり、甘えたりするのは許さなかつた。 ﹁酒のみの癖に酔払ひが嫌ひで、何を云はれても取合はない﹂で、独酌で酒をたしなむ。がつしりした肩の上には、酒ぶとりのした出目金の、四角に近い丸顔の下部が重く、誰の目にもすぐ分る厚ぼつたいまぶたの下には、まなざしが鋭い。それが強く痛い程人をさす事があるのに、時には同情の涙線の作用か、やさしくうるむこともあつた。顔の下半分には、﹁これが一生の面倒に思はれる無類の濃い髯を﹂青く綺麗に剃つてある。強力な意志が、顔つきの主調となり、実行力を示してゐる。その顔は、青ざめて思惟するが故に存在してゐたのではなく、赤き血を通よはせて、感じるが故に、行動するが故に存在してゐたのである。︵中略︶かうした水上滝太郎の風貌に接したことがある人には、彼が年を取り、よぼよぼしたりよたよたする様子は到底想像出来なかつた。それほどいつも生気溌剌としてゐた。それが突然他界してしまつたのである。かうぽつくり逝つてしまはれたくなかつた。本人にしても、さぞ死にたくなかつただらう。 井汲清治﹁水上滝太郎の足跡をたどる﹂ 昭和15年5月 嘗て会社の廿支店が優勝旗を賭けて業績を競つた結果札幌支店が優勝と決定し祝賀会を催したことがあるが、生憎その前から風邪を引かれ、広い営業室の隅々まで響き渡るやうな大きな咳をしてゐられた時だつたので、みんなで引き止めたがいつかな肯かれず、約束だからと敢然酷寒の札幌へ出張された。帰郷後もひどい咳が永く続いたが、たうとう一日も休まずに押し通された。これに類した肉体への加虐は日常のことであつたらしい。蓋し先づ己に勝つといふ処世哲学の一端を物語るものと云へよう。かういふ一面の阿部さんには古武士の面影があつた。 また俳句の話になるが、俳句をやる人の間には今でも師系、派系がやかましく詮議立てられてゐるといふやうなことを何処からか聞いて来られて、俳人の噂話が出るたびにあの人は誰の門下ですか、この人は何系ですか、などゝ言つて笑はれたものだ。俳壇に流るゝ昔ながらの師弟関係といふものを半ば嗤ひながらも、半面かういふ封建的な遣風に対して一種のなつかしみと云ふか、羨慕といふか、さう云つた気持を寄せられてゐたものの如くである。かういふ場合の阿部さんには﹁親馬鹿の記﹂に見るやうな春風駘蕩といつた一面が見られた。 岩下茂数﹁追憶﹂ 昭和15年5月 あるとき、阿部さんから電話がかゝつて、﹁島崎藤村氏の紹介で自分のところに来た文学青年だが、文学には見込がない。その青年はあなたの会社に世話してくれといふのだが、何んでもいゝから使つてくれないか﹂といふ話だつた。それは矢ヶ崎千秋といふ信州小諸の人だつた。 私は阿部さんのたのみを引受けて試用することにした。然し、定時間の勤務に堪へ兼る性質であつたか、怠けて周囲の者に迷惑をかけた。酒の上も悪かつた。そして遂に辞めて信州へ帰つてしまつた。 阿部さんは、とき〴〵その青年のことを思出して、その後もよく噂をした。その話によると、阿部さんはその青年の持込んで来た駄作を克明に読んでゐた。﹁とても駄目なんだよ﹂と笑つてゐた。阿部さんはどんな人に対してもいゝ加減には扱はなかつた。 大場白水郎﹁阿部さん﹂ 昭和15年5月 水上さんは恐い人で、強い人だと思はれて居た。しかし水上さんは恐い人でも強い人でも無い。人一倍涙が多く、人一倍優しい人であつた。しかしその涙もろさを御自分でもよく知つてゐられたので、人一倍強くならうとしてゐられた所があると思ふ。意志が強かつたため、感情の弱さを征服されて居た。昔、誰かと京都の島原を見物された時、おいらんと言ふものを初めて見られて、其商売が気の毒になり、ボロ〴〵と涙をこぼされたと言ふ話を聞いた事もある。人が人の力で運ばれる事を厭つて人力には乗り度くないとも言つてゐられた。自動車は主力が機械だからまだ好いとも言つてゐられた。 岡田八千代﹁優しい涙もろい人﹂ 昭和15年5月 その後お目にかかつたのは何時も相撲の場所がはじまつてからで、先生の席は正面桟敷の、ちやうど皇族席の斜め下にあたるところにあり、その席へ毎日午後四時頃から判で押したやうにやつて来られた。あれほど好きだつた相撲については結局何一つ書き残してゐられないのも今から考へるとまことに残念である。相撲についても通ぶつた顔をすることのきらひな人で力士個人との交遊はほとんどなかつたらしい。前には場所がすむと、協会の彦山君、私、それに和木君を加へて夕飯を喰べ、土俵の思ひ出を語るのが唯一の楽しみのやうに見うけられた。相撲についても私が先生の言葉からうけた啓示は数へきれないほどある。土俵の観方にも高さと風格があり独得の人生観が影を曳いてゐた。日本橋の藤村で、ある場所の千秋楽の夜をすごしたときなぞは歓をつくして時の更くるのを忘れてゐたほどである。個人的な好悪からいふと、男女ノ川を贔屓にされてゐたやうであるが、しかしそれがために判断が曇るといふやうなことはなかつた。 尾崎士郎﹁今は亡き水上先生﹂ 昭和15年5月 又阿部さんは、正義の観念の強い人であつた。正義の為には敢然と戦つた。昔私共の学生時代には、三田の山上で、野球が出来た。然し一度雨が降ると非常な泥濘で、とても野球などは出来ない。殊に下駄履でゝも入らうものなら、大きな足型がついて、晴れた後でも使用に堪へない程になる。そこで立入禁止の禁札がよく立てられてゐた。 所が或日の事、阿部さんが其の場所に通りかゝると、大学部の学生が一人禁を犯して通り抜けようとしてゐる。これを見た阿部さんは、当時未だ普通部三四年の中学生の身であるにも拘らず、矢庭に走り寄つて、元の場所へ戻る様に命じた。咎められた方では、見れば中学生である、何を生意気なといふわけで、遂に喧嘩になつて了ひ、阿部さんは相当強かなぐられた筈である。然し最後迄頑張り通して、その大学生を向ふ側に渡らせなかつた。此の事は、後に野球部の者の耳に入り其の学生には制裁が加へられた相であるが、それは兎に角として、私の如き地方の学校で教を受け、上級生には言葉を返す事さへ出来なかつた者は、此の事件を目撃して大いに驚き、且つ何と慶応義塾には気骨のある中学生が居るものかなと感嘆させられたものである。これなぞは阿部さんが飽く迄も正義の為には戦ふといふ精神を持つてゐた一つのあらはれであらうかと思ふ。 梶原可吉﹁阿部さんの字﹂ 昭和15年5月 大正十五年のことである。私の入社の前年のことである。その頃よく勝本清一郎さんの家をお訪ねした。勝本さんの家は丁度阿部さんの番町のお宅の庭つゞきにあつた。三田文学の復活した年でもあり、その編集を勝本さんがして居られたりしたので、たまにはその校正のお手伝をしたことなぞもあつた。そんなことのあつた或日、何の用件であつたか、拝借したい雑誌があつて、勝本さんに伺つた。いつもの様に阿部さんのこわい犬に吹へられて垣根ごしに小さくなつて歩いたことを覚えてゐる。 その本なら阿部さんの所にあるだらうから借りてきてあげませうと云つて下すつた。︵中略︶ その時は間接に雑誌を拝借しただけであつたが、私は勝本さんに、 ﹁早速よんでお返しします。﹂ と云ふと、 ﹁いやお返ししない方がいゝんですよ。﹂ と云はれるのである。変に思つて訳をきくとかうなんです。 阿部さんの所には沢山の寄贈雑誌が送られてくる。来ると全部、読まないと気がすまないので、つまらない文章までも読まれる、それで雑誌がなくなつてゐれば、それだけ読まないですむ。つまり、拝借した雑誌は返さない方がいゝのださうである。一々送られる同人雑誌なぞをよく読んで居られたらしい。尤もその頃の阿部さんには復活したばかりの三田文学があり、之を大きくすることが一つの仕事であつたから野に遺賢を求めると云ふ意味もあつたことゝ思ふ。 向坂丈吉﹁文人としての阿部専務の印象﹂ 昭和15年5月 水上君は各方面の人から親まれた立派な人であつた。十四五歳の水上君は御両親から譲られた整つた富士額と、大きな目の何となく威厳をそなへた、美しい少年であつた。子供の時から聡明で、芸術に趣味と、理解を持つた意志の強い、真正直な、男らしい人であつた。心持は昔も今も少しも変らず、親切で友情に厚く、人の為めには熱心によく尽された。水上君は趣味の洗練された、江戸子気質で、田舎臭いのは大嫌ひな人であつた。教場と、先生と、教科書が性分に合はないと、よく云つて居られたように、学校嫌ひであつたが、一方自分の天分を何処迄も自から自由に育てゝ行かれた。 仙波均平﹁普通部時代﹂ 昭和15年5月 端正といふ言葉は水上さんにぴつたりした。水上さんは美しい人であつた。正しくて、寸分の隙も無くて、美しい人であつた。私のやうな隙の多い人間は、水上さんの前に出るといつも圧迫を感じた。寄付けないといふ気持ちも、懐ろへ飛込んで行けないといふ感じをも抱いた。さうしてただ、遠くから尊敬してゐたいといふ気特にさえなつた事もある。 然しほんとうの水上さんの奥の方に在るものは、実は人懐つこい、温い人であつたのではないかと思ふ。水上さんは他人に寛大で、自己に対して厳格であつた人であると聞いてゐる。――その自己に対する厳しさが、或ひは自から外に表れて、私のやうに、自己に対して苛烈になり切れない人間の眼には、何かある怖ろしさが感じられたのではあるまいか。水上さんは、たとひ親しい人々の集る酒宴の席でも、決して膝を崩さなかつた。私は一度も水上さんの行座︵あぐら︶をかいた姿を見た事がない。 水上さんが江戸時代に生れたら、さぞかし立派で、美しい旗本のお殿様であつたやうな気持がする。私の知る限りの文学者では、﹁お殿様﹂といつた風格の人物が甚だ寡いと思はれるが、水上さんは、志賀さんや谷崎さんよりも遥かに﹁お殿様﹂の感じであつた。志賀さんには、必しも格式張つた上下や大小は似合はないかも知れぬが水上さんの俤を偲ぶとどういふものだか、故人左団次のあの﹁鳥辺山﹂が想ひ出される。道義に緊く、冴えた頭脳の、さうして情に脆く、品位も高い﹁お殿様﹂の折目の正しさである。 津村秀夫﹁水上さんの思ひ出﹂ 昭和15年5月 私が予科に入学したばかりの頃、前田某といふ学生が中心になつて﹁独法師﹂といふ同人雑誌が出てゐた。此の雑誌が主催して、塾の大講堂で文芸講演会を開いたことがあつた。文壇の相当知名の人々が登壇するといふので、田舎から出て来たばかりの私は、それらの人々の風貌を見るだけでも楽しみにして、それを聴きに行つたものである。 その時、最後に登壇するのが水上滝太郎とプログラムに記されてあつたが、私はその人が三田文学出身の作家であるとは知つてゐたが、それまで其の人を見たこともなければ、作品を読んだこともなかつた。或は作品は読んだことぐらゐはあつたかも知れないが、特に記憶に残るほどには読んでゐなかつたやうである。 順番が廻つて来て、最後に水上氏が登壇すると、いきなり ﹁私は今、楽屋で、演壇に上らないといつて駄々をこねてゐたところです﹂ と言ひ出した。何故駄々をこねたかといへば、演題が気に入らないからだといふ。 自分は予め会の主催者から演題を求められたとき﹁感想﹂といふ題を通告して置いた筈だ。それが今、会社の勤めを終つて大急ぎで此の会場へ来てみると、自分の演題が﹁片言隻語﹂といふ題になつてプログラムに組まれてゐる。一体﹁片言隻語﹂とは何事であるか。自分は元来講演といふものが得意でないので、出たくないといふのに、無理に頼まれたので仕方なしに引受けたのであるが、引受けた以上は決していゝ加減なお座なりを言つて引下るつもりはないのだ。実は英文学研究のことに就て話すつもりで準備して来たのである。断じて﹁片言隻語﹂を述べるつもりはないのである。ひとの通告して置いた演題を勝手に変更するのも怪しからぬが、変へるにも事を欠いて﹁片言隻語﹂とは何だ。一ぱしシヤレた題をつけたつもりかも知れないが、物を知らないにも程がある。――といふやうな手きびしい口調で、ビシ〳〵畳み込んで、最後に ﹁こんな物の分らぬ学生のやつてゐる同人雑誌などは、どうせ碌なものではないのだから、こんな下らぬ雑誌は一日も早く潰れてしまふことを祈ります﹂ といつて、降壇した。 其の口調は、極めて痛烈で、無智と愚劣とに対して全身で叩きのめすやうな厳しさを持つてゐて、聞いてゐる方で、面を向けかねるやうな烈しいものであつた。 富田正文﹁思ひ出すこと﹂ 昭和15年5月
明治42年3月 大正9年9月 昭和15年1月
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