田中英光 ︻たなか・ひでみつ︼ 小説家。大正2年1月10日〜昭和24年11月3日。東京市赤坂区榎坂町に生まれる。昭和5年、早稲田在学中、ボートの日本代表としてオリンピックに出場。このときの体験は小説﹁オリンポスの果実﹂︵昭和15︶に活かされることになる。昭和10年2月、友人らと同人雑誌﹁非望﹂を発行し、処女作﹁急行列車﹂を発表。同年9月、太宰治を訪ね、以後太宰に私淑する。昭和12年、召集により中国山西省の最前線に送られ、帰還までの約1年5ヶ月、八路軍の抗日遊撃隊と交戦。戦後の昭和21年3月、日本共産党に入党するも翌年3月に党活動に矛盾と限界を感じて離党。昭和23年6月、太宰治の自殺に強い衝撃をうけ、この頃よりアドルム、カルモチンの服用量が増加し、退廃的生活を送る。翌年5月、愛人の山崎敬子と口論中、誤って下腹部を刺し、四谷署に逮捕される。同年11月、太宰治の墓前で自殺。享年36歳。代表作は﹁オリンポスの果実﹂、﹁地下室から﹂、﹁我が西遊記﹂、﹁野狐﹂、﹁さようなら﹂など。 ︹リンク︺ 田中英光@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 田中英光@文学者掃苔録図書館 著作目録 小説 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 病をえて後、友人早川純三郎氏とともに始めた日本史籍協会の仕事は、経済的にも大いに父を助けるとともに、晩年は精魂をうちこむ心の花園でもあった。この仕事は明治維新の原史料を蒐集整理して活版に付することであったが、八十数巻におよんだ史料のうちその最後の編集が前に述べた﹁坂本竜馬関係文書﹂であつた。父の死後私はこれを重版して知己に配ったが、英光は﹁土佐﹂のなかでこの本につけた私の序文を写しながら次のように云っている。 ﹁私はいま此の兄の父を思う文章を写しながら、その前年、大正十四年の夏なぞ、仕事中の父が病気の為、殊更、暑がって褌一本の裸で、瘠せた肋骨をヒクヒク動かし、喘息にむせかえり、汗を垂しながら、懸命にペンを動かしていた姿を思い出した﹂ 喘息の薬をかぎながら父はよくカードに何か一心に書いていた。それは維新の志士の変名辞典をつくるためだといっていたが、力つきてこれはまとまらなかった。 父が死んでから弟は私の影響を一層つよくうけだした。当時文学青年だった私は弟に﹁赤い鳥﹂を与えたが、彼はこれに投書をはじめてその自由詩や作文がどんどんのるようになった。彼の文学にある詩は﹁赤い鳥﹂で培われたものだと私は思っている。その後のことは発表された彼の作品に多少のデフォルメを加えられてあらわれてくるからあらためてここで云う必要はない。むしろ私はさんざんにあばれ廻った彼の生活のなかに、又死の影につきまとわれてからものすごく書きまくつた彼のなかに晩年の父の姿をみて、彼の文学が一部でデカダン文学だの﹁陰性な自己嗜虐の作品﹂とか云われていることを可哀想に思う。 岩崎英恭︵註、英光の兄︶﹁末弟田中英光﹂ 昭和25年10月 田中英光君は、昭和十年? 早大を卒業して、横浜ゴムに入社した。私は同社の人事の仕事をしていたので、いろいろな世話を焼いた私が面倒を見ていた若い人達の中で一番、背が高く身体もデップリとしていて、しまりのない顔をしているので何だか、坊やみたいな感じがしていた。友人の間では、エイコウと呼ばれて、上役でない限り誰とでも親しくしていた。私だけは、上役でも不思議になついていて私の家へも、よく遊びに来た。そのうち、朝鮮の支社へ転勤させられて、営業部員となっていた。会社の方針では、朝鮮の支社員には、なるべく体力のある人を選んだわけだ。彼はお酒をたくさんのむと、だらしがなくなるくせがあるのか、あるとき、けんかをして、手かどこかに大怪我をして入院したりしたことがあったので、社員の成績としてはわるい方で、そのために、ボーナスを減らされたりしたことがあったので、一、二度助力してやったことがあった。彼が朝鮮で結婚したことは、よほどあとになって私は誰かから聞いた。田中英光君について、鮮かに覚えていることは、昭和十六年頃のこと、横浜の神奈川の八千代という料亭で、私たちのグループを、私がつれて、五、六人で酒をのんでいたことがあった。しばらく飲んで陽気にさわいでいるうちに、田中英光君が急に大きな声をあげて、仁王様のように立ち上ってそばにあった火が入っている火鉢を両手で高くさしあげて同僚の遊佐正憲︵水泳︶めがけてぶつけたことがあった。遊佐君は、たくみによけたので璧にぶつかって、室中、灰だらけになり、そこにいた二、三人のゲイシャ衆が、悲鳴をあげて廊下へ逃げ出した。戦争で焼けて、その料亭はもう無いが、その焼跡へ、私は神奈川トヨタ自動車会社の本社を建てたので、このことは永久に忘れられない。 上野健﹁英光君のこと――横浜ゴム時代﹂ 昭和40年12月 田中英光に酔っぱられてはたまらぬ。もう十年ほど前だが、彼が﹁オリムポスの果実﹂をかいた頃、太宰君と一緒に時々私の家にもやってきたことがある、何しろ六尺の大男で、ボートの選手なので、腕力のつよいことは抜群である。酔って、ほんのちょっと私の家の垣根に寄っかかっただけで、垣根が倒れる。玄関の戸がはずれる。応接室の椅子がこわれる。酔ったいきおいで奥座敷まで入ってきたが、鴨居をくぐるとき頭を少し低めにするほどの大入道なので、子供達が虫を起こしてしまった。しかし御本人は実に無邪気で、つまり大きな甘ったれの子供なのである。 彼の腕力が、いかに凄いものであるかを一度知ったことがある。やはり太宰の家で山岸君達と一緒に飲んで、吉祥寺駅まで行く途中であったが、その途中にあるバス停車場の標識――下にコンクリート堅めの石のついた鉄棒――を片手でぐいともちあげて一町ほども運んだのである。それをもとの位置に戻すために、太宰君と山岸君と僕と三人がかりで、閉口したことがある。とにかく恐るべき力をもっていた。そういう記憶もあるし、近頃は会わないが、色々な風聞もあつて、僕はおそれをなしていたのである。 亀井勝一郎﹁文化の碑﹂ 昭和25年1月 田中英光はムチャクチャで、催眠剤を、はじめから、ねむるためではなく、酒の酔いを早く利かせるために用いていた。︵中略︶一日に三四本のウイスキーを楽々カラにして、ほかにビールも日本酒ものむ胃袋であるから、彼がいくら稼いでも、飲み代には足りなかったろう。いかにして早く酔うかということが、彼の一大事であったのは当然だ。そこで催眠薬を酒の肴にポリポリかじるという手を思いついたのはアッパレであるが、これは、どうしても田中でないと、できない。 今、売りだされているカルモチンの錠剤。あれは五十粒ぐらい飲んでも眠くならないし、無味無臭で、酒の肴としても、うまくはないが、まずいこともない。田中がカルモチンを酒の肴にかじっているときいたときは驚かなかったが、カルモチンでは酔わなくなって、アドルムにしたという話には驚いた。あの男以外は、めったに、できない芸当である。 アドルムは、のむと、すぐ、ねむくなる。第一、味の悪いこと、吐き気を催すほどであるが、田中は早く酔うためには、なんでもいい主義であったらしい。それにしても、酒の肴にアドルムをかじることが可能であるか、どうか。まア、いっぺん、ためして、ごらんなさい。そうしないと、この乱世の豪傑の非凡な業績は分らない。 坂口安吾﹁安吾巷談 麻薬・自殺・宗教﹂ 昭和25年1月 彼は原稿書きも精力的で、事務所に集まってくる青年などにズケズケ苦言をいったり、批判したり遠慮なく大きな音で放屁しながら仕上がった原稿用紙をめくってゆき、その頃発表したいくつかの作品が、﹁エゴイズムを通じてヒューマニズムヘ、ペシミズムをくぐつてオプチミズムヘ﹂の流れがあったために地区の政治偏重主義者からは悪くいわれ、青年たちからも彼の遠慮のないズケズケが不評判で、その頃、事務所にころがりこんできた、昔運動をやったというテロリストじみたWという青年からも憎まれて、Wは彼をおどかすために今までやってきたテロじみたことを、大嘘でこねあげて彼に示威し、Wが﹁田中の奴、ホントにして青くなりやがったへへへ﹂などと私に話した喜劇もそれが﹁こんな男﹂や﹁嘘﹂などに書かれていった。 その後、彼は地区の常駐をやめて三津浜へ去り、私も北海道の炭鉱まで流れてきたが、彼から﹁上京して女の子と同棲しています、ポクは脱党しました﹂という短かい手紙がきたが、その後の彼の反党的と攻撃された作品や、﹁ボクはいまカストリ雑誌に、インラン小説を売りこんでいます﹂などの便りもきて、彼のさらにオチていつた一連の作品、そしてアドルム生酔、自殺、と、私はいまこの感想を書きながらも、私の隅っこのどこかに、まだ彼が残っているようで、ギクッと恐怖を感ずるのだが、今の私は毎日、四千メートルの地底で炭塵と汗と血にまみれ労働を続け、生活の闘いの中で自己の内部の滓を一掃しようと懸命です。 故、田中英光よ。 N地区時代より今日の死まで、あなたの苦脳に疲れた足どりは、私たちの毎日の労働と闘いの中で明るく安らいでいくことでしょう。 関谷文雄﹁沼津時代の田中英光﹂ 昭和25年2月 顔――童顔だった。頭髪を短かくかり刈み油気はなかった。上の部分の髪は少しながくのこしており、時々顔へ垂れてくる。顔に似合った髪型で、おそらく床屋さんで注文をつけて整髪していたのではないか、と思う。こまかい神経がそうした頭髪にもゆきとどいていたのだろう。やはり洒落者だったのだ。顔は映画俳優の石原裕次郎さんに似ている。しかし、決っして美男、色男、二枚目ということではなく、快男子のタイプだった。今日流行のアクションドラマなら、裕次郎さんが適役のように、田中さんはもっと似合う主演者だろう。微笑しても、哄笑しても、爆笑しても、じつに可愛らしく、愛嬌があった。六尺二十貫という巨体が、鍛え上げたボートの選手らしく、腕、胴、足すべて均勢がとれ、日本人としては申し分のない立派な身体であった。ロスアンゼルス五輪大会の早大ボート部の選手として出場、その後は地味に横浜ゴム会社の朝鮮在勤のサラリーマンの道を歩んで、その間小説を書きつづけた。童顔にタテジワをよせて、黙々と机に向かい、いつ陽の目をみるかわからない小説を書き、太宰治にせっせと送っていたのだ。アドルム中毒症のため、顔面筋肉がたるみ、眼の縁がドス黒く隈どられた時期でも、田中さんの目だけは鋭く走り、物ごとのホンモノニセモノを敏感にかぎわけていたのだ。 竹内良夫﹁快男子の風貌﹂ 昭和40年8月 自殺直後――田中さんは太宰治の墓前で自殺し、付近の病院に運ばれた。私は月曜書房の永田さんの報せで、会社から馳けつけた。病室の陰気臭い畳の上に遺体は横たわっていた。もう医師の手も離れ、看護婦もおらず、殺風景な四畳半ほどの室で、永田さんと二人はなにをしていいかわからなかった。遺体は自殺のときの背広姿のままで、そばへ寄るとまだ酒臭かった。出血を目あてにして、ウイスキーをがぶ飲みしたのだろう。田中さんの遺体がいかにも痛々しく、重罪人がうち捨てられたままの格好は私たちにつらかった。デカダン文士、破滅型作家と酒のサカナのようにあつかわれ、それでも人間の善意を信じて生きぬいた、この誠実一筋の作家の、旅路の果てはあまりにも哀れ過ぎた。 やがて、田中さんの母堂、喜代子夫人、実兄などが馳けつけた。棺から足がはみでておさまらず、実兄や私たちで足を折りまげるのに苦労した。 ﹁英光や、英光や……さようなら……﹂ 母堂が泣きじゃくりながら別離を惜しんでいたのが、いまも耳底に残っている。 竹内良夫、同上 Tといふ友人があります。この人は、いま北支に居ります。兵隊さんなのです。私とは未だ一度も逢ったことが無いのですが、五、六年まへから手紙の往復して居ります。五、六年まへにその人は小さい同人雑誌にいい小説を一篇発表しました。私はその小説に就いて或る雑誌に少し書きました。それから手紙の往復がはじまったのです。T君は、朝鮮の或る会社に勤めてゐたのです。一昨年応召して、あちこち転戦して、小閑を得る度毎に、戦争を題材にした小説を書いては、私のところに送って来ました。拝見してみると、いづれも、上出来では無いのです。T君ともあらうものが、こんな投げやりな文章では仕様がないと思ひましたので、﹁実に下手だ。いい加減な文章だ﹂と馬鹿正直に、その都度私の感想を書いて送ったのであります。T君も、ちゃんと出来た人でありますから、私の罵言の蔭の小さい誠実を察知してくれて﹁しばらく小説を書かず、ゆっくり心境を練るつもりだ﹂といふ手紙を寄こしてそれから数回の激戦に参加なされた様子で、二月ほど経ってから、送って寄こした小説は、ぐんと張り切って居りましたので、私は早速、或る雑誌社にたのみ、掲載させてもらひました。その雑誌と、それから雑誌の新聞広告の切抜きとを戦地に送ってやりましたら、T君は﹁いや実に恥ぢいった。あんな中堅作家の作品と並べられて、はじめて僕の下手さ加減が、わかった。きっと僕が、戦地で働いてゐる兵隊だから、そのハンデキャップもあって、掲載されたのだらうが、いや、実に恥づかしい。僕は、H・Aといふ人の戦争の小説を読んで、何これくらゐならば僕だって書けると思ってゐたのだが、とんでも無いことであった。僕は、またしばらく小説から離れたい。実際、今は、穴あらばはひりたい気持です﹂と書いて寄こしました。私は君に貧しい慰問袋を送りました。タオルや下帯の他に唐詩選、上下二巻をいれてやりました。 太宰治﹁このごろ﹂ 昭和15年1月 田中君は、私などに較べて、ずっと上品な、気の弱い、しかも誰よりも正直な人間であります。御母堂に、ずいぶん可愛がられて育ちました。 四年ほどまえ、私がまだ、荻窪の下宿にいた頃の事でありましたが、田中君の御母堂が私の下宿に呶鳴り込んで来たそうであります。運よく私は、その時外出していたので難をのがれましたが、私の代わりに下宿のおばさんが、大いに叱られたそうであります。うちの英光に文学などすすめて、だらくさせるつもりだろう、とおっしゃって、実に怒ってお帰りになりました、こわいお母さんですねえ、と下宿のおばさんも溜息ついて私に報告したのでした。堕落したか、どうか。文学ゆえに、田中君は、いまでもやはり、上品な、気の弱い、しかも誰よりも正直で、そうしてやっぱりお母さんの佳い子になっているではありませんか。文学は、人を堕落させるものではないのです、等といま、ここで御母堂に向かって申し上げるような気持で書いていると、私は邪心無く、愉快になります。 田中君が戦地から帰って、私の家に来た時も、戦争の手柄話は、一言も語りませんでした。縁側に坐って、ぼんやり武蔵野を眺め、戦地にもこんな景色がありますよ、と、それだけ言いました。そうかね、と私もぼんやり武蔵野を眺めました。その日、私に手渡した原稿は、戦争の小説ではありませんでした。オリンピック選手としての、十年前の思い出を書いた小説でありました。 田中君の人間に就いて、読者にぜひともお知らせしたい事項は、もう他には無いようです。田中君は、勇気のある人ですが、これからは、猪突の小勇をつつしむにちがいないと私は信じております。生活は弱く、作品は強く、悠々君の文学を自ら経営し、次の時代の美しさを君自身の責任において展開すべきだと思っております。 田中君は、もはや三十歳であります。 太宰治﹁田中君に就いて﹂ 昭和15年12月 一九四四年の秋。たしか、最初の﹁作家徴用﹂のための体格検査が、本郷区役所かなんかであって、太宰が、不合格になった次の日のことだ。いかに﹁美事に﹂不合格になったかという自慢を聞きながら、銀座、新宿、三鷹と、ずいぶん飲んで――二時ちかく、上水の堤にそった道を、太宰を送りながら歩いている時―― 黒々とした杉木立につつまれた、かなり大きなかまえの、コンクリート塀の門の前まで来ると、太宰は、とつぜん立止って、 ﹁これ、Y・Y・の家だぜ。英光、どうだ﹂ 自分が信じない芸術家を語る時の、太宰の調子があつた。 ﹁ふーン、叩っこわしちゃおうか、太宰さん﹂ 英光は、ウキウキといった。 ﹁ようし、やれやれ﹂ ふざける時のくせで、太宰はわざとらしく唇をひんまげ、重々しい声をだす。 英光は、門の前にはりめぐらされた鉄条網の杭に手をかけ、強引にゆさぶりだし、︵鉄条網の杭というやつは、鉄線がそれぞれの杭にしっかりからんでいて、なかなかぬけるものじゃないが︶隣の杭までズルズルとぬきだすと、バリンバリンと鉄線をはがしてやにわに野球のバットのようにかまえ、門扉を乱打しだした。 ﹁こら、Yの馬鹿野郎。出てこーい。なんだ、こんな家。Yの馬鹿野郎﹂ ふと、気がつくと太宰がいない。 ﹁おや、太宰さんは……﹂ と、ぼくがいうかいわないかに、英光は、まるで憑き物がおちたように、杭をなげだすと、駈けだすのだった。 ずいぶんはなれたところの、暗いものかげにひそむように、太宰は立っていた。 ﹁太宰さん、ずるいよ。自分ばかり逃げだすなんて卑怯だよ﹂ 太宰は、ニヤニヤ笑って、夜目に歯だけが白かったのを、不思議によくおぼえている。 戸石泰一﹁大男の小心﹂ 昭和40年8月 彼はしばしば、自分の小説は事実の記録ではなく、すべてフィクションだと言った。然しこれは、はにかんだ気持から出た意味がある。もとより、小説は根本的に記録とは違うが、田中の小説にはなまの事実もずいぶん織り込んであるようだ。そして優しい心から来る感傷も盛りこまれ、全体の構想も大胆不敵とは言い難い。つまり、文学の上では彼はあまり暴れなかった。或は暴れ方が足りなかった。それ故、逆に、作品を書くことによって自ら傷つくことが多かった。 本年五月、愛人の腹部をナイフで刺した事件が起ったが、あれは意識的になされたものではないらしい。二人とも酔っていたし、ナイフを持っている田中と相手の女人が不運なぶつっかり方をしたのであろう。其後田中は、妻子に対する愛情と、事件の女人に対する愛着と、両者の間に板挟みになって苦しんだ。一方には、アドルムの中毒があった。それらのものから脱け出そうと宮城温泉に一ヶ月近く行っていたが、やはり、心や体の清算が出来なかったらしい。娘の弓子ちゃんを同温泉に連れて行ったのは、田中にとってはせめてもの心やりだったろう。 遂に、彼は自分自身をもてあまして死んだ、ごまかしがきかず、心やさしいため、世俗の重荷にも堪えきれなかったのだろう。もっと図々しい無恥の男だったら、死ななかったかも知れない。太宰の墓の前で自殺をはかったのも、愛情と感傷の故であったろうか。 豊島与志雄﹁田中英光のこと﹂ 昭和25年1月 今年の盛夏、私は、随分久方振りで英光氏を、氏の愛人の家に訪ねた。真夏の真昼、雨戸を全部立て切り、うす暗い部屋の中に、胸をはだけて、たった一人で煽風機と格闘していた。アドルム中毒が直っていないんだなと思った。 醒めているときは、よかった。愛人とも別れて生活を立て直したいと言った。 実際その後、かなりの努力をしたようである。まずアドルムをやめること。今の女のひとと別れること。一軒、自分の落ち着ける家を見つけること。この三つが再起のためのたった一つの方法だということは、英光氏自身知悉していた。単身、東北の鳴子温泉などに出掛けて、そこで仕事もし、再起の手筈はととのったはずだった。 死ぬ半月程前のある日、英光氏は私をたずねてくれて、そのとき、﹁小説新潮﹂に掲載された、﹁酒場にいる英光﹂の写真を示し、﹁自分は、こんな写真まで太宰治の真似みたいになっている﹂と嘆いていた。バーの丸椅子の上に、象の碁盤乗りみたいに、あぐらをかいている写真である。 ﹁さようなら﹂という作品もつくつた。 自害した日の午後、わざわざ私を、家にまで訪ねてくれたらしい。私は生憎留守をしていた。留守居の家内に﹁もう、さようならも書いたし、書くものもない﹂と言つていたそうである。その上、悪いことに、その日彼の訪ねた人が、誰も彼もみんな出払っていたらしい。 田中英光は、薄暮の雑木林の中でたった一人で死んだ。 野平健一﹁太宰治と田中英光﹂ 昭和24年11月 田中がさらに若干の月日をおいて三たびわたしのまえに現われたのは、先にも言ったように戦後のことになる。三度目の接触はいちばん深いものがあった。彼は共産党員として現われたのである。 ︵中略︶ しかしわたしは共産党員としての田中に対して若干の不安が最初からのものとしてあった。彼のナイーブな魂が党生活にたえられるかどうか、彼の文学活動と実際的な政治活動との関係をどう結合させ、どう統一させるか、その点を心配した。旧い人間はその問題をみないちおう踏みこえて来ているが、田中の稀にみる純粋さ、鋭敏な感覚、繊細な神経が、強く割り切ることを要求する政治的活動の中でどう保存され、いきづき、発展するかという題にかるい疑問があった。﹃少女﹄や﹃N機関区﹄など敗戦後の作品が、田中の文学の発展かどうか、わたしにはまだよくわからなかった。ちょうどそういう時に彼がひょっくり訪ねて来たのである。彼は痔が悪いといって長い脚を投出し、座布団を二つ折りにして尻に敷き、荒さんだような風貌になってわたしの前にすわった。 この日は、しかし、何もまとまった話はしなかったように記憶する。おそらく田中は苦しんでいたに相違ない。殆んど家庭をかえりみずに飛びこんだ共産党員としての生活の中から、彼としてはたえがたいものを感じだしていたのだろう。それから何回も訪ねてくるあいだに、彼は言葉すくなくではあるが、組織というものの非人間性や、仲間たちの人間性の問題について、ぼつぼつともらしはじめた。彼はうったえたかったのだろう。きいて欲しかったのだろう。 間宮茂輔﹁英光とのわかれ﹂ 昭和40年10月 私たちは、東北沢の駅前の小さい店でまた呑み、いくらか元気をつけて文潮社へいった。何がしかの金を二人はもらった。また新宿へ帰ろうとして電車に乗ったのだが、この電車は座席がいっぱいで私と英光さんだけがつりかわにぶら下っていた。と、この時、車内に外人客がいて、何やら英光さんにいったことから、英光さんが気にさわったとみえて、とつぜん、ガナリ出した。﹁なんだ、なんだ、こんなもン、ベンさん、こんなもン、なんだ、なんだ﹂といいつつ、ジャンパーのポケットに手をつっ込むなり、いまし方、前借りしてきた札束を車内へ散らしはじめたのである。客たちは、異様な眼で見ていた。英光さんは、気ちがいみたいに咆哮、わけのわからぬことをがなりたて、狂人みたいに札束をまきつづけた。私は、この金は、伊豆三津へ少しは送らねばならない大切な金であるから、粗末にしてはいけないはずだと思ったので、 ﹁英光さん、無茶なこと止めい﹂ といい、電車の床にちらばる札を拾いはじめるのだった。客たちは、私が狼狽して、まるで守銭奴のように、はいまわって拾う姿をゲラゲラ笑いながらみていた。 ﹁ベンさーん、なんだ、なんだ、こんなもん、なんだ、なんだ……﹂ 英光さんは私の顔へまで札を投げてよこした。 田中英光さんが、愛人敬子さんを傷つけたという事件は、それから、間もなかった。私はすでに英光さんがアドルムを飲用していることを知っていた。カストリのコップに錠剤を三十錠ぐらい入れていっきに呑む習慣だった。薬剤による興奮から、気ちがいじみた挙動をするようになったのも、この頃からであろう。 水上勉﹁英光さんのこと﹂ 昭和40年7月 朝鮮での短いセールスマン生活の後、応召して華北に戦う。日華事変当初に勇名を馳せた鯉登部隊︵第二十師団第七十七隊︶である。ある戦闘で田中兵長は右手に機関銃、左手に小銃を握り、敵中に暴れ込んで勇戦奮闘した、と本人が語っていたが真疑の程は定かでない。腕の傷痕も戦地で受けたものだ、といばっていたが、これが嘘であることは前述した。本人も嘘だと承知し、聞く方も本気にしていなかった。そして本人もそれで満足していた。 昭和十五年の正月、二十師団は京城に凱旋し、英光のセールスマン生活が再び始まる。が、それも短く、彼は横浜の本社に転勤になる。庶務課に勤めるが、この頃からようやく小説に身を入れ出した様だ。書類は机上にあるが仕事はしていない。ぺンは忙しく動いているがそれは原稿用紙の枡日を埋めるためであった。時々鼻糞をほじりながら﹃我が西遊記﹄を書き飛ばしていた。 生産挺身隊というものが工場にできた。工員の不足をカバーするために社員が直接生産に従事したのである。魚雷艇の防弾タンクを作る仕事であった。田中は作業服をツンツルテンに着て全身ゴムの真っ黒な溶液だらけになって懸命に働いた。しかし彼の作品は合格率が良いとはいえなかった。真面目だが無器用というべきであろう。すでに食糧のない時分でこの大男はムキになって働いては腹を空かしていた。 戦局は苛烈の度を加え、破局は近かった。 横尾道秀﹁田中の履歴書﹂ 昭和40年8月
昭和5,6年頃 昭和14年1月頃 昭和24年9月
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