山村暮鳥 ︻やまむら・ぼちょう︼ 詩人。本名、土田︵旧姓志村、のちに小暮︶八九十。明治17年1月10日〜大正13年12月8日。群馬県西群馬郡棟高村に生まれる。明治35年、キリスト教の洗礼を受け、明治41年から大正8年まで伝道師として各地を転任。明治37年より短歌を発表しはじめ、明治40年より詩作に転進、旺盛な文学活動を続ける。大正4年、詩集﹁聖三稜玻璃﹂を刊行。萩原朔太郎や室生犀星らの絶賛を得たが、そのあまりに前衛的な詩調は世間の悪評を浴びた。中期には人道主義的作風に転じ、後期には静寂枯淡の世界に入った。詩作の他に童謡、童話、小説なども試み、童話﹁鉄の靴﹂︵大正12︶には当時の童謡、童話への批判が込められ、自伝的小説﹁十字架﹂︵大正11︶には自身の伝道師としての思想の一面が込められている。大正13年12月8日、結核により死去。享年40歳。代表作は﹁聖三稜玻璃﹂、﹁風は草木にささやいた﹂、﹁雲﹂など。 ︹リンク︺ 山村暮鳥@フリー百科事典﹃ウィキペディア﹄ 著作目録 詩・童謡 ‥ 発表年順 童話・小説・戯曲 ‥ 発表年順 エッセイ・その他 ‥ 発表年順 回想録 山村暮鳥様 諸方から雑誌を送つてくださいますが私は自分の懶慢から滅多に目をとほしたことがありませんでした。ところが苦悩者を頂戴してはからずあなたの﹁真実に生きようとするもの﹂といふのを拝見しておもはず涙を流してしまひました。 詩の形式のごときは私にはよく解りません。然しあなたの詩に盛られた純真なお心持はふかく私に徹底しました。私のやうに実生活に安易なものが涙をながしたとまうしたところで、それは寧ろ滑稽といはるべきものかと思ひます。これは他人に申すべきことではなかつたかも知れません。然しあなたは私の心持をもまつたくおわらひ捨てもなさるまいと思つて、あなたの御名誉のために些やかながら一つの Homage を呈したいばかりに此の手紙を書きました。 あなたのお仕事の上に祝福をいのり上げます。 有島武郎﹁﹃梢の巣にて﹄序﹂ 大正10年5月 二十三日しやくりが出始め︵横隔膜の痙攣︶、様々な処置にもかかわらず九日間も止まらなかつた。鈴木医師は盲腸炎と思いこんだらしく二十四日に手術する心算だつたが、衰弱がひどいので見送つた。二十五日に青い水様便を沢山排出した。始めての排便であつた。その後、注射や腹部温湿布などを行い、十月の半ばほぼ平静に過ぎることができた。しかし、食欲はなく、やがて足に浮腫が現われ、十一月中旬再び不調となり、一日二、三回粘膜様のものを交えた軟便があつた。十二月五日の晩はこれまでになく咳きこんだ。熱は高熱。八日には意識多少こん濁、午後死を感じたらしく、二人の愛子を呼んで話をし、ぽんぽんを食べ平野水をのんだ。腸出血があつた最後に力のない顔でにつこりと笑つた。〇時四十分、その臨終の枕元にはふじ子夫人と二人の愛児と辻医師の四人がいるだけであつた。 江戸喬﹁三十年後の診断﹂ 昭和30年12月 私が暮鳥を訪ねたのは彼の死の年の夏であつた。 何故訪ねたかについてはささやかな理由が二つあつた。私が広東の大学にゐた頃に謄写版の詩誌﹁銅鑼﹂をはじめたのだが、その前に三号ほどつづけて個人の詩のパンフレットを出したことがある。どうして暮鳥の住所が分り送つたのだか今ははつきりしないが、そのなかの﹁月夜の火事﹂といふ詩を大変ほめた手紙をもらつた。詩の先輩からもらつたそれは最初の手紙だつた。 私は矢張り広東の或る会社の友人にたのまれてその夫人の里である水戸に行く用事があつた。水戸のその家へ行つた。その時ふと地理的に磯浜を想ひ出したのである。 大洗神社に近い漁師町のはづれの方の小さな家と家との間の細い砂道をあがつて松林を背にした丘の中腹に六畳と四畳半二間ほどの小屋のやうな家があつた。暮鳥はうすい蒲団に寝てゐた。 起きあがつた暮鳥は熱烈にドストエフスキーを論じ出した。老子のはなしもした。しながら時にひどくせきこんだがそれがをさまるとまたやりだした。 春だ 春だ 雨あがりだ ああいい にはじまる詩をよんでくれたりもした。 よみ方はいかにも強く実感が出て﹁ああいい﹂が実によかつた。その後大学でのポエトリミーティングにこの詩をよんだ程だから深い印象だつたにちがひない。それよりも私の脳裡に鮮かに残つてゐるのはその小屋を辞してから靴のズズッとはひる砂道をおり本道に出てふと振り返つたとき、遥か上方に暮鳥はたつてゐて火箸のやうな手をふつてくれたことである。私は帽子でそれに答へた。山村暮鳥との交渉はそれだけだつた。 草野心平﹁山村暮鳥のこと﹂ 昭和22年7月 夜になつて室生さんがどこかへ出た留守に、山村さんと私は室生さんの部屋でやゝ長い時間話しをした。その部屋は百姓家の離れの南に向いた六畳間で、西側の窓わきの壁には濃い葡萄色のベルベツトの壁布が下げてあり、そこには聖母マリアの版刻画が中央に懸り真下の経机に置かれた古風の燭台には大きな蝋燭がともされてゐた。暮鳥さんはマリア像の真向ひになつて籐椅子に腰掛け、ドストエフスキーのことをいろ〳〵私にはなして呉れた。電燈をともさない部屋の中にまで月の光が庭の柿の木の影を投げこんで私達の心境を一層深く砥ぎすませた。 ﹃ドストエフスキーは苦しみましたよ、ほんとにあんなに苦しんで芸術に生きた人はありません……﹄ かう言葉に力を入れたとき、私はふと暮鳥さんがぽろ〳〵涙をこぼしてるのをみつけたのであつた。私はその純情に打たれて自分もまた息づまるやうな思ひがした。 多田不二﹁初めて会つた日﹂ 大正15年2月 暮鳥の詩人的経過は、大体これを三期にわけ得る。第一期は﹁聖三稜玻璃﹂の鋭角時代。第二期は﹁風は草木にささやいた﹂の人道主義的時代。そして第三期は﹁雲﹂の虚淡時代である。 以上三期の変化を通じて、彼の詩才に最も異常な光彩が現はれたのは﹁聖三稜玻璃﹂の時代である。この驚くべき詩集については、既に既に私が雑誌﹁感情﹂で評論し、且つ幾度もその価値を世にすゝめた。当時、尚甚だ因襲的で新奇のなかつた詩壇に於て、かくの如き詩の創造は驚嘆すべき大胆であつた。世間は暮鳥の詩に驚き、呆然として言ふ所を知らなかつた。そして詩壇はいつせいに之れを擯斥し、至る所に嘲笑と悪罵とをもつて向へられた。その世評の一般はかうであつた。難解! 晦渋! でたらめ! ヨタ! 思ひつき! 不可解! ガラクタ! 詩の冒涜者! 遊戯作家! 本質なき詩人! 葬れ! ウソ! およそ明治以来大正の今日に至るまで、ずゐぶん多くの﹁悪評ある詩人﹂も世に出た。しかし山村暮鳥の如く、詩壇の嘲笑と悪罵を一身に負うた作家は無からう。四面皆楚歌の声。よく暮鳥はさういふ意味の感激をもらしてゐた。それが少しも誇張でなく、文字通りにさうであつた。詩人といふすべての詩人は、悉く皆彼を悪評した。暮鳥が唯一の友であり、その同じ詩派の同志たる福士幸次郎君さへも、しばしば暮鳥の敵に立つて攻撃した。 天才が世に認めらず、生前孤独で終るのは、世界の歴史を通じてありがちの事実である。たいていの天才は、世間の嘲罵の中に生を終つて、死後何年かの後に漸くその真価が発見される。暮鳥の生涯がまた天才の常規であつた。彼は寂しく磯浜の煙になつた。しかしその名著﹁聖三稜﹂は、永く日本の詩壇に残るであらう。 当時の世間、否詩壇が彼の詩を理解せず、冷笑して不可解のネゴトと言ひ、でたらめのヨタと言つたのは、今の常識からみて驚くべき無智である。 萩原朔太郎﹁山村暮鳥のこと﹂ 大正15年2月 山村暮鳥は田舎に居て、殆んど文壇的の友人を持たなかつた。ただ僕、室生、福士等の二三人が、平常芸術上の同志として交つてゐた。しかも僕は、人物としての暮鳥を殆んど知らない。ただ一二回の会見で、少しく酒を飲んだことがあるだけだ。そして印象によれば、彼の人柄は田舎臭く、どこか地方の文学者らしい野暮さと、垢ぬけのしない衒気をもつてゐた。そして何よりも、キリスト教の牧師らしい小羊の臭味があつたので、人物としての印象は、僕にとつてあまり好いものではなかつた。彼が詩壇から容れられず、多くの敵を有し、不当の評価の中に生を終つたのは、思ふに恐らく、かうした人物の﹁田舎臭さ﹂が印象に於て人に崇つた為であらう。 しかし我が暮鳥が、あれほどの大家でありながら、あれほど田舎臭く垢ぬけのしなかつたといふことは、一面実に彼の真価のある所で、僕はむしろこの点を高く尊敬する。何となれば、彼の田舎臭は彼の田舎生活から来たもので――だれでも田舎に長く住んでゐれば、人は田舎臭くなる。――よくも長い間、忍んで彼が隠忍してゐたことを考へると、僕も自分の実感から、人事ではなく尊敬と同情が起つてくる。思ふに暮鳥は、断然として自ら信ずる所があつたのだ。実は彼は地方に居て、あらゆる東京の大家を罵倒し、磯浜の一角に自己の大城廓を構へてゐた。 萩原朔太郎﹁暮鳥の詩集に序す﹂ 昭和3年3月 その頃山村暮鳥は掻槌小路の中学校への坂の上り口の二階家に、新婚の富士子夫人と住んでいた。面白いことに、階下は教会、二階は書斎という二重生活をしていた。 この二階には、絶えず土地の文学青年達が訪れた。彼はそこで平べつたい大きな掌をひろげて、散文は拾い集めるもの、詩ははじき出すものと、散文と詩の違いをこう説いていた。︵中略︶ 暮鳥の家は階下が教会で、二階が書斎だと、前にもちょつと書いたが、私はこの階下を敬遠して、いつも二階の客となつていた。暮鳥は聖公会の牧師でありながら、その私に一度も教会︵階下︶へ来ることをすすめなかつた。 私はまた、それを自然のこととして、少しもあやしまなかつたが、或る日ふとどんなことをやつているのかと、好奇心に似たような気持ちで、その席に列してみた。 奥さんのオルガンで讃美歌をうたい、祈祷をしたあとで、普通なら説教だろうが、彼はその時、聖書の一句を読みあげたあと、ロシヤの作家プーシキンの﹁泥沼﹂の話をしていた。これは説教でなく、正に文芸講演である。私はなるほどと意外にも思い驚きもしたが、これが暮鳥の一般牧師と違うところだと、それからはノート持参でこの集りに列なることになつた。 花岡謙二﹁山村暮鳥の思い出﹂ 昭和43年3月 山村君は牧師の聖職にあつたが、やはり牧師らしく内気な、押し静めた処があつた。詩は熱情を持つてゐたが詩人らしさが富んでゐて、その詩人らしさの中にどこか泣菫時代のやうな古さがあり、その古さは好ましく床しい人がらをつくつてゐた。詩の新しいわりあひに何故か山村暮鳥の感じは、山や湖のほとりにある感じの古さであつた。 ﹁山村はちよつとしたことにも影響されるやうだね、だから能く変化︵かは︶るぢやないか。﹂ 萩原朔太郎がかう言つたが、当つてゐると思つた。 未来派の詩をかいてゐたころの山村君は、やはり元気のよい、あぶらの乗つた時だつた。しだれ柳の枝にダンスを感じた詩などには、いまから考へてもえもいはれぬ味ひがあつた。あのころの山村君の感覚をそつくり今の時代の、二十四五の青年の頭にすり変へて見たら、恐らく新しい詩が生れてくるだらうと思はれた。山村君がなほ数年の後まで生きてゐたら、私はこんなことを新しく考へなかつたであらう。 室生犀星﹁山村暮鳥氏﹂ 昭和2年6月 大正三、四年頃であらうか、年も暮れようとする十二月の二十九日に、突然、山村暮鳥は当時田端の百姓家の離れに下宿してゐた私を訪ねて来た。その百姓家の離れは庭に柿の木も芙蓉の花も見られるし、殆ど隣室との関係のない、今どき東京では見られない閑静な部屋だつた。暮鳥は私とは五つ年上であり落着きもあつて、髭を生やし容貌は温和な詩人風であつた。︵中略︶ 暮鳥の寝具の上げ下ろしは、勢ひ私がつとめる役目だつた。この田舎の殿様は、感嘆これ措くあたはざる語調で或る日言はれた。 ﹁毎日夜具の上げ下ろしは大変だね。﹂ 併し私は却つて暮鳥のこの言葉が、不思議に頭にひびいた。何も夜具の上げ下ろしが大変なことはないはずだ、変なことをいふ男だ、私は暮鳥がいつも夜具を自分で上げなくて、奥さんに上げて貰つてゐることに気がつかなかつた。奥さんのある人のことでは、その家庭の様子さへはつきり判らないひとり者である私は、夜具の上げ下ろしが奥さんの役であることが、想像することさへ出来なかつた。それから又、この牧師さんは事ごとにしみじみナゲグがゴトク、私の顔を見つめて言つた。 ﹁君は女の人もゐなくて不自由だね、こんな所に一人下宿なぞしてゐてね。﹂ この言葉の、君はさびしさうだね、といふ、その意味もお世辞のやうに聴えた。奥さんといふ者を持つた人間が、女のゐない家に滞在してゐると、しきりに奥さんといふ者が引き合ひに出され、思ひ返されて来るものらしかつたっだが、結婚はすぐしたくても寄り手のない私は、何故、暮鳥が毎日私をなぐさめてゐるのか、その原因が何処にあるのか判らなかつた。 室生犀星﹁我が愛する詩人の伝記﹂ 昭和33年10月
明治43年頃 大正2〜4年頃 大正12年
■トップにもどる