斎藤茂吉 ︻さいとう・もきち︼ 歌人、医師。旧姓、守谷。明治15年5月14日〜昭和28年2月25日。山形県南村山群金瓶村に生まれる。明治29年、医師でもあった親戚の斎藤紀一の招きにより上京。開成中学を経て、一高理科第三部に入学。三年生の時に正岡子規の歌に出会い、これを機縁に作歌の志を持つようになる。明治38年、斎藤家の養子となり、同年、東大医科大学入学。翌年より伊藤左千夫に師事し、子規系の歌誌﹁馬酔木﹂、﹁アララギ﹂に参加する。明治43年、大学を卒業後、精神病学の臨床医としての訓練をつむかたわら、﹁アララギ﹂の編集を担当し、活発な作歌、評論活動をはじめる。大正2年、第一歌集﹁赤光﹂を刊行。その鋭くなまなましい官能の表現により、文壇や世間の注目を浴びる。その後も実相観入の写生説を唱えて﹁アララギ﹂の中心歌人として活躍。昭和2年4月、青山脳病院院長に就任。昭和15年には大著﹁柿本人麿﹂を完成させる。昭和28年2月25日、心臓喘息により死去。享年70歳。代表作は﹁赤光﹂、﹁あらたま﹂、﹁ともしび﹂、﹁童馬漫語﹂など。 ︹リンク︺ 斎藤茂吉@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 斎藤茂吉@文学者掃苔録図書館 著作目録 *準備中* ◆斎藤茂吉@青空文庫 ◆斎藤茂吉@近現代日本文学史年表 回想録 当時先生はアララギ発行については一生懸命であつて、巣鴫病院で貰ふ月給なども殆んど全部アララギにつぎ込んでゐられたやうであつた。又不足する時などは養父から出資して貰つたやうにも聞いてゐる。ここにはからずも養父のことにふれたが、先生の偉大なる業績は天分の然らしむる所であるのは勿論であるが、又最も恵まれた環境にあつたと云ふことも見逃してはならないと思ふ。先生は実に寛大なる且つ理解ある養父母の下にあつて、経済的に何不自由なく、且又家人に対し吾儘一杯に振舞へられたと云ふことも大いに幸してゐるやうに思ふ。併しさうかと云つて先生の日常生活が贅沢であつたと云ふ訳ではない。その生活は物質的には全く質素であり素朴であつたが精神的には恵まれてゐたと云ふのである。 青木義作﹁斎藤先生の思ひ出﹂ 昭和28年5月 先生はどつちかといふと怒りつぽかつた。よくおこらせもしたし、おこられもした。眼を大きく開き、ほほを紅潮させ、劇しい言葉を浴びせかけるときは実に生々として、病後白髯を伸ばされた故か、急に老翁じみたやうな感じが一ぺんに吹き飛んで、語音も力強く、理論的にグイグイとたたみかけ、押しかける論調の間然するところない様は、盛んな年代の先生を見るやうで、一面嬉しく思はれる程であつた。 戦後急激に変化した歌風の歌を見られた時もさうであつた。 ﹃これあまるでべらんめえ調子ぢやないの君、砂でも噛んでるみたいで困つたもんだんないがっす。ねえ君、さうぢやないの﹄ とも、又 ﹃ニキビのとれない不良少年が、下手なやくざ仁義をきつてるのを聞いてるやうぢやないか﹄。 と、痛烈にコキ下ろされ、それからその作者が目前にゐる如く、私に短歌の本道と写生の大道を諄々と説き飽くことなく、屈服するまで止まざる熱心さであられた。そして最後に ﹃流行は長く続くもんではない。直ぐ廃れるもんだからなつす。君も決してこんなことに迷つては駄目だからなつす。歩兵の如く一歩一歩と進むことだつす。﹄ と念を押されるのだつた。 先生に慣れないうちは、自分に関したことでなくとも、強い語調でやられるのには、一寸閉口ものであつたが、後では先生の訓へを受けるのがこれが一番手取り早く、それに先生が大いに元気になられるのも喜ばしく、問題を持つて行つては故意に仕向けるやうにさへなつた。 板垣家子夫﹁叱らる﹂ 昭和29年10月 昭和二十二年の十一月始めだつた。堀内通孝さんから、斎藤先生が東京裁判を見たいといつておられるが、何とかならないかと相談をうけた。担当者に当つて見ると、二十日なら傍聴券が手にはいるとの返事だつた。 その日、午前十時ごろ世田谷代田の駅で堀内さんを待ち合せて、斎藤先生のお宅にうかがつた。あいにく冷雨がしとしとと降る寒い日だつた。斎藤先生は茶色の胸かけのようなものをしておられた。東京裁判の組織だとか、これまでの経過などについていろいろ質問された。さらに当時の内外の政治情勢などについても、非常に関心を示された。私は先生のお話を聞くつもりだつたのに、逆に私がもつぱらおしやべりをする立場におかれた。︵中略︶ 法廷の人口には六尺豊かなMPがならんでいた。その間を斎藤先生はおぼつかない足どりで、傍聴券を調べられながらはいつて行かれた。私はうしろに従つていて、この若い兵隊たちは一見平凡な田舎の老翁のような先生を何と見ているだろうかと考えたりもした。 一時きつかりになると、被告がゾロゾロと出て来て、右側の雛壇ようの所に着席した。続いてウエップ裁判長以下の裁判官が左側の席についた。東条元首相を始め変りはてた十数名のA級戦犯に、斎藤先生は前かがみになつて、食いいるように見入つておられた。身動きもされない。星野戦犯だけが家族でも来ているのか、始終傍聴席に顔を向ける。先生は﹁あれは誰﹂と二、三名前を聞かれた。︵中略︶ 四時閉廷になつて、また雨の中に出た。先生は一度は東京裁判を見ておきたいと思つたが、これで安心したというようなことをいわれた。先生は実に熱心に、恐らく当日の全傍聴者のうち一番熱心と思われるほどに傍聴されたので、私はあの感受性でどんな強い感動をうけられたかと思つて、﹁東京裁判を歌にされますか﹂とお聞きすると、即座に﹁いや作りません﹂﹁私がこれを歌にすると歌壇の連中が何といつて攻撃するかわからぬから﹂というような意味深い言葉をはかれた。 池松文雄﹁東京裁判と斎藤先生﹂ 昭和28年10月 下り新庄行列車は仲々来なかつた。口をおききになることも、懶いやうに見え、板垣さんも私も、おのづから口数少くなつていつた。 私は読み残つてゐた雑誌﹁新生﹂を出して、荷風の﹁罹災日録﹂を読み初めた。間もなく﹁何だつす、それ﹂と云はれる先生に雑誌を御目に掛けると、﹁永井先生の文章は大したもんだなつす﹂と云ひながら、少し頁をめくり、谷崎潤一郎の祇園の文学芸妓のことを書いた小説に少し目をやり﹁谷崎先生の文章は、んまいもだなつす﹂など言つてゐられる所へ列車が入つて来た。 雑誌はその儘お貸しし、号を逐うて三冊程お貸ししたと思ふ。 夕方の下り列車は割に空いてゐて、板垣さんと並んで窓際に座を占められた先生は、板垣さんの言葉に﹁んだがつす、んだがつす﹂と如何にも親密に、随順してゐられた。 越後昌二﹁回想﹂ 昭和28年10月 面会日ある日、それは柿木人麿を書かれてゐた頃と思はれるが、﹃どうだ歌が出来るか﹄と問はれ、私が﹃いそがしくて﹄と言はぬ内に﹃馬鹿、いそがしい、君達の忙がしさは、忙がしさの内にはひらん、私は四時に起きてゐるよ、朝四時に、患者で俺に診てもらひたいと言へば診てあげねばならぬし﹄と一喝を喰はせられた。私はもう何も言ふことはなかつた。私はこれまで多忙な商業の傍、歌を作りつづけて来たのもこの一言が然らしめたものと思つてゐる。 戦後私が大石川に先生を御訪ねした日は、いつ止みさうもない雪が篩のように降つてゐた。紹介もなく突然訊ねたら、﹃何故黙つて入つて来たか!﹄と叱られた。今にも直ぐ帰れといふ気配でさつさと奥に入られた。がどうしたことか、再び出て来られて、﹃君さつきの短冊をどうせ持つて帰らんだらうから置いてゆけ、練習用にするから﹄と言つて何か考へるやうにして居られたが﹃予告なしに人を訪問した罰に室を掃除して行つて呉れ﹄と来た。入室を許された私は先生の後につづいた。廊下には洋行の際の大きなトランクが置かれてあつた。 御居間に入つて行くと、そこは寝室になつてゐて白い蚊帳が張られてあつた。蚊帳の内外にはいろいろなものが雑然と置かれてあつた。蚊帳をはづし、それらをかたづけながら、私は思索する人、詩的生活に生きる人々の訪問は絶対避くべきだと感じた。かういふ点、政治家や実業家とは全然ちがつて居るといふことも感じさせられた。 木村靄村﹁斎藤先生と私﹂ 昭和28年10月 茂吉さんはドイツ語にかけてはまつたく口下手でした。たいていの人は必要上会話のレツスンをとるのですが、茂吉さんにはそんな様子は全然見られませんでした。ですからいつまでたつても同じで、恩師マールブルク先生とはとうとうよく話が通じないでしまつたようです。 茂吉さんにとつてウィーンの生活は、さほど苦痛ではなかつたにしても、たいして楽しいものではなかつたようです。若輩でしかも独身だつた私の如きはすつかりウィーン人の生活にはまりこんでいたようなものですが、それを茂吉さんは妙に感心していました。 茂吉さんはいつもいくらか淋しそうでした。ひそかにひとりでいろいろ享楽していたかどうかわかりませんが、われわれと一緒に愉快に遊びあるいたことは一度もなかつたような気がします。長崎で大病をしてから禁煙したとかで、その影響があつたのかも知れません。それよりも歌人茂吉がいつこう歌をよんでいる様子がないのを不思議に思いました。ある会合の席上、余興に各自好き勝手な歌を作つて茂吉さんに批評してもらつたことがありました。茂吉さんは大変迷惑がつたのですが、懇望もだしがたくついに立ち上りました。そのときの茂吉さんはいつもの茂吉さんとはまつたく別人の感がありました。茂吉さんは得意の色を浮べ、つまらん歌を一つ一つとりあげて親切丁寧に評してくれたのですが、われわれがいかに懇望してもついに自作を披露してはくれませんでした。われわれを馬鹿にしたのではなく、実際ウィーンでは歌はできなかつたのだと、今でもそう思つています。 久保喜代二﹁ウィーン時代の茂吉さん﹂ 昭和28年10月 先生の本は一体何冊生前に出版されたのだろうか。はじめほど間が遠く、最後には随分急ピツチであつた。ところで先生の本の特徴はみな一様に函の文字が大きくて、中はつつましやかで、しかも強い感じを出した上品な装幀であつたことだ。しかもぼくの知つている限り先生の本は背が白で、そこに金の文字がおされ、平は色紙が使われている。この形式は実に茂吉先生の本の形式であつた。不思議なことに、人がこの形式を真似してみても駄目である。なるほど形は似るが、やはり何となく違う。これについてはぼくに説がある。先生の形式を真似ても駄目の筈である。先生は本の表題をきめるのに、独得な考えと態度をもつていたと思うが、それはさておいて装幀は、形式は同じであり、背は白ときまつていたから、先生の苦心は主として平の紙の選択にかかるのだが、実に熱心であつた。沢山な見本の中から、自分の気に入つたものを見付けると、これは他の本にけつして使つてはいけないという条件を出した。もし、その見本の中に気に入つたのが二つ或いは三つあれば、それも人に使われないように予約してしまうのである。人に自分と同じものを使われること、或いは同じものをもたれることは堪らないことらしいが、このような性質は茂吉先生の芸術にどのようにあらわれているかこれは折があつたら君の教えをうけたい。 小林勇﹁蓮の花﹂ 昭和28年5月 二十五日の朝も症状は大した変化はなかつた。この日は私が講師をしてゐる昭和医大への出勤日であつたので何時もの通り家を出た。そして父と永遠に別れることになつた。 十一時頃学校へ電話がかかつた。それは父の容態が急に悪くなつたといふ報せであつた。私は電話をきると居合せた医局員に、おやぢが悪くなつた、もう駄目かもしれないと独り言の様に云つた。 父は美しく安らかな顔をして死んでゐた。父は二日前に風呂に入り、看護婦が髪とひげの手入れをしたのであつた。 十一時頃父は突然顔色が蒼白となつて、脂汗が流れ出し、呼吸が浅くなり、脈拍が微弱になつたさうである。副院長の中村君が直ちに強心剤を二本つづけてうつた。益々容態が悪くなるので、五分後に強心剤の心臓内注射を試みた。しかし効果はなかつた。午前十一時二十分に心臓がとまった。何の苦悶もなかつたさうである。呼吸も何時なくなつたか判らなかつた位だつたさうである。 明かに発作の襲来であつた。前の時はからだが抵抗した。抵抗するだけの力があつた。しかしこの時は発作に立向ふだけの余力がなかつた。父は一挙に打ち倒された。何の苦悶もなかつたわけである。私は中村君からその話をきいて、むしろよかつたと思つた。最後の言葉は何もなかつた。父はもう何も云ふことはなかつたであらうし、私も、何も聴く必要はなかつたであらうと思つた。 斎藤茂太﹁足﹂ 昭和28年10月 俗に、うちづらが悪いと云ふ事を言ふが兄の場合程これがピタリと来る事はないのではないか。実によく小言を云つたり怒つたりした。落語の中に出て来る小言幸兵衛と云ふ人物にそつくりで、小言の為の小言と云ふ感じであつた。回診の後、病院の職員は其日の小言の量などを比較検討して楽しんで居る様だつた。しかし、元々たいした事が原因で怒るわけではないので機嫌の直るのも早く、後はケロリとしてサバサバしたものだつた。反対に、そとづらのよい事は無類で、旅先でボーイや女中にやる心付けは思ひきり多額でないと心安らかでなかつたらしい。強羅の山荘に速達など配達しに来る郵便屋さんに心からなる謝辞を呈し、何かを与へて其労をねぎらはねば居られなかつた兄であつた。 精神医学を専攻した事は歌道に精進する上にたいへん幸であつた。精神医家は外科医や産科医の様に夜中に起されたり、一晩中つききりで患者を看なければならないと云ふ事が比較的少く又、面倒な器械を用ひたりコマゴマした処置をする場合も多くはない。作らうと思えば作れる時間があるのである。巣鴨病院の医局時代にも作歌や勉強に多くの時間をさき得た事は故なしとしない、しかしそれかと云つて精神医学をおろそかにしたとは思はれない、医学に関する業績を見てもわかる事である。医学から云へば私は後輩になるわけで、松沢病院に勤務中私は、兄が巣鴨時代に担当した患部の病歴を屡々発見した。表紙を一見しただけであの特徴ある字体によつてわかるのである。病状や経過等が活字の様な字で実に詳細に丹念に記載されてゐるのを見て感嘆した。 斎藤西洋﹁書斎﹂ 昭和29年10月 茂吉君は医局で椅子に腰をおろし、眼をつむり、額にしわをよせて、沈思黙考してゐることが多かつたが、これは歌を考へてゐる時で、そのうちに次第に興に乗るらしく、空間に文字を書きはじめる。わたし等は、彼が今のやうに偉い歌人になるとは思はぬので、﹁斎藤の緊張病が初まつた﹂などといつたものである。電車の中でも歌を考へてゐるのか、乗越しなどは何時ものことで、遅刻の常習犯であつた。而も正直に汗だくだくで駆けつけたものである。 茂吉君の頭の中は、当時常に歌のことばかりであつたらしく、専門の医学の方の勉強は一向しない。医局に入つて三、四年もすれば論文の二つ三つは出来るものであるが、茂吉君は何ひとつ書いてゐない有様であつた。養父斎藤紀一氏から依頼を受けてゐられた呉先生も、これには困つてをられたやうで、時々茂吉君を呼んで小言をいはれる。すると、茂吉君は非常につつしんでお小言を頂戴するが、いつも其の時だけであつた。茂吉君にして見れば、どうせ洋行するのだから、論文はその時に書けばよいといふ腹だつたらしい。︵中略︶ 茂吉君の文章は立派だが、談話は山形弁丸だしで、﹁んだ、んだ﹂﹁さうだべ﹂﹁暑いなあす﹂といつた具合だつた。全くの自然人の感じのする人で、気取るとか策を弄するとかいふことの全然出来ない純粋人であつた。 下田光造﹁巣鴨医局時代﹂ 昭和28年10月 明治三十五年の九月に一高の三部二組へ入つて来た二十七名の秀才の中に茂吉も居た。その時は守谷茂吉で、素朴な、田舎くさい青年であつた。 当時の一高三部二組というのは天下の最大難関で、同じ三部︵医科︶志望でも最も優秀な成績の者が一高に入り、残りが地方の高等学校へ配当される仕組であつた。だから一高へ入れた茂吉も天下秀才の一人に相違なく、あの時もし地方の高等学校へやられていたら、歌人茂吉の発芽が滞りなく行つたかどうか問題になる。ともかく、入学試験に関するかぎり、茂吉は頭がずばぬけてよかつたことは事実である。 茂吉も中学校では優等生だつたに相違ないが、一高の同級生は粒ぞろいだつたためか、一高生時代の茂吉は格別出色の存在でもなかつた。学校の成績はだいたい中ぐらいで、ときどき注意点ももらつたようである。注意点をいくつか持つてると落第するという厄介な点である。︵中略︶ スポーツにも縁がなかつた。正課の体操だけは仕方がなく出たが運動部へはどこへも入つていなかつた。要するに彼は筋骨薄弱型であつた。ストームもやつたことはあるまい。 文学青年のタイプでもなかつた。そのころ晶子の﹁乱れ髪﹂だの、晩翠の﹁天地有情﹂だのが青年の間に愛読されたが、同級生で茂吉とそんな話をしあつた者もなかつたようである。卒業まぎわの頃になつて、茂吉が歌を作るそうだと聞いて、人は見かけによらぬものだなあと感じ入つたような情況である。 一高短歌会というのはまだなかつた。他のクラスの学生で、新詩社へ入つて相当に活動してるのもその方の雑誌で知られて居た。そんなグループの中にも茂吉の名は見られない。一高俳句会は可なり盛んで、虚子、碧梧桐、鳴雪などが毎回出てくれ、僕らのクラスからも二三の常連が行つたが、こんな所へも茂吉は行かなかつた。 茂吉の山形弁は著しかつた。茂吉の風貌も何となく山形弁的である。どう見ても颯爽たる一高生型ではなかつた。しかしこれは茂吉の生涯を通じての特色であつたのだから、一高生時代ににわかに脱皮するわけがなかつたのである。 高野六郎﹁一高時代の茂吉﹂ 昭和28年10月 兄は幼少から小便虫︵夜尿症︶で一夜に何回も洩した。それで大きい犬の皮を布団に敷いて、その上にワシキ︵ぼろ︶を敷いてねる。夜中に洩すと犬の皮ぐるみ、くるくる巻いて縁側に出す、がその後又布団の上に洩すといふ工合だつた。十五歳で上京するまで続いた。上京してから手紙で﹁小便は一度も洩さず候﹂と言つて来たが、どうであつたらうか。それから新しい着物を着るのが嫌ひで嫌ひでいつも汚ない古いものを脱がない癖があつた。母が木綿の新しいのを作つて無理に着せると、泣つ面をしてゐたことを覚えてゐる。 負けず嫌ひで六歳上の富太郎兄と喧嘩をしては、負けたのを口惜しがつて学校を休んでしまつた事がある。私はすべて兄に服従したので喧嘩をしたことはない。兄が重い蔵の戸をあけて入つてゆくのに随いていつて、水飴を盗んで甜めた。指を水飴のかめに突込んで、兄が三回なめる間に私は一回、それで逃げ出す。父の買ひ置きの黒砂糖も盗む、客用の菓子を全部私ら二人が盗み食ひをして、来客の時出さうとして無く、母が叱られてゐた事もあつた。 高橋四郎兵衛﹁兄の少年時代其他﹂ 昭和28年10月 僕は若い頃既に先生の歌を知り、親しく先生に接する機会にめぐまれたことを生涯の幸福とする。先生は僕ら後輩のことを実に気にかけていて下さつたと思う。僕がはじめてリルケについて小文を書いた時にも、思いがけず早速に返事を下さり激励と注意とを与えられた。そういうことがどれだけ面倒なことかしかし又どれだけ若い人の将来に影響を持つものだかを今更に思い返すのである。先生は人の話にまじめに耳傾けられて、あの特徴のある抑揚で、﹁そうだ﹂と合槌を打たれる。あれなどもどれだけの人を喜ばせ元気づけたか知れないのである。 しかし先生は怒ることも勿論知つておられた。戦争初期であつたと思う、右翼の文学者の一団に大へん腹を立てて居られ、﹁爆撃してやるんだ﹂と、汗を垂れつつしきりに口走つて居られたこともあつた。これは言うまでもないことだが、先生があんな風に戦争の歌を作つて居られながら、いやらしい右翼文学者とは全然異つていた証拠でもある。 高安国世﹁斉藤茂吉先生﹂ 昭和28年4月 それ以来先生が代田から新宿に移られて後も、二十六年三月私が東京を離れる迄この月々の先生訪問は続いた。先生の印象はくだいた言葉で云へば、一つには東北訛りのせゐもあらうが少しもえらぶつた所がなく、いかにもいいおぢいさんといふ感じであつた。唯アララギをお届けするだけの時でも先生は必ず御玄関にまで出て来られ、本を受け取りおし戴かれて﹁ありがたう、ありがたう﹂と繰返しおつしやる。そして﹁五味君も大変だな、お体に気をつけるやうに、よろしく云つて下さい﹂とつけ加へられるのだつた。冬は勿論春も秋も大抵黄八丈といふのか黄色のどてら姿で出て来られた後に誰に対してもさうである事が分つたのだが実に丁寧な態度ともの言ひをなされる。私が余り早くてはと思ひ十時頃伺つても、先生は玄関と廊下の境のカーテンから出て来られて﹁お早う古関さん、お早いお早い大変でした﹂とおつしやるのだつた。︵中略︶先生はお年の割にふしぎな位お顔の色艶がよかつた。或はそれが先生の特異な体質を反映してゐるのであらうか。先生は冬の寒い時の方が御体の調子がよいやうで、梅雨時とか暑い折は殊更身にこたへるやうであつた。冬でも火鉢にほんの僅かの火を埋めるやうに置かれ、来客にはオーバーの儘上るやうにとの心遣ひをされてゐた。 田中和子﹁代田時代の交渉﹂ 昭和28年10月 旅先からの通信も面白いのがある。失敗したことや、寺院や美術館をみたことが必ず書いてある。画をみるにしても独特であつた。一つ一つ丹念にみてゆく。有名な画の前に立てば、十分、十五分立ちとどまる。好きな名画の前には、三十分も動かず、時には椅子に腰を下して眺めるのであつた。巴里のルーブルをみるのに何時間かかつたか、一度きいてみたかつた。恐らく半日がかりで三四回は通つたろうと思われる。 羅馬からの通信によると、ヴアチカンの寺院で、ミケランジエロの天井大壁画をみようとしたが、頸が痛むので困つたが、傍にはアメリカ人らしい老夫婦しか居ないのを幸い、大理石の床の上に、新聞紙を敷いて、仰向けに寝転んで眺めたというのがある。また、これに味をしめて、フローレンスの寺院でもそれを試みたというのがある。これによつてみても、茂吉山人の鑑賞方法は、どんなものであつたかが窺われる。要するに、欧州遍歴も、美術行脚が主たる目的であつたといつても過言でないと思う。 想起すれば、茂吉山人の滞欧中は、実に色々な事件に遭遇している。第一に世界の貨幣史上末曾有の大事件たる、マルクの崩壊である。戦前は五十銭で一マルク受取れた相場が、一九二三年十一月には一兆マルクに両替されるという、大暴落をみたのであるから、この事がまたどんなに研究に邪魔したか、体験者でなけれは想像もできない位である。世紀の独裁者ヒツトラーが、始めて革命を起したのも、彼がミユンヘン滞在中であつた。その時にはわざわざ街上の様子を観察して知らせてくれた。関東大震災も、摂政宮殿下の虎の門事件も、帰朝途上の青川脳病院の焼失も、大きな衝動に駆られたとみえ、その都度感傷的な手紙を書いている。 前田茂三郎﹁伯林時代の茂吉﹂ 昭和28年10月 昭和十四五年の頃だつたと思ふが、青山教会の牧師をしてをられた福島重義氏から、﹁斎藤茂吉氏が教会に来られるがお眼にかかりに来ないか。﹂といふ知らせを戴いた。福島氏には家内が親しくして戴いてゐたので、珍しく家内と共に教会を訪ねた。私が今日迄に教会の門をくぐつたのはこの時一回だけである。牧師の話が終つて人混の中で茂吉先生は、﹁私は教会といふものを知らないので、信者といふ訳ではないが今日は聴きに来たのだ。﹂といふ意味のことを手短かに私に囁かれた。その頃の先生は丁度只今の私の年齢位で既に六十に近いお齢であつた。先生は恐らく生涯を通してかうした未知のことは常に知りたいと寸暇をさいて努められたものであらうと思つた。かうしたことは何でもなささうなことで仲々普通の人間には真似の出来にくいことである。先生のあの歌の幅の広さ奥の深さはかうしたことに因るのではなからうか。 松田常憲﹁斎藤先生の追憶﹂ 昭和28年4月 ﹁柿本人麿﹂は幾冊にもなつて出版された。そのつど批評を頼まれた。その時の依頼し方が如何にも、先生的である。悪口を絶対に書くな、出来るだけ売れるやうに書けといふのである。会つて直接にも言はれたし手紙にも書いてあるので絶対命令である。やむなく、批評の客観性など放棄し、欠陥には目をつぶつて我ながら呆れるほどの提灯持ち紹介文を﹁国語と国文学﹂その他に書いた。但し、最後の筆納めの部分に、著者が人麿個人を見つめるだけでなく、その歴史的位置や彼の社会的条件をも顧慮さるべきであらうと付言した。さうして、あれだけ褒めてあげたのだから、さぞ喜ばれるだらうと思つてその次お会ひしたら、こつぴどく叱られた。歴史的条件など全然不要だといふのであつて、それから、 ﹁一体、文学の社会性など、どんな本に書いてあるのかね。有つたら本の名を言つてみ給へ!﹂ と突つ込んで来られる。つまり数百行を費した賛言に対して謝礼を言はれる代りに、最後四、五行の為に叱られるわけで、馬鹿らしい極みである。これは、﹁歌道の師茂吉﹂が﹁学者治吉﹂の上にのさばつて叱つてゐるのだから、若干滑稽でさへある。かういふ見さかひの無い非論理性が度々発揮されるのである。 森本治吉﹁原始人的暗さ﹂ 昭和28年10月 安居会歌会の席上S君に向つて、大変お叱りになつたことがあつて忘れられない。それは先頃も某歌会場で話に出たのであつたが、S君が、﹁万葉集を勉強すると、直接吾人の作歌の上にどういふ風に影響するのでありますか﹂と言ふ意味の事を斎藤先生に質問したのであつたが、先生はつと座に直立されて、﹁君、そんな事がわからないかね、橘曙覧にしても、田安宗武にしても、平賀元義にしても皆万葉を宗として勉強したのであつて、あの様な人々に皆よい歌があるのではないか、近くは正岡子規の如き、左千夫先生の如き皆さうなのだ。わかつたか君!!﹂と、いふ様な風に言はれたのに対して、S君は下を向いたきり一言の応答をしなかつた。すると斎藤先生は顔の色を変へて、﹁君わからないのか、これ程僕が言うてゐることをわからないのか。﹂と、言はれながら、座を離れて会場の真中まで出て来られて、大喝S君を叱りつけられた。その時の先生の語勢、剣幕に一座はしんと静まり劫つてしまつた。 山田良春﹁第七回安居会と斎藤先生﹂ 昭和28年10月 先生のかなしい顔を仰ぐと、直感、私は安心におちいつてしまうのが常だつた。無邪気になれた。勝手気儘な世間話をしあつた。浅草の話。うなぎの話。娼婦の話。国際情勢の話。歌の話。蚤の話。、等々。斎藤茂吉ほど素朴な“人物”を私は知らない。 ﹁茂吉さんは気魄の人だよ﹂いつもこう語る今井部長は、かつて先生の名随筆﹁仏法僧鳥﹂﹁虫類の記﹂などを紹介してきた仲であるだけに、戦後も先生の様子を案じ、多忙な自身の代わりに屡々私を伺わさせた。 来客を好んだ先生は、私をもよく引きとめて、日の暮れるまでも雑談の雰囲気を好んだ。そのくせ、先生自身は疲れてくると居眠りをはじめる。だから、帰らうとすると、ふと眼をひらいて﹁君。まだいいだろう、居給え。﹂と言う――瞬間、いうに言われぬ寂しい気持になるのである。 それほど人を好んだ先生が、晩年、医師から面会を十分以内に︵それも成可くは避けるように︶と注意されて、一室に、閉じこもりがちで過ごされた気持はどんなであつたろうか。 私たち編集者は、先生のあの特有なとぼけにはてこずつたものである。原稿の注文を受ける時の先生は、おそろしく慎重なのだ。ともすれば話題を、あらぬ事に外らしてしまう。いゝ加減につきあつていると、突然言葉を改め﹁君、先刻の原稿の件、勘弁してくれ給え﹂とピシヤリとくる。まんまと茂吉的応待法に引つかゝつてしまう編集者も少くなかつた。斎藤茂吉に対するとき、いゝ加減な会話は禁物である。純心率直に向かわねばならなかつた。 若月彰﹁茂吉と青年記者﹂ 昭和28年4月
明治29年 大正9年 昭和25年6月
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