坪内逍遥 ︻つぼうち・しょうよう︼ 小説家・劇作家・評論家・翻訳家。本名、坪内勇蔵︵雄蔵︶。安政6年6月22日︵旧暦5月22日︶〜昭和10年2月28日。岐阜県加茂郡太田宿に生まれる。幼少の頃より歌舞伎の名古屋公演や近世末期の戯作類に親しむ。愛知英語学校時代、米国人教師よりシェイクスピアの講義を受け、感銘を受ける。明治16年に東京大学文学部を卒業後、東京専門学校︵現早稲田大学︶の講師となる。明治18年、評論﹁小説神髄﹂を発表。心理主義的写実主義の原理と作法を体系的に説くもので、同時代、後代の文壇へ多大なる影響を与えた。さらに理論の実践として小説﹁当世書生気質﹂︵明治18,19︶を発表し、江戸戯作から近代小説への架橋の役割を果たした。明治24年、﹁早稲田文学﹂を創刊。同年から翌年にわたって森鴎外と没理想論争を繰り広げた。また、﹁桐一葉﹂︵明治27,28︶などの戯曲やシェイクスピアの紹介など、演劇の近代化に果たした役割も大きい。昭和10月2月28日、気管支カタルにより死去。享年75歳。代表作は﹁小説神髄﹂、﹁当世書生気質﹂、﹁桐一葉﹂、﹁義時の最期﹂など。 ︹リンク︺ 坪内逍遥@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 坪内逍遥@文学者掃苔録図書館 著作目録 *準備中* ◆坪内逍遥@青空文庫 ◆坪内逍遥@近現代日本文学史年表 回想録 君の身体は貧弱で、文学者の常として長らく不眠症に悩み、眠薬を借らず快眠を得ることは一週一回も無かつた。それに加へて胃酸過多症に累せられて数年悩んだ。而かも君の気魄は此等に屈することなく、講演は常に聴者を陶酔せしめ、君一流の朗読は幾千の聴衆に対し三時間も続けて、毫も倦色なく、能く徹したのは、古稀翁の業としては驚くの外は無かつた。 君は余命のあらん限りを芸術に捧げねばならんと深い信念を持ち、前年熱海で大患に罹つた時などは、恰かも自作のペーゼントを町に演ぜしむる場合であつたので、瀕死の病人が床頭に三味線を引かせて自ら指導をした。今度の病患も一旦癒へたが、愈後静養が必要であるのに、新修沙翁全集の内書き直すべき所があるので三十七八乃至三十九度の発熱を意とせず、汲々筆を絶たなかつた。其努力で到頭末巻まで訂正し得たが、斯の如きは、普通人間の到底企及し得ない所である。 市島謙吉﹁逍遥博士を悼む﹂ 昭和10年4月 あのとき、無礼な一文学青年だつた自分が、 ﹃先生は、お子さんもなく、御養女くに子さんのために選ばれた甥御の、士行さんはあんなふうに、他の女の人と結婚してしまはれるし、くに子さんも、よそへお嫁にやつてしまはれて、あとはどうなさるんですか﹄ と、実に失礼なことを伺つた。 ﹃くに子は別に、あとをどうと思つて貰つたのではない。君、人間は淋しいものだよ本来がね、けれども、淋しいといふことも観念の問題だ。私たち老夫婦が、こゝにかうして朽ちはてゝゆく――それでいゝではありませんか。若いものは、したい恋をして、勝手に生きて行かなくてはなるまい。坪内雄蔵は、一塊の土となつて、腐つてゆく、それだけのことさ。たゞそれだけ﹄ さうしたお言葉が、その頃の私には、なんだか、ニヒルじみて、よく判らなかつた。 ﹃生きてゐるから書きたいものを書いてゐる。これは、人に頼まれたからやるでなく野心があつて、希望に駆られてやる仕事でもない。たゞ気の向くまゝにやるんです。世の中のために――とか、名誉のためにとか、そんな功利的な考へは毛頭ない﹄ さう云つて、さも不味さうにお茶を飲んでゐられた。 ﹃芸術は好きだ。私は、芸術に仕へる老ひたる番人の一人です﹄ そんなふうなことも言はれたと記憶する。 岩崎栄﹁嗚呼双柿院始終逍遥居士﹂ 昭和10年4月 有体に云ふと、坪内君の最初の作﹃書生気質﹄は傑作でも何でも無い。愚作であると公言しても坪内君は決して腹を立つまい。︵中略︶﹃書生気質﹄や﹃妹と背鏡﹄は明治かぶれのした下手な春水ぐらゐにしか思はなかつた。 私のやうな何にも知らないものさへ実は此位にしか思はなかつたのだから、其の当時既にトルストイをもガンチヤローフをもドストヱフスキーをも読んでゐた故長谷川二葉亭が下らぬものだと思つたのは無理も無い、小説に関する真実の先覚者は坪内君よりは二葉亭であると云つても坪内君は決して異論無からうと信ずる。私は公平無偏見なる坪内君であるが故に少しも憚からずに直言する。 けれども﹃書生気質﹄や﹃妹と背鏡﹄に堂々と署名した﹃文学士春の屋おぼろ﹄の名がドレほど世の中に対して威力があつたか知れぬ。当時の文学士は今の文学博士よりは十層倍の権威があつたものだ。其の重々しい文学士が下等新聞記者の片手間仕事になつてゐた小説――其時分は全く戯作だつた――其戯作を堂々と署名して打つて出たといふ事は実に青天の霹靂と云はう乎、空谷の跫音と云はう乎、著るしく世間を驚かしたものだ。︵中略︶ 坪内君の世間に及ぼした勢力は非常なもので、苟くも文芸に興味を持つた当時の青年は、﹃文学士春の屋おぼろ﹄の名に奮起して身を文壇に投ずる志を立てた。例へば二葉亭の如き当時の造詣は寧ろ坪内君を凌ぐに足るほどであつたが、ツマリ﹃文学士春の屋おぼろ﹄の為めに崛起したので、坪内君莫かつせば或は小説を書く気には一生ならなかつたかも知れぬ。又﹃浮雲﹄の如き世論﹃書生気質﹄以上であるが、坪内君の合著の名で無かつたなら出版する事は出来なかつたのだ、出版しても恐らくアレほどに評判されなかつたらう。 尾崎、山田、石橋の三氏が中心となつて組織した硯友杜も無論﹃文学士春の屋おぼろ﹄の名声に動かされて勃興したので、坪内君が無かつたなら唯の新聞の投書ぐらゐで満足してをつたらう。紅葉の如きは二人とない大才子であるが、坪内君其の前に出でて名を成したが為めに文学上のアンビシヨンを焔やしたので左もなければ矢張世間並の職業に従事してシヤレに戯文を書く位で終つたらう。従来片商売として扱はれ、作者自身さへ戯作として卑下してゐた小説戯曲等が文明に貢献する大なる精神的事業である事を社会に認めしめたのは全く坪内君の功労である。 内田魯庵﹁明治の文学の開拓者﹂ 明治45年4月 坪内先生は三味線を弾かれたが、とてもデタラメなものだつたさうだ。然しあの先生が三味線を持たれた姿を想像すると、誰しも微苦笑せざるを得まい。況んや先生は普通の人の場合のやうに、三味線を弾いて都々逸でも歌はうと云ふのではなく、凡そ舞踏劇を書く者は、音楽にも通ぜざるべからずと云ふ理論から出発されたと見るべきであるだけに、一段とユーモラスである。先生が上手に三味線を弾かれようとは、誰も想像も出来ない。それを一応やつて見ようと思ひ立たれた所に、先生の何事にも徹しようと云ふ真剣味が現はれてゐるではないか。 三味線は一度は手に持つたが、踊ることは一度もなかつたと、先日も坪内士行氏が云はれたが、先生の事だから一度は自分でも踊らうと思ひ立たれたに相違ない。或は一度で懲りられたのかも知れない。その為めであるのか、劇の稽古には先生は立つてシグサをして見せなすつたが、をどりの振付には、そんな事はなかつた。﹁そこはもう少し柔く行けませんか﹂とか、﹁そこはもつと驚く振をつけた方が好い﹂と云ふ風に、極めて抽象的な暗示を与へられるに過ぎなかつた。尤もこれは私が傍で目撃した最近年の事で、文芸協会時代には、或は或る程度まで手を振り首を振られたかも知れぬ。 小寺融吉﹁坪内先生と舞踏と﹂ 昭和10年4月 坪内君が小説とか、芝居とか云ふ事に就て新生面を開いたのは云ふ迄もない事であるが、今日小説家、又は芝居の作者の地位を高めたのも全く坪内君のお陰であると云はれない事はあるまい。坪内君が﹁書生気質﹂を書いた以前の小説家と云ふ者は所謂戯作者であつた。一九も然り、種彦も然り、三馬も亦さうであつた。唯馬琴だけが多少見識を持つてゐて、それを振り廻した位なものである。︵中略︶其処へ坪内君が現はれて、戯作者変じて小説家となり、小説家と云ふ者は文学上頗る尊重すべき者であると云ふ事が始めて世の中にわかつたのである。又芝居の作者にしたところでその通りで、坪内君の出る前に最も著名であつて、今も尚その書いた物が屡々舞台で演ぜられる河竹新七、即ち黙阿弥翁は、始めは純然たる芝居の作者であり、役者の前に常に頭を下げてゐた。然しながらあれだけの人であるから始め小団次に知られ、続いて菊五郎、団十郎、左団次等の演ずる物を書いてゐる中にだん〳〵地位が高まつて、役者と対等に扱はれる迄になつたけれども、それ以上と迄は行かなかつた。又福地桜痴居士の如きは福地源一郎と云へば泣く児も黙る程の新聞記者であり、政治家でもあつたのだが、その方面を退いて芝居を書く様になつてからは、団十郎あたりから顎で使はれる様にならなかつたとは云へなかつた。其処になると坪内君の見識は大した物であつた。坪内君は芝居を書くが、決して役者と交はらなかつた。終ひに役者の方から頭を下げて教へを乞ふ様になつて、始めて両者の交際が開けたのである。 高田早苗﹁文芸家としての坪内君﹂ 昭和10年4月 坪内君は又教鞭をとつてゐる傍ら、新劇運動に手を着けて、遂に文芸協会を創立するに至つたことは、之又何人も知るところである。而して坪内君の新劇運動は、早稲田学園関係者の一部から睨まれて、多少の圧迫を蒙つたことがあるのみならず、私までも相当迷惑したのであつた。例へば評議員の一人たる犬養毅君の如き、苟くも学校の教師たる者が、芝居のことに関係し、剰さへ学生に白粉をつけさせて、役者の真似をさせるといふやうなことはもつての外のことであると、私に向つて議論したことが一再ならずあつた。然るにさういふ考を抱く人も、坪内君の真面目な態度に打たれて、段々了解するやうになり、遂に早稲田に演劇博物館まで出来るやうになつたことを考へると、私としては殆んど隔世の感がある。 高田早苗﹁早稲田学園と坪内逍遥﹂ 昭和10年4月 僕の学生時代には特殊研究と云ふ課目があつて、特志の学生だけが選んで聴ける制度になつて居り、坪内先生はシヨウ研究と云ふ学科を担任して居られた。同級の広津和郎君に勧められて、僕も此のシヨウ研究に加はつた。︵中略︶始め学校の教室でやつてゐたのだが、生徒が少いので坪内先生が﹃私の家でやる事にしよう。お茶位あげますよ。﹄と気軽に云ひ出され、途中から先生の大久保のお宅へ揃つて上る事になつた。 僕たちがいつも通されたのは奥の六畳の部屋で、本箱が三つ四つ置かれてあつたが、無論先生の書斎ではないらしかつた。その硝子張の本箱の中に、その頃文壇へ出たばかりの家兄潤一郎の処女作集﹁刺青﹂がはいつてゐた。潤一郎は個人的に坪内先生を知つてゐない筈だが、それでも或ひは先生に著書を献じたのか知れないと思つて、或る時聞いてみると、潤一郎は贈つた覚えはないと云ふ。してみると坪内先生は此の若い作家の著書をわざ〳〵買ひ求めて読まれたと思はれる。文壇の耆宿と仰がれる先生程の老大家が文学に対してまだそんなにも熱意を持つて居られるのを見て、僕はすつかり恐れ入つた。︵数年前、先生がマルキシズムの文学理論を書いた著書を沢山買ひ込んで勉強されたと云ふ噂と聞いた。これもおそらく事実だらう。新しい文学運動などにまるで無理解な文壇の先輩が少くない世の中に、何と云つてもこれは後進に執つて有難い話である。︶ 谷崎精二﹁追憶二三﹂ 昭和10年4月 もし、戯曲の技術からいへば、後の岡本綺堂氏の方が軽妙であるだらう。先生の大阪落城物にしても、鎌倉の悲劇系統の物にしても、可なり灰汁があつて、野暮つたいものだ。しかし、明治三十年以前に、日本在来の歌舞伎劇と沙翁劇とを参酌して、あれだけの試みをした者は博士の他にない。︵中略︶ 私は嘗て先生から親しく﹁名残の星月夜﹂が上演された時、大向から――否な大向からばかりではない――見物席から、非道い半畳が飛んで、﹁馬鹿博士!﹂とまで口汚く罵られた残念さを洩されたことがあつた。 事実、あの大船の中での尼将軍と実朝との長ぜりふには、一般の見物はまゐつてしまふであらう。だが、尼御台と実朝の実情をいへば、あんなものであつたらう。それで私は思つた。芸術の創作は困難なものだ。あの複雑錯綜した鎌倉三代の悲劇の表裏を遺憾なく見物に納得さするには、あそこまで物語らせないと、殊に坪内先生の如き念には念を入れる性質の人には気が済まない。私は、﹁名残の星月夜﹂を、何とかもう一と工夫して、先生の生前に上演する日があるのを、ひそかに待つてゐたのだが、終にその時は来らずして、先生は死んで逝かれたのだ。 近松秋江﹁坪内逍遥先生片鱗﹂ 昭和10年4月 坪内先生は、私の原稿を細かく読んで下さり、例へばこういふ意味の重大な注意を与へて下すつた。一旦作品の中に登場した人物がどこかでスーと消えてはいけない。必ず結着ある退場をするやうに描がかれなければならないし、又スーと立ち消えるやうな重要性のない人物がドタ〳〵作品の中に出て来ることはよくない、と。 これは、あらゆる時代に小説を書く上での意味ある注意として役立つものであらう。 先生は、その時に、小説に師匠はいらぬ。お前はお前のやりたいやうにやつて行け、といふ意味のことをも云はれたと思ふ。何しろ十八や九の小娘が小説を事き出し中央公論に発表されたと云つても、謂はゞ芸術家としてそれはまだ海のものとも山のものともつかず、前途は茫漠としてゐる。先生は、人生の練達者であられたから、恐らく様々な複雑困難な、日本の社会では特に女にとつて面倒な将来の永い路を見とほされて、大乗的激励を与へて下さつたのであつたらうと思ふ。 中条百合子﹁坪内先生について﹂ 昭和10年4月 併し、血縁の者として、私がやめてくれたらなァ、と思ふ事も事も相当ある。それは、他人はみんな感心もし、褒めもするけれど、教室で講義の時の身振りや表情、それから芝居の稽古をする時に立つて行つてして見せる事、この二つはやめてほしいと云ひたかつた事が何遍もある。成程シエークスピヤの講義を身振り表情入りでするのは天下一品でもあり、決して悪い事ではないが、私から見ると、それがあんまりうまくない。朗読だけは自負してゐた通り上手だ。九代目団十郎に負けぬ声量と変化とをもつてゐた。併し、身振りと表情はうまくない。が、私こそハラ〳〵して見てゐるものの、それがそれ例の熱心さ。見る者聞く者は、その手つきの不器用さや表情の滑稽さを感知する前に、まづ其の熱に圧伏させられてしまふ。あれよ〳〵と驚嘆し魅了させられる。第一あの講義から、あの表情から、意気込みを抜いたら見てゐられなかつたかも知れない。下手な寄席芸人の芸以下に厭味なものになつたかも知れない。と同様に、芝居の監督をする時に、よく舞台へ上つて行つて自身にやつて見せた。︵中略︶淀君狂乱の笑ひでも、傍の見る目、芸の巧拙などは全く意中におかずに、それこそ当人が気違ひになつたのではないかと疑はれるまでの夢中さで、大きな口を開いて、不器用に手を振り回して﹁アハヽヽ﹂、﹁オホヽヽ﹂と笑つて見せる。こつちこそ笑ひたいのだが、それがそれ例の熱心さ。︵中略︶あの意気込みには全くかなはない。 坪内士行﹁叔父逍遥の思ひ出﹂ 昭和10年4月 昨年の重患後の衰弱がまだ回復し切らないのに強いて筆を進められたシエークスピア新改訳が、先生の生命取りになつたやうなものだが、御自分では本懐であられた事と思ふ。先生には﹁生命﹂あつての﹁仕事﹂でなく、﹁仕事﹂あつての﹁生命﹂だつたからその﹁仕事﹂を仕尽す為めには﹁生命﹂の蝋燭の火の最後まで燃え尽すのを敢て意に介せられなかつたのであらう。﹁大悟徹底﹂の境地とは、こんなもんではないか? と、自分は今更しみ〴〵考へさせられるものがある。 ﹁己はジヤーナリストだ﹂と、先生は口にされてゐたが、あの高齢で、翻訳の仕事を抱へ込んでゐる外にも、創作やら、論文やら、随筆やら、筆まめに書きつゞけられる。その上、自作上演の場合などは、劇場へ出かけて、演出監督まで買つて出られる。﹁老而益々壮﹂の権化のやうにも見えたが、﹁あんまり粘ばり過ぎだ﹂﹁もう解脱されても善からう﹂そんな囁きも後進の間に聞かれぬではなかつた。先生自身も何かの機会に﹁己は何うも解脱出来ぬ人間だ﹂と洩らされた事がある。 中村吉蔵﹁坪内先生に就いて﹂ 昭和10年4月 先生が当時腑に落ちぬことがあつて、卒然早稲田大学の教授を辞され、熱海の地に韜晦された時の如き、何人も是を惜んで留任を請うたが、頑として動かれなかつた。またある時期以来宴席等社交の会へ一切顔を出されなかつたことも、往々潔癖過ぎると云はれる程徹底したものであつた。西園寺公が時の文壇人を招いて雨声会を催した時の如き、平日はかなり是等の門閥貴族を白眼視して居た文豪詩傑さへ、理屈なしに喜んで走せ乗じた。此間に在つてピツタリ断つて一度も顔を出さなかつたのは先生であつた。それなら先生は友と会して盃を交すことを欲しない人であつたかと云ふと、必しもさうではなかつたらしい。門下生が集つて先生を中心とした小羊会の如き場合は、趣向をこらして宴を設け、恐縮する程斡旋の労をとられて如何にも愉快さうに見える時もあつた。而し一端かうと定めたことは、誰が何と云つても槓杆でも動かうとされない。頑固な老爺と云ふ陰口のあつた所以であらう。殊に晩年は益々この性行が鮮かであつて、人によつてはまるで腫物にさはる様にヒタ恐れに惧れて居た人もあつたらしい。 宮田修﹁モーラリストとしての坪内先生﹂ 昭和10年3月 先生が、明治十四年以来手をつけてゐた﹃小説神髄﹄は明治十六年に一先づ脱稿したが、それを更に練つた上、十八年三月いよいよ発表されることになつた。そこで先生の流儀としてたゞ理論をのみ投げ出すことはせず、その理論を実行したものとして、新作﹃当世書生気質﹄をも併せて発表することにした。ところが、出版書肆の都合で﹃神髄﹄の方は三月に発表されず、九月に及んで漸く出版されたので、理論が先で作品が後といふ順序が狂つて、作品が先で理論が後といふことになつた。 ﹃書生気質﹄は当時小説改良の機運が動いてゐた為めと、時代の注目する書生階級の生活を描破した点と、作者が文学士だといふ点が、口をきいて、大にうれた。その人気のあるところに﹃神髄﹄を出したのは、却て策の得たものであつたかも知れない。 ﹃神髄﹄の排勧懲主義、写実中心の新しい文学観が大きなしつかりした勢力となるには多少の時日を要した。然しそれは、公にされた当時かうして読む人々の心に革命的ショックを与へたことは事実だ。︵今煩を厭ふて一々引証しない︶。前にもいつたやうに当時文学改良の意識は動き、この試みもぽつぽつ出かけてゐた。然しその改良といふのは、当時の文学と遊離しかけに来た勧懲主義目的主義を更に徹底させるための改良であつた。そこへもつて来て、同じ文学改良の機運に乗じて出た﹃神髄﹄が、勧懲主義を否定して根本的に文学観を新なものにしやうと企てたのだから、読む人が大に驚いたのも無理はない。 柳田泉﹁逍遥先生神髄﹂ 昭和10年4月 大正十二年のあの大震災の当日から五六日たつてであると思ふ。私は当時住んでゐた日暮里から、上野へ出て、銅像前から下谷浅草一円の荒廃の彼方に、隅田川が太古の姿のやうに悠々と流れてゐるのを眺めやつて、茫然として、当時の雑多な人々の往き交ふ街路を万世橋の方へ歩いて行くと、向ふから洋服姿の坪内先生が颯々と歩を運んで来られるのを見掛けた。何処へいらつしやるのですかとお尋ねすると、今日は丸の内の方から丸善へ廻つて、どうなつてゐるか見て来たが、いやどうも言語に絶したものだ、この自然の大破壊を機会に総ての立て直しをやらなければ駄目だ。先日君に約束したものは書いて置いたから、いつでも取りにおいでなさいと言はれて、江戸川縁に沿うて、聖堂の方へ曲つて行かれたのを、私は暫く見送つてゐた。総ての立て直しをやると言はれた事が、強く胸に響いてゐた。 先生が蔵書一切を挙げて、学校の図書館へ寄附されたのも、それが機会であつた。それまでは外出にも大方和服であらせられたのが、旧に帰られて洋服に改められたのもそれからである。歌舞伎劇の発達史を改めて講義を初められたのも、シエクスピアの翻訳完成に一意専念せられたのもそれからであつたと思ふ。決意と決行との風発迅速の姿は、いつもの事だが周囲の者を驚かすばかりに進展して行つた。 吉江喬松﹁坪内先生追憶﹂ 昭和10年4月 普通の芝居ですと、見物の方に重きを置いて、楽屋の方は何うでもいゝのですが、先生は楽屋や舞台をなるたけ奇麗にして、楽屋にゐる者、舞台に立つ者にいゝ感じを与へるやうにしてをられました。大道具等が埃をかまわず建付けると、先生はそれを咎めて、芸術と埃と一緒にしてはならない。芸をやる者の気分がよくなければ、いゝ芸術は出て来ないと言はれましたが、これなぞは他の人にはない小言でした。︵中略︶ 先生は何か心に思ひ当ると、何時でも場所をかまはず筆をとられた方で、例へば唄の文句等を、ヒヨイと思出されて書変へられるのでしたが、そんな時は別に改つて机に寄られるでもなく、縁台等にちよいと寄掛つてお書きなる、かと思ふと座敷の隅にちよこなんとお坐りになつて筆を把られるといふ風でした。ですから先生のお作りになった唄等は、気分の趣くまゝ思出した時に作られたのじやないかと思ひます。 吉住小三郎﹁坪内先生と私﹂ 昭和10年4月 学生時代にわたくしたちの心に映つた坪内先生はあまり大き過ぎた。島村先生や片上先生ならば、直ぐ近づいて行つて、こちらの愚問でも、一身のつまらぬ話でも平気で持つて行くことができたが、坪内先生に対しては所詮そんなことができようとは思はなかつた。文科の教室は天井の低い、暗い、古ぼけたあばら家のやうな部屋であつたが、そこに先生が、いつも和服で、テキストと出席薄を抱へておいでになる。講壇の上にお立ちになつてゐる姿をつゝしんで拝んでゐるといふのがわたくしたちの心境であつた。実際そのころのわたくしたちの文学上の知識だの常識だのといふものは、今日の青年たちと比較したら、お話にならない程の幼稚なものであつたから、坪内先生と学生たちの間には随分遠い間隔があつたやうに思ふ。ちよつと接近しても見たいが、余り貧弱な自分をかへり見ては近づいてゆくのが恐ろしい。先生の前ではうつかり口もきけぬ。といふやうな考がわたくしたちの頭を支配してゐた。 吉田絃二郎﹁逍遥先生を思ふ﹂ 昭和10年4月
明治18年 明治40年 大正13年
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