長塚節 ︻ながつか・たかし︼ 歌人、小説家。明治12年4月3日〜大正4年2月8日。茨城県結城郡岡田村国生に生まれる。長塚家はこの地方の豪農。正岡子規の﹁歌よみに与ふる書﹂に感銘を受け、明治33年、子規の門下に入る。写生の歌と万葉集を学び、やがて独自の写生論へと到達する。明治36年、根岸短歌会の雑誌﹁馬酔木﹂を創刊。伊藤左千夫らとともに編集に参加し、歌作に歌論に活発な執筆を続ける。また、写生文や小説にも筆を染め、明治43年、長篇小説﹁土﹂を発表。当時の読者からは不評だったが、現在では農民文学の最高傑作との定評を得ている。明治44年、喉頭結核に罹ったことをきっかけに、従来の客観叙景歌から叙情歌へと作風を変化。入院中から死の直前まで書き続けた﹁鍼の如く﹂︵大正3〜4︶では、鋭く冴えた感覚による澄明な歌境が展開されている。大正4年2月8日、死去。享年35歳。代表作は﹁炭焼のむすめ﹂、﹁初秋の歌﹂、﹁土﹂、﹁病中雑詠﹂、﹁鍼の如く﹂など。 ︹リンク︺ 長塚節@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 長塚節@文学者掃苔録図書館 著作目録 短歌・俳句 ‥ 発表年順 写生文・小説 ‥ 発表年順 歌論 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 幼少の頃の長塚さんは非常な剽軽者であつて、誰でも笑はせられたと云ふ。小学校には、家から三里許り離れた処に泊つて通はれたさうであるが、其近所の髪結女が、今でも長塚さんの顔を見ると、其頃の長塚さんを、思ひ出してクス〳〵と笑つたさうである。 天性、絵を見る事が何より好きであつたが、家庭からは芸術的教育は何も受けなかつたと云つて居られた。 中学校に居る頃は機械体操が得意で金棒に向へば思ふ様に身体が動いて、如何な難しい業も安々とやれたと云ふ。身体は痩せて居たが骨格の逞しいのを誇つて居られた。 長塚さんは十七歳になつた正月元日に、﹃お前はもう十七になつた﹄と、お父様から云はれた時非常に驚いたさうだ。其時の話をして ﹃自分はもう十七になつた、さう思つた時のあの驚きは、一生の中にありません﹄と真面目で云はれた。 ﹃何故そんなに驚いたんですか﹄と聞いても ﹃たゞもう……たゞ驚いて仕舞つたんです﹄と云はれる丈で、説明が出来なかつたらしい。 是は長塚さんの一生の中の大事件なのに相違ない。 門間春雄﹁長塚さんのことども﹂ 大正4年6月 長塚さんは、隠れたる古代美術の研究家であつた。古代美術品に接して、長塚さんの受けた歓興は、如何なるものであつたかは、遂に窺ひ知る事は出来ないが、卓越せる見識を有して居た事はたしかで、博士先生の説も意に合はなければ、痛快に罵倒せられた。高山博士が、奈良の法華堂を見た時に十五分間にして去つたと聞いて、﹃あの偉大なる芸術品に接して、僅か十五分間で立ち去る事が出来ますか、それで真価が解りますか、文章を巧に書いて居ても、古代美術から受けた歓興は、たしかに浅薄です﹄と憤慨せられたのであつた。 其方面の研究を、書く様にと我等は再三勧めたのであつたが、いつも﹃私は、其方の智識は全くないのです、たゞ、見て居る丈で充分なのですから﹄と云ふのみであつた。 ○ 長塚さんは、実に徳の高い人であつた。郷党にまで其徳が及ぼして居たと云ふ事は、驚くべき事である。 長塚さんが旅行をして、暫く留守になると、村の青年共は、髭の毛を長くしたり、明笛を吹いたりするけれど、若旦那︵村で単にそう云へば、長塚さんの事であるが︶帰つたと云ふと、急に謹慎をする。然し、青年共にたゞ一度も、小言などを云つた事はなかつたのだと云ふ。 村の盆踊と云ふのは、実に風儀の悪いものであるが、長塚さんが監督をして居ると、男女手を取る者もなく、其一令の下に従つたと云ふ。名門の如からしむる所であるが、長塚さんの人格に依るのである。田舎に居る自分にはつく〴〵思ふ事である。 門間春雄、同上 長塚さんには小江戸といふ看護婦が付添つてゐた。稚か〳〵しくて心の素直らしい娘であつた。そして少し美人であつた。長塚さんは小江戸を可愛がつてゐた。そして頻りに小江戸を相手にして揶揄つてゐた。揶揄へばからかふ程小江戸は小さくなつて入口の小さい部屋の隅に屈んでゐた。それでも揶揄ふことを止めぬ時は小江戸はそつと部屋を抜け出して姿を隠してしまつた。長塚さんは小江戸が真実によく看病してくれる事を時々話して聞かせた。この揶揄は何時行つても大抵は行はれてゐた。﹃長塚さんは私では不可︵いけな︶いんです。何とかさんでなくては不可いんです﹄と何とかさんといふ看護婦の事を小江戸は僕と長塚さんと二人に向つて言つて聞かせた。小江戸の寝言を長塚さんが聴いたといひ、小江戸は寝言なんか言やしませんと否定してゐた事もあつた。長塚さんは女を揶揄する事は上手であつた。夫れは卒直に言ふと長塚さんに色気がないからであつた。長塚さんは女に興味を有つてゐる方であつた。長塚さんの旅行に女の逸話のない施行は稀であらう。手紙を調べて見ても女にやつた手紙は中々念入りに書いてゐる所がある。それでゐて如何なる女に対しても必ず一段高い自己の地歩を確かに踏み占めてゐて其段上から女等を眺めてゐる。之れが長塚さんの特徴である。 島木赤彦﹁長塚さん﹂ 大正4年6月 でもとにかく十二月の中旬までは格別の事もなく、朝、教授の診療が始まる前に診療室の暖房の側に腰を下して、私たち相手にいろ〳〵の話をする、其横顔を見ると随分やつれてさびしさうに血色もよくはなかつたのですが、すこし嗄れた声に力を入れて、大にほめるか大にくさすか、明確な調子で談話は次から次へ続くのが常でした。とにかく珍しい談話好きでした。回診して忙しい時でも一二時間位はすぐ引とめられてしまう。病室の廊下で日向ぼつこをしながら通りすがりの私たちに﹁今日はあの松の木に三度蝉がきて鳴きましたよ﹂位の事を云つて話しかける。私の宿直の晩などは吸入の帰りに宿直室に来て、十時位までは平気で話込むのが例でした。日曜などには饅頭などを包んで来訪される。談話は好きなばかりでなく上手でした。﹁佐渡ヶ島﹂﹁土﹂などの話、奈良京都の美術や、諸国の風景、座禅の事、静坐法の事、話の範囲は広くは無いが何でも実際知つてること真実感じたことを話されので私などはお蔭で随分啓発されました、たしかに死にたくなかつたらしい風で﹁もう十年生きたい﹂は毎度聞きました。そして書きたいと思ふ小説の材料を幾つも幾つも話されました。そんな時には医師や周囲の人が見離したやうな病人が全快したといふやうな例を並べて自分で安心するといふ風でした。 曽田共助﹁長塚節氏の事﹂ 大正4年6月 バントポンの注射とルミナールとは非常に悦ばれた。子規先生の時にもこんな良い薬があつたならばあれ程迄に苦まれなかつたらう。といつていつも当時を追想して嘆息された。神経の亢奮は漸時軽快したが病の増進は取止様もなかつた。父君は臨終まで手を尽して看護された。久保博士も曾田西巻の両博士も毎日回診された。八日午過になつて顔や足の甲が一面に浮いて来た。夜暁頃に大層苦しかつたそうで僕の処へ使をやらうとしてゐられた。自分は病の進んだのに驚いたが何喰はぬ顔で顔が少し膨れて居ますねと云つたがたゞそうですかと答へられたのみだつたが其顔に失望の色が確かに認められた。お通夜の晩に付添の婆に聞いたが其晩は常よりも一層落ち付かれて念仏を称へて呉れそしたら楽に寝られるからと何度も云はれたそうである。夜の十時に再診した時数日前から熱望してゐられた柿が東京からついたものだからそのうちで柔い奴を択つて上げたが三つばかりうまいといつて喰はれた。それから河内が柿の名所たることや甲州で葡萄畑を見た話をされたが声が低いので皆はよくきゝとれなかつた。父君だけは同じ病室で其晩宿つて貰つた。 翌朝来た時は既に昏睡状態で遂に不帰の客となられたのは返す〴〵も名残惜しい事であつた。 高崎義行﹁入院前後の長塚氏﹂ 大正4年6月 一つ違ひで、兄は明治十二年四月三日の生れ、私は十三年の七月二十二日です。これは後で聞いたのですが、兄は三つの時にはもう百人一首を沢山憶えてゐたものださうで、其頃新聞に神童として持囃された事があつたと云ひます。それから絵本などが好きで切りに人に話させたものだそうです。この頃でこそ沢山あんなに子供雑誌も出来てゐますが、当時のことですから素より昔の戦さ人の絵草紙とか絵紙とか云ふものの外ありませんでそれをせがんで説明させては又憶えて、人にも話して聞かせたものださうです。 学校へは七つで上る新しい規則が出来てゐましたが、兄は年の足りないうちから入つてゐました。 一つ違ひで居ながら兄貴の方は今の几帳面で、子供の中から決して着物も汚しません。私の方は普通の田舎の子で土をいぢる土をぶつつけるで始終汚して許りゐる始末に、余程大きくなつてからでもよく母から﹃お前は如何してさうだらう、兄さんは少しも汚さないが﹄と云つて度々叱られたことを今でもよく憶えてゐます。︵中略︶ 小学校の頃も学科は何でもよく出来る。絵を描いても百点でした。それでゐて別に勉強はしない。その頃、幼年園と少国民といふ雑誌を読んでゐましたが、小学校では一寸早い方でしたでせう。つひに何時も一番。卒業も一番。兄は学校でやる勉強はしない方でしたから、卒業の時は勉強家のS――といふ友達が一番だらうと云はれてゐましたが、結局兄が一番でした。 長塚順次郎﹁家兄の想出﹂ 大正14年12月 長塚君は毎年一二ヶ月は必ず旅に出られた。その旅装の簡単なるが如く、旅行も亦頗る平民的なものであつた。佐渡旅行でも、木曾旅行でも、ゴザをはためかせ菅笠を傾けて、ほんとに足に苦労をかけたのである。一日の旅費は平均五十銭。時には寺に泊り時には商人宿や木賃宿にも草鞋をとかれた。木賃宿で羅宇屋と泊りあはせたことや、道者と合宿になつて面白い話をきいたことなどは、しば〳〵私どものきいた事である。故に君はよくこんなことを言はれた。﹁ほんとに足に苦労をかけた者でなければ、旅行の真の味はしるまい。旅行の趣味は回想にあるのだから、思ひきつて難儀をするとその趣味の度は徒つて深い。宿をとる時などでも、宿料の割引をさせて投宿することにすれば多少冷遇された所で、腹をたてる必要がない。﹂君は実際この通りやつて居たらしい。汗になつた下着を木曾川の水で洗つて、その乾く間岩のかげにゴザを敷いてねて居たことなどもあつたといふ。名物を買ふこと、絵葉書を出すこと、神仏のお守をむかへること、これが旅中に於ける君が唯一の道楽だつた。酒ものまず煙草もきらひな君には、この外の道楽はなかつたらしい。 橋詰孝一郎﹁思ひ出のかず〳〵﹂ 大正4年6月 明治三十八年の大旅行には、木曾では着衣を川で洗つて其乾く間、裸体で草の上に寝てゐたさうだ。又或山間の村の小学校へ行つて器械体操をして山の少年を驚かしたといふ話もある。こんなにして健康を誇つたのにあの病気になつたのである。 病気のほんとうの原因はどうしても土を書いた時、無理をしたのにあるらしい。土は村の小学校の一室を借りて書いた、その時木製の腰掛に長くかけ通したので痔瘻といふ病気になつたといふ消息に接したとき、自分はすぐに結核といふことを想つて戦慄した。故老の言ひ伝へに痔瘻を癒せば必ず労症になるといふことがあるからであつた。そうして長塚さんはほんとうにさうなつたのである。︵中略︶ 長塚さんが医師から死期︵一年︶を宣告せられたときの感想を談されたことがあつた、今でもあの深刻な顔つきと﹁人の通るのも見える、電車の行くのも見える、併しもう、何もかもしいーんとして一切音といふものがない﹂と云つたその﹁しいーん﹂といふ形容のあたり、目のあたり髣髴として森厳な心持が起る。 平瀬泣崖﹁長塚さんのこと﹂ 大正4年6月
明治36年 明治39年 大正3年
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