宮沢賢治 ︻みやざわ・けんじ︼ 詩人、児童文学者。明治29年8月27日〜昭和8年9月21日。岩手県花巻に生まれる。母方の祖父は、当時花巻でもっとも富裕な商人。大正4年、盛岡高等農林学校に入学、短歌や散文の習作をはじめる。大正9年、日蓮宗の信仰団体である国柱会に入会、国柱会講師の高知尾智耀から文芸による大乗仏教の普及をすすめられ、童話の創作をはじめる。大正10年、稗貫農学校︵現、花巻農業学校︶の教諭となり、詩集﹃春と修羅﹄︵大正13︶、童話集﹃注文の多い料理店﹄︵大正13︶を刊行するなど、充実した文学活動を行う。大正15年に農学校を退職し、花巻郊外下根子桜の宮沢家の別荘に独居して自炊生活をはじめ、稲作の施肥や改良品種を教えるなど、農民たちとの交流を深める。しかし、富裕な宮沢一族の一人である賢治に対して、農民たちの不信、反感は根強かった。昭和8年9月21日、急性肺炎により死去。享年37歳。代表作は﹁春と修羅﹂、﹁注文の多い料理店﹂、﹁グスコーブドリの伝記﹂、﹁銀河鉄道の夜﹂、﹁風の又三郎﹂など。 ︹リンク︺ 宮沢賢治@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 宮沢賢治@文学者掃苔録図書館 著作目録 詩 ‥ 発表年順 短歌・俳句 ‥ 発表年順 童話 ‥ 発表年順 小説 ‥ 発表年順 覚書・その他 ‥ 発表年順 単行本 ‥ 発表年順 回想録 宮沢家の息子が筆耕などしていることが、わたしには不思議に思われたが、かれはいつかわたしにそのわけを話してくれた。法華経を信仰しているかれが、郷里で托鉢をしたことがあるが、かれのお父さんが非常にそれをきらつて、やめろといわれた。他のことと違つて、自分の信仰を妨げられるのは耐えられないことだつたので、家をとび出した。現在は妹と二人で間借り住居をしている。妹はよく自分を理解して助けてくれるので感謝しているとのことであつた。 そのころのかれは袴を必ずつけていたが、帽子はかぶらなかつた。今でこそ無帽はあたりまえのことになつたが、当時、袴をつけて無帽というのは異様に感じられたものだ。その袴の紐にいつも小さい風呂敷包がぶらさがつていた。最初、わたしはそれを弁当かと思つていたが、童話の原稿だということだつた。もしこれが出版されたら、いまの日本の文壇を驚倒させるに十分なのだが、残念なことには自分の原稿を引きうけてくれる出版業者がいない。しかし自分は決して失望はしない。必ずその時が来るのを信じているなどと微笑をうかべながら語つていた。そういうときのかれの瞳はかがやき、気魄にあふれていた。 鈴木東民﹁筆耕のころの賢治﹂ 昭和32年 宮沢賢治といふ人は何処の人だか、年がいくつなのだか、何をしてゐる人なのだか、私はまるで知らない。しかし私は偶然にも近頃、その人の﹃春と修羅﹄といふ詩集を手にした。 近頃珍しい詩集だ――私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが――私の鑑賞眼程度は、若し諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直ちにわかる筈だ。 私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでゐる。しかし、本物とニセ物の区別位は出来る自信はある。私はいまこの詩集から沢山のコーテーションをやりたい欲望があるが、﹁わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です︵あらゆる透明な幽霊の複合体︶――﹂といふのが文中の始まりの文句なのだが、この詩人はまつたく特異な個性の持主だ。︵中略︶ 原始林の匂ひがプンプンする。真夜中の火山口から永遠の氷霧にまきこまれて、アビズマルな心象がしきりに諸々の星座を物色してゐる。――ナモサダルマプフンダリカサス――トラのりふれんが時々きこえてくる。 それには珍らしい東北の訛がある。――それは詩人の﹁無声慟哭﹂だ。 屈折率、くらかけの雪、丘の幻惑、カーバイト倉庫、コバルト山地、霧とマッチ、電線工夫、サマニエロ、栗鼠と色鉛筆、オホーツク挽歌、風景とオルゴール、第四梯形、溶岩流、冬と銀河鉄道、エトセトラ。 若し私がこの夏アルプスヘでも出かけるなら私は﹃ツァラトゥストラ﹄を忘れても﹃春と修羅﹄を携へることを必ず忘れはしないだらう。 辻潤﹁惰眠洞妄語﹂ 大正13年7月 根子吉盛は、ある日、生徒たち二人がノートもとらず頭を突つき合ってふざけているのを見つけたときの賢治のことを、鮮明に覚えている。 ﹁賢治先生は、黙ってじっとそれを見ていたのですよ。それから、自分が持っていたチョークを、いきなりガリガリと噛みはじめました。みんな、しいんとしてしまいました﹂ 根子は言う。 ﹁賢治先生にはそれが、自分のふがいなさに感じられたのですね……それに比べて今の他の学校の先生たちは、生徒ばかり責めて、自殺させてしまったりする﹂ ﹁……﹂ ﹁教育というのは、ほんとうは、教師と生徒が一体化体験をすることなのに……わたしたちの学校では、そのうちいつか、賢治先生のときだけは、ふざけ方も変っていったのですよ﹂ 根子は言う。 畑山博﹁教師宮沢賢治のしごと﹂ 昭和63年 ある朝、関登久也は旅すがたの賢治とばったり出あった。 ﹁どちらへおいでになったのですか?﹂ ときくと、賢治は紅潮した撥刺たる顔で、 ﹁岩手郡の外山牧場へいって一と晩じゅう牧場を歩き、いま帰ったところです。性慾の苦しみはなみたいていではありませんね。﹂ とこたえた。夜を徹して闘ったのである。 藤原嘉藤治にはこう言っている。 ――性慾の乱費は、君自殺だよ。いい仕事はできないよ。瞳だけでいいじゃないか触れて見なくったっていいよ。―― ――おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。―― ――花は折るもんじゃないよ。そのものをにぎらないうちは承知しないようでは、芸術家の部類へ入らないよ。君、風だって甘いことばをささやいてくれるよ。さあ、行こう。―― 性慾の苦しみとたたかうために野原へとびだしたり、夜半高らかに法華経を誦したりして転化し、彼は固く禁慾を守った。﹁農村を最後の目標として猛進﹂するためにも、芸術の創造のためにも、それが正しいと信じたからである。 堀尾青史﹁賢治と女性﹂ 昭和41年 越えて大正十年十二月 稗貫郡農学校︵現在花巻農学校︶に教鞭をとられる様になり私は此の時より御交際を願つたのである。 透徹せる頭脳と高潔なる人格とは忽ち生徒等を信服せしめずにおかなかつた。地方人の信望また頗る厚くどんな乱暴な人でも悪性の人でも宮沢さんに頭を下げぬ人はなかつたのである。 宮沢さんは人に接するどんな身分の低い人にも敬虔な態度であり善を愛し、悪を憎む事強く、人に寛に己に厳に身を持せられた。服装などは少しも意にせられず、洋服は古いもの、靴はゴム靴と定つてゐた、色や柄や質は問題でない只良く整ふて居れば足りると云ふのが持論であつた。給料は書籍代となり貧しき人々への慰籍として姿を消して行くのであつた。 学校では稲作を受持たれて肥料的立場から地方各地を巡回せられて懇切叮寧に地方民を指導せられた。が為地方農村では無くてはならぬ人となられたのである。文芸、音楽にも此の頃から特に勉強せられ学校の精神歌や、農民劇を公表せられ、殊に農民劇は地方の実際を諷刺教訓的に仕組んだもので非常な人気を博せられた。 大正十五年三月、学校を辞されて一層農民の相談相手となられるべく、又筆の人として文芸の道に進むべく決意なされて、町端れの一軒家に立籠り﹁オルガン﹂﹁蓄音器﹂各々一台宛備へられて雄々しく立たれた。花卉栽培花壇設計等に試みられ元々専門ではなかつたが秀れた頭脳は何事も人並以上の出来栄を見せてゐた。 堀籠文之進﹁宮沢さんを憶ふ﹂ 昭和8年12月 ……あれは茶色なズックを張った巨きなトランクだった。大正十年七月に、兄はそいつを神田あたりで買ったということだ。 トシ ビヨウキ スグ カヘレ という、妹の病気を知らせる家からの電報で兄が狽えてその巨きなトランクを買ったら、汽車賃の外に銀貨が一枚残ったので、小さな梅びしおを土産に買ったということだ。 その頃中学生の私が、花巻駅に迎いに出たとき、まず兄の元気な顔に安心し、それからそのトランクの大きなことに驚ろいた。兄は実に気まり悪そうに苦笑いをして﹁やあ﹂と言ったし、私も﹁やあ﹂といい、そこで二人ともすっかり落付いて、そのトランクを下げて家へ帰ったのだ。…… ︵中略︶ ……手っ取り早く言ってみれば、その年の正月に二十六歳だった兄は、念仏とお題目のことについて、父と激しく話し合った後で、いきなり東京へ逃げたのだ。東京へ着いたら六銭余ったので、二度ほど豆腐をたべ、三日仕事をさがし、一回卒倒したということだ。 それから本郷の菊坂町では、芋と豆腐と油揚げを毎日食べて、筆耕もやったし辻説教もやり、童話もうんと書いたと言う。 一ヶ月に三千枚も書いたときには、原稿用紙から字が飛び出して、そこらあたりを飛びまわったもんだと話したこともある程だから、七ヶ月もそんなことをしている中には、原稿も随分増えたに相違ない。だから電報が来て帰宅するときに、あんなに巨きなトランクを買わねばならなかったのであろう。 さて、そのトランクを二人で、代りがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、姉の病気もそれほどでなかったので、﹁今度はこんなものを書いて来たんじゃあ﹂と言いながら、そのトランクを開けたのだ。 それがいま残っているイーハトーヴォ童話集、花鳥童話や民譚集、村童スケッチその他全集三・四・五巻の大部分に、その後自分で投げすてた、童話などの不思議な作品群の一団だった。 宮沢清六﹁兄のトランク﹂ 昭和16年1月 大正七年頃に私共は始めて従兄のところで洋楽のレコードを聞いたが、兄はそのとき、永い間沙漠旅行で渇していたものが水をむさぼり飲むとでもいう風に見えた。いまでもそれらのレコードがなつかしく思い出されるのだが、それは﹁シエエラザード﹂や﹁レオノーレ﹂や﹁エグモント﹂のような曲のバラもの十枚位で、その後間もなくベートーヴェンの﹁第四交響曲﹂とチャイコースキーの﹁第四交響曲﹂とハイドンの弦楽四重奏曲﹁雲雀﹂などの一部分ずつが手に入った。 それらが解説書も付かないで私共を訪れたとき、﹃こいつは何だ。しかしこれは大変なもんだ﹄…︵Beethoven. Symphony. No. 4. Lndwov︶とか、﹃此の作曲者は実にあきれたことをやるじゃないか。﹄…︵Tschaikowsky. Symphony No.4. 4thwov.︶とか。﹃べートーヴェンときたら、ここのところをこんな風にやるもんだ。﹄などと言いながら、蓄音機のラッパの中に頭を突っ込むようにしながら、旋律の流れにつれて首を動かしたり手を振ったり、踊りはねたりした兄がいまも見えるようだ。︵中略︶ やがてしっかりした解説書といっしょに英国盤の﹁月光﹂や﹁運命﹂の組物が入って来たときの兄の歓びは大したもので、﹃この大空からいちめんに降りそそぐ億千の光の征矢はどうだ。﹄﹃繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ。おれも是非共こういうものを書かねばならない。﹄と言いながら書き出したのが﹁春と修羅﹂である。つまり此のころ兄の書いた詩は、作曲家が音譜でやるように言葉によってそれをやり、奥にひそむものを交響曲的に現わし度いと思ったのであろう。 宮沢清六﹁兄とレコード﹂ 昭和29年5月
盛岡高農時代 大正15年3月 昭和5年10月
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